道が左右にわかれている。

 どっちの道が正解だろう? (あるいはどちらも間違いの、偽物の道だろうか? 正解の道なんて、どこにもないのかもしれない)


 ……いい匂い。雨の匂い。それから、森の木々の匂い。……ううん。そだけじゃない。なんだろう? すごくいい匂いがする。甘い匂い。……これは、君の匂い、かな?

 くんくんとその小さな形のいい鼻を動かして、椿は思う。

「……君は、もうすぐ近くの場所にいるのかな?」

 目を開けた椿はそんな独り言を言う。

 でも、その椿の独り言に、『人の匂いなんて、人間である君にこんなに遠い場所から嗅ぎ分けることなんてできるわけないでしょ? 常識的に考えてね』と、そんな言葉を返す、少し変わった(常識的ではない)存在がいた。

 その存在は椿の肩の上にいる『一匹の言葉をしゃべる黒い猫』だった。

 その不思議な黒い猫の名前は『藤野薫(かおる)』と言った。

 とても立派な人間の名前だった。黒い猫本人? が、『あ、怖がらないで。私の名前は藤野薫です』と言って、腰を抜かしてびっくりしている椿自身に名乗ったのだった。それも、なぜかちょっとだけ楽しそうな声で。くすくすと笑いながら。(そう。この不思議なしゃべる黒い猫は笑ったのだ。まるで本物の人間のように)

 人間の言葉をしゃべる不思議な黒い猫の名乗った名前は、偶然なのか、椿と楓の担任の先生である藤野薫先生とそっくり同じ名前だった。(漢字の説明もしてくれたのだけど、それも先生と同じ漢字だった)それだけではなくて、よく声を聞いてみると、その声は藤野薫先生とそっくり同じ声だった。(その奇妙な偶然に椿は最初、すごく驚いた)

「そんなことない。わかるよ。この匂いは確かに楓の匂いだよ。絶対にそうだよ」と自分の右の肩の上にいる薫を見て、白い歯を見せてにっこりと笑って椿は言った。

「大好きな人の匂いなら、わかるものなんだよ。こうして、ずっと遠くに離れていてもね」

 と正面を向いて椿は言った。

『そういうものなの? 人間って?』と、あまり興味もなさそうな顔をして、小さなあくびをしながら薫は言う。

「そういうものだよ」

 と、自信満々の表情で、椿は黒い猫の薫にそう言った。

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