第二節9項「反転」

「パシズ、どうしたの……?」


 ミリィが、先程から一声も上げず脂汗を浮かべ、目を見開き、前を見つめ続けているパシズに並ぶと、心配そうに声を上げる。パシズ、ミリィ、そしてティムズと続き、彼等は龍礁本部へと至る道を戻り、馬を駆り続けていた。

 

「…何でもない。それよりも早くこの場から離れなければ」


 パシズとミリィは身を屈め、馬の背中に張り付くように低い体勢で馬を落ち着かせようとしていた。二人はこういう場合に馬を冷静にさせる手段を心得ていたが、まだ乗馬の歴が浅いティムズはそうは行かない。ティムズにも、今、何が起こっているのか、は十分に分かっていた。だからこそ真剣に、真面目に、必死に、馬を御しようと手綱を強く握りしめているが、それが、緊張、焦燥、恐怖、不安、そういったものを入り交じえたものとなり、手綱を介して彼の乗る馬へと伝わってしまい、逆効果にしかならなかった。


「……補足された、右後方!」

 

 ミリィの耳が、最悪の事態、を孕んだ凶音を訊き、叫ぶ。眼はまっすぐ前を向いていた。パシズも同じくその音を捉え、歯ぎしりをする。


 ――速い!


「……!?」

 

 早駆けの蹄の音、それも三人分が絶え間なく響く中で、その音を捉えたパシズとミリィの背中を見るティムズ。しかし感心も感嘆もする間など無い。次の瞬間、三人の斜め後方から、不気味な響きが迫ってきたのがティムズの耳にも入り、手綱を握る拳を一層強く握りしめた。


 ザザザザザザザと間断の隙なく梢の震える音が、その音量を増していく。

 先程の屍を目撃した瞬間すらも凌駕する恐怖が、ティムズの背筋に走る。


 ティムズの様子に気付いたパシズがそれを察知し、叫ぶ。


「振り返るんじゃない!馬に集中しろ!」


 しかし既に遅く、ティムズの首は動いていた。自分で動かしたいと思った訳ではない。その音の正体と思われる木々の震えが目視できる範囲にある事を知り、「ひっ」と小さく悲鳴を上げたティムズの感情は一気に温度を下げ、それを敏感に感じ取った彼の乗馬は完全に混乱状態に陥り、馬と自分とを制する精神力を失ったティムズを乗せたまま、脇を滑るように流れる木立の隙間へと飛び込み、消えていった。それは事もあろうか、接近中のF/II龍と思われるもの、の進行方向で、木々の揺れはティムズ達が消えた方角に進路を変えた様だ。


 

「……!」

「!」


 ミリィとパシズがそれを振り返り、顔を見合わせて、眼言がんげんを交わす。

 すぐにパシズはミリィの紫の瞳に宿る眼光が、これから彼女がやろうとしている事を告げている事に気付いた。留めようと口を開くが、それでも彼女には遅すぎた。

「ミリィ、やめ…!!」


 ミリィは軽やかに乗馬から飛び上がると、背後へ回転しながら着地した。

 慣性で身体はまだ前に進もうとしていたが、腰を落として転倒を防ぐ。

 接地の跡がミリィの足元に伸びる。そして顔を上げ、胸にかけていたゴーグルを掛けると、パシズに「その子をお願い!」と叫んだ。彼女の乗馬のことだ。


「ふざけるな!対龍装備もなしでF/ II相手など!」


 パシズも馬を止め、ミリィに怒号を上げる。こいつは…!この娘は!

 しかしパシズが口を開いた瞬間にはもう、彼女はもう身を翻してティムズ達が消えた木立へと飛び込んでおり、その跡が揺れているだけだった。



 ―――――――――――


 ティムズはどうにか不安定な走行を続ける馬にしがみついていたが、少し木々が途切れた場所で、馬が木の根に足を掛け転倒し、その拍子に地面に放り出された。

 

 馬の身体に潰されなかっただけ幸運だったが、馬が足掻き、立ち上がってその場から逃げ去ろうとした際、落下の衝撃に呻いていたティムズの頭のすぐ脇に落ちていた枝を、馬の蹄が踏み抜いたのを横目で目撃し、ティムズはまたも冷や気を感じる。少しでも横にずれていたら、粉々になった枝はティムズの頭部の末路だっただろう。

 

 一瞬龍の事など忘れ、命拾いしたと安堵した束の間、すぐにまたあの『音』を聞き、ティムズは跳ね起きる。身構えよう、と脳が命令して、身体が反応する前にはもうそれは木々を飛び出して、ティムズに大口を開けて迫ってきていた。

 

 間断なく続く状況がティムズの思考を焼く。敵の正体を観察する時間などない。

 大口に並ぶ歪な牙の列を見る。あれが数舜後には自分の身体に食い込むのだ、と頭で理解した時には既に、ティムズの身体は、ただ、生きたい。と既に動いた後だった。



 ―――――――――――――――――――――


 ティムズが横っ飛びでF/ II龍の急襲を奇跡的に回避した瞬間、ミリィもその場へと飛び込んできた。ミリィは、回避の勢い余って地面を転がるティムズと、同じく

 捕食の機会を逃して地面を滑るF/ II龍を同時に眼に捉える。


 護身用の装備しかない今のミリィに、まともにF/ IIクラスを相手することは無謀だった。

 ティムズを連れ、共に跳躍符で逃げるしかない。しかし彼は未だに跳躍符の制御が不完全だ。一度でもミスれば、死ぬ。パシズが応援を連れて戻ってくるのも待てない。


 ……だが、自分なら。一人なら。


 ―――――――――


 地面に再び身体を打ち付けたティムズが、顔だけを上げてミリィを見た瞬間には、彼女はもう行動を起こしていた。ミリィが開いた掌に、術符を経由しない簡易的な光術を開く。ティムズを襲った龍が頭を振り、体勢を立て直すと、その頭を上げ、突然の乱入者…と言うよりも、その掌に在る光を見つめ始めた。


 ティムズも振り返り、自らを襲った龍のその全貌をその時やっと知る。

 パシズの言う、馬鹿でかい蜥蜴…としか言いようのない姿だった。

 これは龍だ、と判断出来る様な材料は無い。ただ……ただ巨大、いう点だけが、それでも、これは、龍なのだ、とティムズにその存在感で告げていた。それは、八エルタ(メートル)程の長い淡墨色の体躯を持ち、太い四本の脚でしっかりと地面を踏み、顔だけを持ち上げて、突如乱入してきたミリィ…というよりもその掌にある光、に気を取られている様だった。


「私が相手する。逃げて」


「え?でも」


「良いから。大丈夫。早く」

「…………」

 小声で囁くミリィの言葉に戸惑うティムズ。


 逃げるなら共に、だ。今、彼女の手元には訓練を前提にした軽装の護身装備しかない事はティムズにも判っている。


 だがミリィのゴーグル越しの目は、ティムズを冷たく見下おろして。


「……身の程知らず」


 そして息を吸うと、龍に向かって大声を上げた。


「……こっちよ!!」


 ミリィの大声に反応したF/ II龍がぴくり、と反応し、更に頭を持ち上げた。

 ミリィは掌に携えた光を持ち上げる様に掲げ、ゆっくりと左右に振る。

 F/ II龍の頭部がそれに誘われ、その軌跡を追い始めた。それに合わせ、ミリィはF/ II龍を見据えながら、じりじりと間合いを取る様に後ずさり……。


「…………」

「……ッ!」


 そして、脱兎のごとく駆け出した。


 ――――――――――――――――



 ティムズは、ミリィを追ってこの場から走り去ったF/IIの移動音が遠ざかっていくのを呆然と聞いていた。


 ……状況が、まだ、完全に把握できていない。

 森牛の屍が横たわるあの場でパシズが撤収を叫んだ瞬間から、まだ5分と経っていないはずだった。その間に何度も肝を冷やし、死線を踏み、そして今は、風が木々の梢を揺する音が満たす森の中で座り込んでいる。


 そこに、ミリィを追って、彼女と同じ様に跳び込んできたパシズが現れる。


「ミ……ティムズ!平気か?」「……ええ、でも、ミリィが……」


 震えながら青冷めているティムズの弱々しい声に、パシズの顔からも一瞬、血の気が引く。まさか?


「何があった!?」


「俺、を、助けようと、囮、に」


 自らの身体を抱くように震えていて、それでもパシズに答えを返そうと声を絞り出すティムズに対し、パシズはその肩に手を置くと、普段の厳しさとは全く違った、慈しむ様な口調で語り駆ける。しかし、ティムズは無言で震えたまま、何も応えない。


「…初めて遭遇したんだ、そうなってしまうのが当然…すまない、俺のミスだ」

「ここではいつも予測不能なことが起きる、そのものこそを予測しておく、というのが俺たちのモットーだったはずだった。それを俺も忘れていた」


「………」


「ミリィはどちらへ向かった?…私の…装備、があれば、対処も可能かもしれない」


 パシズの口調が普段の調子に戻るが、少し言い淀みを含んでいた。しかし今のティムズはそれに気付く事もなく、ミリィの向かった先を答えようとした。しかし声が出せる状態ではなく、ティムズは俯いたまま、震える指で、彼女と…龍が向かった方角を差す。


 パシズが軽く頷き、ティムズに続ける。


「元の道に馬を待たせて来たが、逃げてしまっているかも知れん。ヤツがミリィを追って行ったのなら、ここでも暫くは安全だろう、待っていろ」


 そして、パシズは、その場に震えたままのティムズを残して、自分もまた、ミリィを追う為に、駆けだして行った。




 ……パシズは自分が真剣に怒った時に『口調が切れ切れになる』ことを忘れていた。

 先程のティムズの口調が全く同じ理由からだったことに気付いていなかった。

 ティムズは恐怖だけで震えていたのではなかった。同じだけの…怒り、から、彼の人生でここまで怒ったことはない程に、震える程に、頭に血が上っていた。



 ――――――――


「もうやだ、こいつ!しつこいっ!」

  

 全速力で木々の間を跳ぶミリィの、薄い王黄色の服と、金髪が旗目く。


 身体を左右にうねらせ、前後脚を交互に前後し、這う様に追ってくるF/II龍は、ミリィへの追跡を諦める気配がなかった。パシズがF/IIクラスと予測したこの龍は、ミリィも知る科莫多龍に近い種で、その中でも、極めて巨大、狂暴なものであり、明らかに人的被害な懸念される『3項:アクティブ』に該当するものと思われた。


 木々の間をジグサグに駆け抜ける、基本回避機動の最中に腰のワイヤーリールからワイヤーを解き放ち、それが次々と木々に巻き付いていく。そのワイヤーからぼうっと光が灯り、そこを通過したF/II龍がその衝撃に怯んだ隙に追跡補足圏内から離脱する…つもりだったのだが、F/II龍はそれを次々と容易く断ち切り、噛み切り、若木を薙ぎ倒し、踏み潰しながら、ミリィを追い続ける。

 

「(……まずいな、このままじゃ……)」


 跳躍術符の稼働限界まで跳び続けていても、この龍は追跡をやめないだろう。

 なんとか龍との距離を若干引き離し、ミリィが跳躍しながら一段深く、ぐっ、と踏み込むと、ブーツの跳躍符から漏れる通常の青い術式光が紫色に変化して、『宙を蹴って』ミリィが二跳び、三跳びと、次々に空中へと跳ね上がっていく。跳躍術を応用発展させた翔躍、と呼ばれるものだ。

 

 ミリィの姿が、緑が一面に広がる、まさしく樹海、の上空へと舞い出でる。

 澄み渡った空の青と、森の緑の絨毯の狭間で、ミリィの姿影が点となって浮かぶ。態勢を崩しながらも、短い滞空時間の中で、広大な緑の平面を素早く見渡し、見つけなければならないもの、を捉える為に目を走らせる。

 上下左右に回転する視界の中で、彼女はそれ、を見つけた。


(…あそこ!)


 森が途切れている。更に建物の跡らしき影を捉えた。恐らくは村落跡だろう。

 態勢を立て直す為に幾度か回転し、再び地面に降りたミリィが、今目にした場所へ向かう為に、大きくカーブを描きながら跳躍の軌道を修正する。


 ―――――


 森を飛び出し、古い石造りの小さな遺跡が点在する、且つては通りだったらしい広場に駆け込んだミリィは、その中央部で止まり、自らが飛び込んできた森の木立を振り返った。


 ここであれば360度の視界があり、不意打ちを防ぎ、跳躍符の利点を最大限に生かせる。強さの本質とは、単純な力ではなく、自身が持つ資質を最大限生かせる状況を作り出すことだ、というパシズの教えだった。


「………」


 はっ、はっ、と息を荒げていたミリィの呼吸がゆっくりとした深呼吸に変わる。


 ……。


 ……。


 襲撃の兆候は何も見られない。しかし、あの気配は消えてもいない。

 恐らく視線の先の何処かで身を潜め、機を伺っているのだろう。

 ミリィは静かに目を閉じ、小さく、しかし強い意志を以て呟く。


「…お願い、もう、来ないで」


 それは、弱き者が助けをを乞う哀願ではなく、追ってくる者の為の言葉だった。


 ――――――


 ミリィを援護する為にあとを追っていたパシズは、森の中で蹲っていた。

 

 完治したはずの左足が再び、激しく痛みだしたのだ。

 跳躍を止め、樹木に寄りかかり、苦悶と焦燥、怒りに表情を歪めている。


「くそがっ!何故だ…!治まれ…ッ!」


 身体の傷や痛みを治癒する"療術"を不得手とするパシズが、それでもせめて痛みを抑えようと必死に術式を操り、左足に向かって怒鳴る。無駄ではない。言葉そのものが持つ力は言霊となり、それを制御するものが霊言、そして霊葉なのだ。


 パシズが痛みと闘っていると、後方の木立ががさがさ、と揺れる。

 近づいてきた者の正体にすぐに気付いたパシズの表情に困惑の色が浮かぶ。


 そして、パシズの前に、後を追ってきたティムズ=イーストオウルが息を切らしながら…しかし、つい今さっき見た恐怖に吞まれた青年、ではなく、ほんの、ほんの僅かの間に変貌し、決意の表情を浮かべた一人の男、として、姿を現した。


 ―――――――――――


 場面は若干、遡る。


「くそぁあああァアアぁぁッッ!!あああァあ!」


 ティムズは拳を地面に何度も撃ち、有らん限りの声で咆えた。


「……ッ!くそっ、くそ…ッ!!」


 身体はまだ震えていた。眼には涙すら浮かんでいる。

 恐怖に吞まれた自分と、それに向けられたミリィの眼。失望の言葉。

 全てへの感情が交じり合い、叫ばずにはいられなかった。

 自分は決して望んでここに来た訳ではない。選んだ訳でもない。

 自分なりに、この環境に、それなりに、対応してきていたという自信は、この僅か

 数分の間に吹き飛んでいた。ミリィの言う通りだ。自分は身の程を知らなかった。


 そして、この一瞬の間に、ティムズの、何か、が反転した。


 怒りにも、恐怖にも、後悔にも酔っている時間なんてない。

 一刻一刻の間にも、状況は動き、進んでいる。

 物語の中で巡る長い思索など、この場では無意味なのだ。

 盤上の駒の様に、一手一手に時間を掛けてはいられない。

 その瞬間に、正しいと信じる事に、心を賭けるしかないのだ。


 だから俺は立つそして走るミリィ達の助けになるんだ足手まといになるかもなんてもう考えるな立てそして駆け出せ身の程知らずなんて言わせないあいつだって女の子だそれなのに俺は今やるんだ俺だってやれることはあるはずだ跳べ術は使える使えないなんてかんがえるな動けそして走れ怖い死ぬいやそんなことはないじかんはないいけはしれ、そしてその為に



 ティムズは、立ち上がった。

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