2巻 第25話 クラフトビール


 その店を見つけてきたのは、貴美だった。

 いつもと少し違う道を通勤で使ってみて、たまたま見つけたのだという。

「だって、お店の名前が『ビール醸造所』ですよ。なんか窓から工場みたいなところを覗けるようになってるし、気になるじゃないですか!」

「あー、マイクロブルワリーね、それ。この辺りにもあったのね」

「マイクロブルワリー? って何?」

 首を傾げる美月に、嘉穂は、

「ブルワリーはビール醸造所のこと。マイクロブルワリーは大手企業とかじゃなく、小さな規模でビールを造っているところのことね。造ったビールを飲ませるスペースを併設したりしているところも多いらしいから、そういうお店なんじゃないかしら」

 と説明した。

「へぇ、なんだか面白そうねぇ」

 こうなってしまえば、「じゃあ今度行ってみようか」という話になるのは、もはや必然だった。


 その店は、レンガ造り風の洒落た喫茶店を思わせる外観をしていた。

 屋外にちょっとしたテラス席があり、それもまた喫茶店っぽい。『醸造所』と看板に記されていなければ、きっとお酒を飲ませる店だとは思わなかっただろう。

 テーブルが二つだけのテラス席の横には、貴美が言っていたように醸造所を見られる大きめの窓があり、銀色に光るいくつものタンクなどが偉容を誇っていた。

「オシャレすぎるお店って、ちょっと気後れしちゃわない?」

 尻込みする嘉穂の腕をんで引っ張ったのは美月だった。

「そんなことないよぉ。むしろ、こういう感じなら女性のお客さんが多そうで、逆に安心できるんじゃないかしら」

 そしてそのまま、美月は嘉穂を引っ張って店内に足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの中から、若い店員が穏やかに言った。店員の制服も洒落ていて、全員がコックコートを思わせる白の服を着て、チェック柄のキャスケット帽を被っていた。

 店内は狭く、数名が座れる程度のカウンターと、奥に四人がけのテーブル席が三つほどしかない。奥のテーブル席では女性の二人組がビールを飲んでいたが、今のところ他に客はいない。

「テーブル席とカウンター席、どちらになさいますか?」

 若い店員に訊かれて、美月は店内を見回し、カウンターの中、若い店員の目の前にある四つの注ぎ口に注目した。

「そこでお兄さんがビールを注いでくれるの?」

「はい、裏の醸造所のタンクと直接つながっているんですよ」

「じゃあ、カウンター席がいいなぁ。目の前でお兄さんが注いでくれてるところを見たいから」

「あんまり注目されると緊張してしまいますが、では、カウンター三名様で」

 はにかんだように笑って、若い店員は三人分のお通しの用意をし始めた。

 そんなやりとりを見て、嘉穂と貴美は顔を見合わせた。

「これがモテる女のコミュ力なのね……」

「はい。惚れられる率や勘違いされる率が高いのも納得です」

 ともかく、席に着いて注文の算段である。どうぞ、と出されたお通しは枝豆。ドが付くほどの定番だが、ビールを飲ませる店としては正しい。

「ここで造っているビールは、エール、ブラック、ホワイト、季節で変わる追加一種の四種類なのね」

 メニューを見ながら、嘉穂は言った。大手メーカーのビールやビールを使ったカクテルも少しは置いているが、メニューのレイアウトが明らかに「この四種類を飲んで」と言っているようだった。

「見てください、嘉穂さん。ブラック、近くの漁港で水揚げされる貝を使ってるって書いてありますよ!」

 驚いている貴美に、若い店員は、

「本場のイギリスにも、オイスタースタウトという牡蠣を使ったビールがあるんですよ。それを参考にしているんです。日本でも、牡蠣を使ってクラフトビールを造っているところはたくさんありますよ」

 と説明してくれた。

「ホワイトも地元産のニンジンを使ってるって書いてあるわねぇ。地元密着型ビールって感じなのかしら」

「じゃあ、私はブラックにするわ」

「それなら、私は基本の位置づけっぽいエールにします!」

「うーん。季節の栗も気になるけど、まずはホワイトかしらねぇ」

 当たり前のように、一口ずつシェアすれば三種類を味わえる、という共通の認識が無言のうちに形成されている。

「かしこまりました」

 若い店員は、手際よくそれぞれのビールをグラスに注ぎ、泡を手早く整えて、嘉穂たちの前にビールを出した。

 嘉穂はその名の通り真っ黒い液体が満たされたグラスを手に取った。泡までが、ほんの少し黒みを帯びているように見える。

 口に含めば、まるでコーヒーのような香ばしさが鼻に抜けていく。ビールの苦みが相まって、そう感じるのかもしれない。

 とはいえ、味はしっかりビールであり、ハッキリわかるほど貝の味や風味があるわけでもなく、むしろ馴染み深い香りのせいかとても飲みやすい。

「美味しいわ。まるで深煎りのコーヒーみたい」

「ホントですか? こっちのエールは、グレープフルーツみたいな香りですごく美味しいです」

「あたしのホワイトは、マンゴーみたいな香りでとっても甘い感じがするわ。ビールで甘いって思うなんて、なんだか不思議」

「日本で流通しているビールの大半は、ラガー系なんですよ」

 若い店員が言う。

「製法なんかもいろいろ違うんですが、ラガーはすっきりクリアで喉ごしがいいのが特徴ですね。それに対して、エール系は様々な味や香りがあって、まるで別物なんですよね」

「ホントに別物ねぇ」

 一口ずつ他の二人と飲み物を交換して味わってみれば、貴美が頼んだエールは柑橘系の爽やかな香りと、かなりきつい苦みが特徴的だった。嘉穂の味覚では、グレープフルーツよりはオレンジピールに近い気がする。

 しかし、強い苦みがありながらも飲みやすさは損なわれておらず、ついもう一口、もう一口、と飲み続けたくなる味だ。

 一方、美月がマンゴーのようだ、と評したホワイトは、バナナにも近い甘い香りを持っていた。味は甘いわけではないのに、香りだけで甘さが感じられてしまう。

「知り合いに、休日のたびにマイクロブルワリーを巡ったり、ビールの催しに出かけていく人がいるけど、なるほど、これだけ個性が出るとなると、そうしたくなる気持ちがわかるわね」

「そうですね、日本だけでも相当な数がありますし、海外で本場のクラフトビールを、とまで考えると、一生かけても巡りきれない素敵な趣味だと思います」

 底なし沼のような趣味である。

 とはいえ、日本酒だってワインだってそういう意味ではたいして変わらない。

「栗のビールも気になりますけど、何かおつまみを頼みませんか。私、フライドポテトが食べたいです」

「あ、いいわねぇ。ビールには絶対合いそう」

「何かサラダも頼みましょ。スモークサーモンのサラダか、チーズたっぷりのシーザーサラダなんか美味しそうね」

 そんな会話を交わしながら、笑顔で沼に沈んでいける側の自覚がある嘉穂は、これはほどほどにしておかないと危険かもしれない、と自嘲するのだった。

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