椿が薫に出会ったのは、真っ暗な森の中に(両親と妹の眠っている)実家をひっそりと一人で抜け出した椿が足を踏み入れてすぐのことだった。

 薫は人間の言葉をしゃべる黒い猫を見て、びっくりしている椿に向かって『お家に帰りなさい。もうこんなに遅い時間だし、この場所はたとえ太陽の出ている時間であったとしても、あなたのような年齢の子供が、一人で足を踏み入れてはいけないところなんですよ』と優しい声でそう言った。その優しい(まるでお母さんのような)藤野薫先生そっくりの声を聞いて、椿は落ち着くと、なぜかその不思議な人間の言葉をしゃべる黒い猫、藤野薫の存在を、すごく簡単に受け入れることができた。(あるいはその黒い猫の名前や声が椿や楓の大好きな藤野薫先生と同じ名前だったから、すごく安心した、あるいは信頼できると思った、と言うこともあるかもしれない)

「……いやだ、楓を見つけるまで、絶対に帰らない」

 あなたは誰? とか、もしかしてあなたはお化けとか、幽霊とか、もののけ、とかそう言った存在なの? とか、あるいは自分はもしかして夢でも見ているのだろうか? とか、藤野薫先生のことは知ってる? とか、いろいろと言ったり、聞いたり、考えたりしたいことがあったのだけど、(でも、そんなことは、楓を見つけるという目的の前では、実際にはどうでもいいことなのだ。きっと)そんなことは全部すっ飛ばして、『一番大切な自分の正直な気持ち』を、薫に向かって(とても真剣な顔をして。とても強い意志の宿った瞳をして)そう言った。

 その絶対に引き返さない、と言う強い意志を宿した椿の目を見て、『……ふうー』と小さなため息をついてから、『わかりました。では、この暗い森の中を私があなたのことを道案内しましょう』と、人間の言葉をしゃべる黒い猫の藤野薫はにっこりと笑って椿に言った。

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