2巻 第26話 牡蠣のあれこれ
今日は誰も来ないな、と思いながら嘉穂が一人で飲んでいると、見知った顔が居酒屋『竜の泉』に入ってきた。
「あれ、二ノ宮さん」
ここでよく見る顔、看板娘の一人である二ノ宮睦美だった。
「あら、片菊さん、いらっしゃい。って、今日は休みなんで店員じゃないんですけどね。牡蠣が食べたくて、つい来ちゃいました」
あはは、と笑って、睦美は嘉穂とは一つ席を隔てて座った。
もしかしたらいずれあとの二人が来るかもしれないと思ったのかもしれないし、今日はプライベートだから必要以上に話しません、という意思表示なのかもしれない。いずれにしても、この距離感の取り方は、嘉穂は嫌いではない。
「そういえば、客で来たときに会うのは初めてでしたっけ」
「二ノ宮さん、結構来るんですか? 勤め先に来るのって、仕事思い出して楽しみきれなかったりしません?」
「来ますよー。まあ、もちろん仕事を思い出しちゃうことも多いんで、別のお店を使うこともありますけど、今日は牡蠣フライでビールを飲みたくて」
確かに、嘉穂が知っている他の定食屋やとんかつ屋でも、冬季の牡蠣フライシーズンが始まっている。
牡蠣は種類によって旬が違う。岩牡蠣は夏場が旬だが、真牡蠣は冬の味覚である。
「牡蠣って、以前他のお店でちょっと美味しくないのに当たっちゃったことがあるんですよ。でもほら、自分が勤めてるお店なら、どんな仕込みや調理をしてるかこの目で見てるでしょ」
なるほど、と嘉穂は納得した。
そういう意味では、客からしても、従業員がプライベートで訪れる店、というのは信用できる一つの要素なのかもしれない。
「美味しくないだけならともかく、牡蠣は中りますもんね」
食中毒が怖いのは夏だが、冬場でも牡蠣の食中毒はありうる。
冬はノロウイルスが怖く、これはもう牡蠣の管理などの問題というより牡蠣が生育した海域の問題なので、流通業者や飲食店が努力してどうにかなる問題ではなかったりする。冬の牡蠣料理は加熱したものが主体なのはそのせいである。
「そうなのよ。今はまだいいけど、年末年始の宴会シーズンにお腹壊しました、じゃホント洒落にならないから。まあ、火を通して食べる分には問題ないと思いますけどね」
睦美は店員の沙也香を呼び止め、牡蠣フライとビールを注文し、カウンター越しにベテラン料理人と「どれほど牡蠣フライを食べたいか」という話に花を咲かせ始めた。
──牡蠣フライか……。
嘉穂も牡蠣は大好物である。シーズンが始まったのなら、食べておくのは悪くない。
嘉穂としては、牡蠣とホタテは生より火を通した方が好みである。そういう意味で、牡蠣フライは大変に好ましい食べ物なのだが、目の前の日本酒を見やれば、ちょっと相性がよくないかもしれない、と苦笑してしまう。
揚げものならば、睦美が言うようにビールがいい。あるいは、ハイボールか。
メニューを見れば、『本日のオススメ』には他にも牡蠣のメニューがあった。
ホウレンソウと牡蠣のソテー。
焼き牡蠣。
牡蠣と餅の揚げだし。
どれも美味しそうだが、目を引いたのが、もう一つ。
牡蠣の天ぷら。
同じ揚げものでありながら、フライとはまったく違う味わいの逸品は、当然合わせるべき酒も違ってくる。
「すみません、牡蠣を天ぷらでください」
「頼むと思った」
一つ離れたとなりの席から、睦美がそう言って笑った。
よく行く店でホールを取り仕切っている店員に顔を覚えられたら、しばらくしたら好みまで把握されていると思った方がいい。まあ、把握されて困ることはなく、むしろオススメの酒や料理を教えてもらえるなど、ありがたいことしかない。
「私、牡蠣フライはお酒よりごはんで食べたいんです」
笑って、嘉穂もそう返した。
「わかります。ごはんでも美味しいですよねー」
先に頼んだ睦美の牡蠣フライがやってきた。
「じゃあ、お先に」
そう言って、睦美はレモンを搾り、添えられた千切りキャベツもろともにソースをかけて、ビール片手に牡蠣フライを張り始めた。
ほどなく、嘉穂の牡蠣の天ぷらも運ばれてくる。
早速、塩をつけてパクリ。
さくりとした衣を歯が抜けたら、肉厚でプリプリの感触が伝わってくる。熱さと、海のミルクなどと表現される濃厚さ。
磯の香りとでもいうべき独特さがあり、好みが分かれる食べ物ではあるが、その香りが日本酒と出会ったときに劇的な相乗効果を発揮するのだ。牡蠣フライほど衣が厚くないため、牡蠣の味をダイレクトに味わうことができる……気がする。
火が通っているが、通り過ぎていないというか、しっかり中は熱いのに、生っぽい柔らかさが残っているのはさすがの一言だった。
「フライと天ぷら、衣をつけて揚げるってところまで同じなのに、どうしてこんなに違うのかしら……」
ぽつりと呟くと、睦美も、
「ホントですよねえ」
と呟いた。
「……たった一つの要素の違いでも、まったく別の料理になるということは少なくありませんよ。刺身も、切り方一つで印象が変わることはよくあります」
カウンターの中から、厳つい店主の竜一郎が言った。
「……衣が違えば吸う油の量も食感も変わってきますからね。そりゃあ全然違う味わいになりますよ」
なるほどなあ、と嘉穂はうなずき、そしてまた牡蠣の天ぷらを囓り、すぐさま日本酒を口に運んだ。
そういえば、つい先日クラフトビールを飲んだとき、オイスタースタウトの話を聞いた。
牡蠣の養殖が盛んなアイルランドでは、生牡蠣と常温のビールを合わせるのが定番で、そんなところから生まれたのがオイスタースタウトなのだという。
「ビールと牡蠣、か……」
なんだか睦美が楽しんでいる組み合わせが妙に羨ましくなってきた。
──この日本酒が終わって、お腹の具合によっては、ビールに切り替えて牡蠣フライもいいかな……。
そんなことを漠然と考えながらも、嘉穂は目の前の牡蠣の天ぷらに意識を戻し、それを味わうことに専念し始めた。
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