2巻 第20話 お通し
第二十話 お通し
居酒屋はいつでも賑やかで騒がしいものだが、その喧噪さえもつんざく怒声に、嘉穂たちは思わず会話をやめて其方へと顔を向けた。
見やれば、アングロサクソン系の男性が、英語で店員の沙也香に何かを大声でまくし立てていた。沙也香も英語で応対はしているものの、完全に気圧されてしまっている。
「二ノ宮さん、何があったんです?」
応援に駆けつけようとしていた店員の睦美に、嘉穂は訊いた。
「ちょっとよくわからないんですけど、どうもお通しが気に入らなかったみたいで」
「ははあ、なるほど」
居酒屋に入って、飲み物を頼む前に出されるちょっとした料理がある。それが、いわゆる『お通し』『突き出し』と言われる一品である。
嘉穂などは「お店側のお手並み拝見」という気分でどんなものを出してくるのか楽しみだったりするし、貴美や美月も特にそのシステムに疑問を抱いたことはないようだった。
「じゃあ、沙也香ちゃんにこう伝えるように言ってもらえますか。『その料理はチップに付くサービスの一品です。この店ではチップは一律定額に定められています』って」
「あ、なるほど。助かります」
ほどなく、睦美が沙也香の応援に入って、怒っていた外国人も納得したらしく、「ソーリー」としきりに謝罪する声が聞こえてきた。
「……どういうことなんですか?」
貴美が首を傾げた。
「最近、多いらしいのよ。お通しのトラブル」
「確かに、あたしはそういうもんだって思ってたけど、頼んでもいないものが勝手に出てきて代金を請求されるんだから、納得できない人も多いのかもしれないわねぇ」
「あー。言われてみれば、確かにそうですね」
「ただの文化の違いなのよね。私たちだって、代金の他にチップを払う文化って、そうとわかっててもなんか納得できない部分ってあるじゃない。でも、それを味わうのも海外旅行の醍醐味だと思うんだけどね」
「でも、知らないと文化の違いもわからないですよね……」
「最近は外国人観光客も増えてるって聞くし、そういう情報の発信が一番大事なのかもしれないわねぇ」
「日本人でも、お通しが気に入らない、って人は少なくないみたいよ。私は好きだけどね、初めてのお店だとそれでいろいろ判断できたりするし」
「普段頼まない美味しいものに出会えたりすることもありますよね」
「あ、それ、わかるー。ここでお通しで初めて食べたニンジンしりしりがメチャクチャ美味しくて、ニンジンってあんまり得意じゃなかったんだけど、自分で作ってみたりしたのよねぇ」
「お蕎麦屋さんの蕎麦味噌みたいに、自分の店の強みや特徴を真っ先に客に伝える、みたいなやり方もあるわよね」
「あ、あれは美味しかったですね! お通しの蕎麦味噌を食べたくてまた行くまでありますよね」
「お店が最初に出す料理だもの、そこで適当なことをやっているお店は常連に愛されないんじゃないかしらね」
「毎回適当で雑なお料理を食べたくて来る人はいないものねぇ」
「そういえば、お通し代はわかるんですけど、ときどき『席料』とか『チャージ』とかレシートに入ってることがありますけど、あれってなんなんですか?」
「私も経営者じゃないから推測も含まれるけど、基本的にはお店の維持管理費だって聞いたことがあるわ。お酒を提供する飲食店って、客の時間あたりの単価にかなり幅が出るでしょう?」
「そうよねぇ、ラーメン屋さんならせいぜいラーメン一杯に餃子やトッピングが付くかどうかだけど、居酒屋は二時間お酒とお料理を頼み続ける人もいれば、ビールと枝豆だけで粘るような人だっているものねぇ」
「だから、一品一品の価格に転嫁しにくいんじゃないかしら。たくさん頼む客ほど負担が重くなることになっちゃうもの」
「なるほど、だから一律に一定額を出してもらう、って形になったんですね」
「私たちはお酒を飲みにお店に来るわけだけれど、お酒やお料理だけじゃなく、その空間や過ごす時間も含めて、トータルの代金を支払っているわけね。お通しは、その代金に対するオマケ、とでも考えておけばいいんじゃないかしらね」
「お通し代が本当にお通しの代金だけだったら、それこそ『頼んでもいない料理の代金を請求してる』ってことになっちゃうものねぇ。他の意味があるお金に対して、心付けで一品どうぞ、ってことなのかしらねぇ」
「そう考えると、お通しってすごくリーズナブルなお値段ですね」
「一応、お通しの値段もお店ごとに違うから、必ずしもそうとは言えないけどね」
嘉穂は苦笑した。店も千差万別なので、当然、リーズナブルな店もあれば、そうでない店もある。客のすべてが善良ではないように、店だって良いところも悪いところもある。
「まあ、一食あたりの損か得かで考えることが悪いとは言わないけど、そもそも外食してる時点でお店が儲かるシステムに決まっているんだから、目くじら立てても仕方ないと思うんだけどね。好きなお店に潰れられても困るし」
「コスパ考えるなら家で飲んだ方がいいんでしょうけど、家で居酒屋の雰囲気は味わえないですし、お料理の味も違いますし、飲んだあとに片付けもしなきゃいけないですもんね」
「そうそう。お酒の品揃えだって違うじゃない。一杯目に吟醸酒を飲んで、焼酎のロックを挟んで次は純米酒、なんて家でやろうと思っても大変でしょ」
「家にワインセラーを持ってるお金持ちでもなきゃ、いろんな種類を何本も保管するだけで大変だもんねぇ」
「家飲みには家飲みの良さがあるけどね。実際、美月さんの家でやった女子会は楽しかったし」
「あー、あったねぇ」
「白状すると、たまに家でテレビとか動画見ながらダラダラ飲むこと、あります」
「わかるわかる。なんか時間の無駄使いしてるみたいな背徳感があって、あれはあれで美味しいのよね」
「ポテチと缶ビールだけで楽しめちゃうのよねぇ」
三人して、苦笑いを浮かべ合う。
「まあ、話を戻すと、私はお通しの一番の価値は『最初のお料理が来るまでにつまめるものがある』ってことだと思うわ」
「確かにそうよねぇ。お酒はすぐに出てくるけど、お料理はものによっては時間がかかったりするもの」
「ですね。あ、嘉穂さん、ちなみに、もし割高で美味しくないお通しが出てきたらどうします? 文句とか言います?」
「うーん、そうね……」
嘉穂は少し考えこんで、
「よほどのぼったくり価格じゃない限り、文句もクレームも言わないと思うわ。すぐに切り上げて店を出るけど。もちろん、代金はちゃんと払うわよ」
と答えた。
「そして、そのお店には二度と行かないかもね」
「だよねぇ。基本的に、お店のルールはお店が決めることだもんね。客としては、それが気に入らないなら、他のお店を探す、っていうのがいいのかもねぇ」
「初めてのお店でそういう判断をできるって意味でも、お通しって悪くないと思うわよ」
言いながら、今日のお通しの明太ポテトサラダを一口食べる。ポテトサラダの濃い味に、明太子の風味が加わるだけでまるで別の料理のような味わいになるのだから、不思議である。
ポテトサラダはビールやハイボールでも美味しいが、明太子の味が加わることで、日本酒との相性も相当に上がるのだ。酒の種類を問わず、とりあえず飲ませるにはいい肴である。
──こんなに美味しくても、気に食わないって人はいるのよね……。
面白い文化だなあ、と楽しむのか。
納得がいかない、と怒るのか。
「できれば、いろいろ面白がる余裕は常に持っていたいものだわ」
呟いて、先ほど文句を言っていた外国人を見やれば、ことあるごとに沙也香を呼んで料理や酒についての説明を求め、上機嫌で楽しんでいるようだった。
文化というのは、面白いと同時に、なかなか難しいものである。
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