第三節『龍脈律動』
第三節1項「虚面を纏う」
おかあさま ゆるしてください
そんなつもりでは ありません
おかあさま ゆるして どうか その 本を 捨てないで 燃やさないで
おとうさま どこにいるの?
おとうさま どこにいくの?
おかあさま、ゆるしてください ごめんなさい ごめんなさい
わたしは おかあさまのむすめには なれませんでした
…ふと、彼女が目を覚ます。久方振りに見る夢に、彼女は目覚めた後も暫くはうつ伏せのまま、枕の面を眺めながらぼうっとしていた。夢を見るのは久しぶりだった。
彼女は静かに起き上がる。
普段は後ろで雑にまとめている金髪は解かれおり、肩と背中になだらかに掛かっている。淡い薄桃色のネグリジェから覗く肩から背中に掛けては包帯が巻かれていて、それを通す線の様に、薄っすらと血の赤が滲んでいた。細い身体だったが、身体の線は柔らかく、この体躯で普段は龍と渡り合っている姿はとても連想できない。
そして、彼女は部屋の隅に置いてあった、粗末な木箱に目を向け、それを持ち上げるとテーブルの上に置き、中を探り出す。龍礁への物資輸送が再開され始め、個人宛の手紙や荷物も届き始めており、彼女にもまた、それは届き始めていたが、彼女には『関係無い』品々であったので、とりあえず詰め込んでいた箱だった。
特に目的があった訳ではないが、夢を見たことでふと思い出し、なんとなしに中身を探っておこうと思い立っただけだった。
箱の中には、雑多な品物が並んでいる。殆どは開封されていない。その間に
つい昨日届いていた、緑の葉と紫の花の2種で飾られ、括られた花束と、蠟で閉じられた手紙が入っていた。蝋には彼女の出身国の有名な貴族の家紋が押されている。
まだ未明の青闇の室内で、窓から差し込む月明かりの中、彼女はその手紙を暫く見つめて立ち尽くしていた。
「…………」
「……っ!」
暫く無言でそれを見つめていた彼女が突然、手紙を取り出すと、びりびりと破りだす。そして花束も鷲掴み、部屋の隅まで強い歩みで歩いていくと、そこに在った屑箱に手紙の残骸を叩き込み、左手に持った花束も同じく叩き投げ入れようと、高く振りかぶる。
……しかし、彼女はそうしなかった。花束を振りかぶったまま、暫く動きを止め、その花束を胸の前で持ち直して、弱々しく萎びた様子をじっと見つめる。
彼女の鼻を優しい香りがくすぐった。
彼女は花の名前には疎かった。でも、綺麗な葉と花だな、と思えた。
緑色の綺麗なシダに、紫色の小さな鈴生りの花を添えたものだった。
「………」
彼女は暫くそのまま立ち尽くしていたが、やがてその花束を丁寧に包み直し、それをそっと机の上に置くと、もう着替えてしまおう、とその場を離れた。
―――――――――――――――――――――
「おはよっ、レッタ」
「やあ、おはよ。怪我の具合はもう大丈夫?」
ミリィが朝食の為に中央食堂に向かうと、既に食卓についていたレッタが目に入ったので、歩き寄って声を掛けた。彼女はいつものメモの代わりにパンを持ち、それをちぎっていた最中で、ミリィに応えてからそれを口に放り込む。
「うん、おかげさまで。心配かけちゃったね」
「まはあんはほほほははふぐなほるほおほっては」
「あはは、何言ってるのか判らないって!」
パンを頬張ったままのレッタがミリィの顔を見る。
例の一件のあと、暫く落ち込んでいたようだったが、段々と普段の調子を取り戻してここ2日はいつもの様な笑顔を見せるようになっており、レッタの心配の種を一つ減らしてくれていた。
「……で、それは?」
パンを呑み込んだレッタが、ミリィが手にもっていた花束を見る。
「………ん、まあ…いつものやつ」
「…ああ、そっか…いつものやつ」
「最初は捨ててしまおうかと思っちゃったんだけど、花に罪がある訳じゃないしね」
「でも部屋に飾っておきたくはないし、何処かちゃんとお日様が当たる場所に生けてあげたい、と思ってさ。何処か良い場所無いかな?」
「私にそれを聞かれてもねえ…」
「…おっ、マリー!丁度いいとこに来たわ」
食堂には大勢の職員がおり、入退出を繰り返していたが、その中を過ぎていくとある人物に、気付いて声を掛ける。
声を掛けられたマリー、が怪訝そうな顔をして、食卓に座るレッタと、その傍らに立つミリィの元に近づいてきた。
「なーに?また妙な装備品の実験台になれって言うんじゃないでしょうね?」
レッタがそれは無視して(と言うよりも最初から聞いてない)…ミリィが手に持つ花を差して、マリーに呼び止めた理由を続ける。ミリィはマリーに短く「おはようマリー」と笑いかけていた。
「あんたさ、生け花が趣味だって言ってたわよね。この花を飾りたいんだけど良い場所知らない?」
「聞きなさいよアンタ!…あら、ラベンダーとアディアンタムかしら?…ちょっと萎びちゃってるわね。かわいそう…。誰から貰ったの?」
「あー…それは、うん…知り合い、から…」
マリー、は、レッタが顎で指したミリィが持つ花束を見ると、即座に名前を上げ、ミリィに尋ねてみるが、ミリィは答えを言い淀む。レッタはマリーに対して少しにやりと笑ってみせた。
「さっすが、花にも詳しいわね。おねェさん?」
意味深な言い方だと察したマリー、が、顔をレッタに向け、不機嫌そうに応えた。
「私ならどーせ花にも詳しいだろって思って声掛けたの?それって偏見ぽくない?」
「…ま、良いわ。アタシに任せておいて。この子が一番綺麗に見える場所を見つけてあげるから。アタシのデスクでも良いかもネ」
レッタがマリーと呼び止めた人物は
『アタシをマリーと呼んで、と言い張る男性職員』だった。身長189cmくらいある。
お前の様な女が居るか!みたいな。本名はマルコと言う。
「ありがと、マリー!」
「じゃあ、またねぇ」
パシズよりでけえ手を差し出したマルコに、ミリィがにっこりと笑って花束を渡して、別れを告げて去っていく彼…彼女…ええい、マルコ!の背に大きく手を振った。
マルコは二人と別れた後、歩きながら手元に持った花束を見て、良い匂いね、と思い、その匂いから、自らの知識を呼び覚ましていた。
(アディアンタム。『天真爛漫』『繊細』……あの娘にぴったりね。
そしてラベンダーは……あらヤダ。ど忘れしちゃったわ……何だったかしら)
……ラベンダー。花言葉は『あなたを待っています』『沈黙』『期待と疑惑』。
――――――――――――――――――――――――
ミリィも朝食を摂る為に、給仕の女性に『いつもの』を頼み、レッタの対面へと座る。レッタはミリィの「あさごはん」に目を落とすが、もうそれについてはもう特に感想は述べるつもりはなかった。この膨大な質量が彼女の平均より小さい身体に収ままる胃腸で消化できるのか、という疑念もまた、レッタが解明できない「判らない」事の一つだったからだ。
「……レッタ、大丈夫?ちゃんと寝て…ないんじゃないの?それ」
(パンダみたい……)
ミリィが、レッタの更に濃ゆくなった隈を見て、心配そうに尋ねる。
レッタは半眼で欠伸をして、いつもの事だ、と言う様に笑う。
「いやー手強い相手でさ、まさに『失われた文明の技術』って感じ」
「私に手伝える事があれば良かったんだけど」
「そんなのある訳ないじゃない。
「……うん、判った」
レッタの口調は少し棘のあるものだったが、それは彼女なりの冗句だということを知っているミリィは、微笑みを返した。そして言葉を続けようと口を開く。
「……でも興味もあるし、教えて欲しいな。今は一体どんな計算を――」
―――――――――――――――――
すると、廊下の方から男が二人、何やら言い合いながら食堂に近づいてくる騒ぎが聞こえ始めた。二人はその聞き覚えのある声に、何やってんだあいつら、という感じで呆れた顔を向ける。タファールがティムズの頭に腕を回して、ヘッドロックをかまし、何やら大声で喚いて彼を責めていた。
「…お前なあ!あれはこの世に一冊しかねえレア本なんだぞ!どうしてくれるんだよ!」
「知らないよ!そんなに大切ならその辺に放っておいたら駄目でしょ!」
「そんな事言いつつ、お前がパクったんだろ!言え!ほら!」
「んな事するか!」
レッタがこいつらは心配ではなく頭痛の種だ、という感じで顔を険しくする。
ミリィは少しきょとんとした顔をしていたが、やがてくすくすと可笑しそうに笑い始めた。そして、レッタがタファールに、煩がる子供に対する様に声を掛けた。
「朝っぱらから何騒いでんのよ、今度は何?」
その言葉を聞いたタファールがはっ、と顔を上げて応える。
「…!聞いてくれよレッタ、こいつがさあ、俺の宝物の…本…を捨てやがったんだ」
「だから、宝物なら宝物らしく、ちゃんと閉まっておけば…!」
タファールがレッタに応え、その力が緩んだ隙に、ティムズが彼を振りほどいて叫んだ。
まどろっこしい説明はしない。
ティムズがタファールの、女性の画図を集めた…その…つまり…春を集めた書物…
まあ、エロ本を間違えて捨ててしまっていたのだ。
レッタはすぐに察したようで、もう呆れて物も言えなかったが、ミリィは知ってか知らずか、本、という言葉に興味を抱いた様で、普通に聞く。
「へえ、どんな本だったの?」
「それは……」
「…ティムズ、教えてやれ」
タファールが真顔でティムズに振る。
いつかの二の舞にならない為にも、慎重に答えを探るティムズ。
「ええっ!?」
「ええと……」
「それは、だから……つまり、一種の、芸術の本、です」
ティムズが敬語で答え、タファールが参った、と手を額に当てて唸る。
「……そう、究極の美の粋を集めた完璧な芸術だったんだよあれは!」
「くそお、困った。どうすっかな……」
近くの椅子に座り、両手で顔を覆い、ぶつぶつと呟き続けるタファール。
「あの…もしかしたらまだ焼却されてないだろうし、なんとか探して来ようか」
ティムズは思い切って提案してみる。
今回の彼は本当に落胆している様に見え、流石に罪悪感が湧いてきていた。
龍礁内部の「ごみ」は、近くの焼却施設で定期的に燃やされる事になっている。
というのは建前で、ここまでタファールが執着を見せる「お気に入り」の芸術とは一体どれほどの物なのか、ティムズは少し…いや大いに興味を持ち始めていた。
もしかしたらティムズが未だ知らない未知の世界への扉を開く鍵なのかもしれない。
しかし、そう思った途端、タファールが両手の指の隙間から、鋭くティムズを見つめる眼をまともに見てしまう。普段のタファールとは全く違う、開いた瞳孔、光の無い深淵の様な瞳。まるでこの世の闇という闇の全てを吸い込んだような、本物の黒。
ティムズはその時初めて、彼にビビってしまっていた。すっかり忘れていたが、こんなんでも一応は年上で先輩だった事を思い出す。「いや…すいません」思わず敬語に戻る。
「……それはいい、やめとけ」
怯んだティムズに対し、タファールが静かに呟いて、顔を伏せた。
そんなに人に知られてはまずいことになる特殊な趣味があるのだろうか、こいつは。
そう思ったティムズは、タファールになんと声を掛けたらいいか、と思索していると、ミリィが二人に声を掛けた。
「ほらほら、そんな事より朝ごはんは?お腹空いたからここに来たんでしょう」
―――――――――――――――――――――
隣同士で座ったティムズ、タファールが同じく座り並び直したレッタ、ミリィと対面する形で、朝食の続きが始まっていた。
ミリィが先程言いかけていた事の続きを、サラダと共に口にする。
「で、レッタは今何してるの?」
レッタは既に朝食が終わっているので、食後の珈琲を口にしながら口にする。
「以前と同じよ、素体基部の霊基術式から再逆化性具象術式を仕掛けたいと考えてるんだけど、これがまた複雑のなんのって…あ、美味しいわねコレ、どこ産だろ」
「いいこと思い付いた、アダーカ隊の船をバラして解析してやればいい」
タファールがチーズとトマトの合わせ、を口にしながら口を挟む。
「それで済むならそうしてやりたいけど、知ってるでしょ、建造時期も場所も違うから素体の術構造が丸ごと違うって。正確にマリウレーダを起動するには、マリウレーダ専用の稼働術式が必要なんだけど、その原性霊葉がすっぽり抜けてる状態なの」
レッタが珈琲に気を取られながらも長々と応える。
「何の話か全然さっぱり分かんないや、俺には」
ティムズもスープを静かに口にしながら口にする。初日に飲んでからのお気に入り。
「ん-…口では説明しにくいわね…例えば…」
レッタが盆の隅にあったドーナツに目を付けると、それを取り上げて、ティムズに問い掛けた。
「はい、この真ん中には何がある?」
「………穴?」
「そう、ドーナツの『穴がある』。つまりこの部分にはドーナツは無い」
「こういう事なのよ、確かにそこにあるものなのに、周囲の状況から『無いという事が、在る』ということだけが判っている状態。まあこれだけなら良くある哲学の例話なんだけど」
そう言うと、レッタは窓から入ってくる日差しでテーブル上に出来た影、を目線で指す。
「じゃあ次はこの影を見て。この状態ならまだ『穴が在る』のが判るけど、これを斜めに倒すと…はい、その穴すらも隠れちゃった」
「これを見てドーナツと即答できる人が居るなら相当な天才ね。つまり、この世界は高次元の事象から投影された影にしか過ぎず、影を見ただけでは本来あるべき姿…形だけではないわよ。色、匂い、味、触感、が在り、それは現実には存在していない。
私が今やってるのはそういう要素を、この…投影された影から、その一部だけでも紐解く…その為の計算、そしてまさにそれは法術の真髄、ドーナツの影、っていう話」
レッタが話をするのを、ティムズ、タファールは真剣な表情で聞いていた。
レッタの話の内容を全て理解している訳でもないが、それがどれ程重要且つ大変な事なのかは理解していた。もし実現するなら現在の法術理論の一部が覆る程のことを彼女は今、あっさりと口にしている。タファールも先程までの怒りと落胆を忘れたように、口元に手を当て、レッタの顔をじっと見つめていた。
そして、そんな話に全く関係なく、ミリィはレッタが美味しい、と評価を下した珈琲を自分も味わおうと、カップ口を付けたまま、真剣な眼差しでレッタの話を聞いているティムズの顔をちらちらと見ていた。最初は何気無く、男二人の表情を見比べてさっきの騒ぎを思い出し、「まるで兄と弟みたい」と他愛の無い感想を浮かべていただけだったが、今、前を向くティムズの黒眼に、あの日、あの時の、あの姿、あの眼の光、を見た気がして、少し落ち着きのない様子で椅子に座り直す。ティムズはそれには全く気付いていない様子だった。
――――――――――――
朝食を終え、それぞれが午前中の地上勤務担当へ向かう為に席を立った。
レッタはぶつぶつ計算式を呟きながらマリウレーダの元へ、タファールもぶつぶつと貨物目録の管理の退屈さ、について愚痴りながら倉庫棟へ歩いていった。
同じく朝食が終わり、がやがやと食堂を出ていく職員達に囲まれながら、今日は『研修』もなく、午前中は資料室で過ごそうと考えていたティムズに、ミリィがそっと近づいて、声を掛けた。
「イーストオウル。……くん」
「うん?」
振り返ったティムズの眼、を見ないようにして、ミリィが何かを言おうと口を開くが、一瞬言葉を探している様だった。しかしそれを悟られまいと、その後は努めて冷静な口調と表情で、要件を伝える。
「あー……午前中は、時間は空いてるのかな」
「うん」
「じゃあ、ちょっと、今日は私の仕事を手伝ってほしい。…いい?」
「……えっ、あ、い、うん、ああ、判った」
ティムズも冷静に、男らしく、クールに応える心算だったが、それは大失敗した。
―――――――――――――――――
誰にも見られる事なく、役割を果たせずに、破られ、打ち捨てられた、手紙。
いずれは燃え尽きる定めを持つもの。その内容には、以下の文章が記されていた。
――今朝になって、君が怪我をしたとの報を聞き、筆を取らずにはいられなくなってしまった。すまない。君は返事を寄越してくれないだろうと私は知っているし、その理由も理解はしている。だが、それでも私の心の内を、君に伝えたいという気持ちを、文にしたためたかったのだ。例え君がこの手紙を見る事がなかったとしても。
君が家を飛び出してから、君の母君は随分と気に病んでいる。過去、様々な事があったにせよ、それでも君は母君と血の繋がった唯一の家族なのだ。時には連絡を取って、安心させてやってほしい。
龍礁での仕事はとても危険だ、と聞く。しかし、それは人々の生活に寄与する重要なものであるという事も判る。そして何よりも、君という一人の人間が、自分という者であろうとするために、その中に身を投じている事も判っている…つもりだ。
三年前、君と初めて出逢った時、君はそういうひとなのだ、と直感した。
だからこそ私は君に惹かれた。だからこそ君が家を離れ、龍礁に身を投じたことを責めるつもりにはなれない。そんな君を、愛しているから。そんな君を、理解したいと、心から願っているから。
家の都合と打算による許嫁、という古い慣習は、私も、時代遅れの馬鹿げた物だと思っている。しかし君に出会えたのも、その慣習と、それに囚われた憐れな我々の父母達のおかげだということを、完全に否定は出来ないのが苦しい。
君に対する想いを綴ると、どうしても長々とした冗長な文章になってしまう。
私の悪い癖であり、君が私を避ける理由でもあるだろう。しかし、それもまた、私が私であるということの証なのだ。この気持ちだけは、君と共有できていると信じたい。
次の言葉と、そしてこの文と一緒に贈った花で、君への心配と、応援と、愛情を示させて欲しい。
いつかまた、あの花畑で、君と再び話をしたい。
それまで、いつまででも、待っている。
愛情を込めて。ミルエルトヴェーン=Y=シュハルへ
デルアリューヴ=D=ローエン公
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