2巻 第19話 白子の天ぷら

第十九話  白子の天ぷら



 季節を先取りするメニューというのは出てくるもので、シーズン前から需要が伸び始める食材も多い。まだ旬を迎えておらず、多少味が乗り切っていなくても、つい食べたくなってしまう、という心理はあるものだ。

 例えば、コンビニですら、少し早めにおでんや中華まんを売り出したりする。

 例えば、鍋。本格的に寒くなる前でも、秋になれば次に控えた冬を見据えて恋しくなってきたりする。

 その日、嘉穂が目に留めたのは白子の天ぷらだった。

 まだ、時期には少し早い。

 が、それでも冬を代表する酒飲みの味覚として、つい頼みたくなってしまう魔力のようなものが、白子にはある気がする。

 ポン酢でよし、焼いてよしの白子だが──、

「すみません、白子の天ぷらをください」

 嘉穂としては、一番好きな食べ方は鍋か天ぷらだった。

「あ、良いわねぇ、白子の天ぷら」

「私、白子を天ぷらで食べるのは初めてです!」

 美月と貴美の二人も大喜びで白子の天ぷらの注文に便乗した。

 白子は要するに魚類の精巣であり、鮭やフグ、アンコウなどの白子も食用になるが、一般的にはスケソウダラや真鱈のものを指す。

 冬を代表する海の味覚である。

「私、ここに通うきっかけになったのが白子の天ぷらなのよね」

「えっ、そうなんですか?」

「ええ。初めて入ったときに初めて食べて、あまりにも美味しくて。もう何年前かしら。本格的にお酒が好きになったのもたぶんそのときね」

「少し意外だわぁ。嘉穂さんって、もっと前から美味しいお酒も美味しい料理もいっぱい知ってたのかと思ってた」

「私もそんな気がしてました」

「ちょっと、二人は私を何歳だと思ってるのよ」

 苦笑しつつ、嘉穂はその当時のことに思いを馳せる。

「私が初めて本を出した頃に担当についてくれた人がね、お祝いも兼ねて打ち合わせに連れてきてくれたのよ。もうその人は一線を退いて、今は田舎で悠々自適の生活をしているらしいんだけれど」

 静かに厳しい人だった。声を荒らげるようなことはなかったが、常に理路整然と原稿の矛盾や穴を指摘してくる人だった。

 ただ、一〇回に一回くらい、理屈ではなく「それでもここはこれで!」と反抗することがあった。指摘が正しいことを自覚していても、嘉穂にとっては譲れない何かがある部分だ。そういうところに関しては、驚くほどあっさりと嘉穂の言い分を認めてくれたりもした。

 最後の最後、職を辞するときにそのことを訊いたところ、

『貴女が理屈ではなくどうしてもこだわりたい、というところは、おそらく貴女独自の文学性なんだと思っています。そこは余人が立ち入って良い領域ではないでしょう』

 と穏やかに笑って言っていた。

 その言葉を聞いて、嘉穂は心底、右も左もわからない頃にこの人に担当してもらえた幸運に感謝したものだった。

 そんな、尊敬して止まない人に最初にご馳走してもらった(出版社の金だとは思うが)料理の一つである。嘉穂にとっては、特別な感慨があるのだ。

「思い出の一皿なんですね」

「ええ、そうね」

 やがて、頼んだ白子の天ぷらが運ばれてくる。

 天つゆも添えられているが、嘉穂としてはシンプルに塩で味わいたい。

 一口めば、サクサクの衣の中から、とろりと熱く濃厚な白子が溢れ出してくる。臭みはほぼなく、ただただ塩に引き立てられた旨味が舌にまとわりつく。

「なんていうか、幸せの味って感じねぇ」

「わかります。これ、メチャクチャ美味しいですね!」

「日本酒が進むわよね」

 日本酒を口に含んで味や香りが混ざり合うと、やはり魚なのだ、と実感できる相性を感じることができる。

「この味をね、表現する言葉がまだ見つからないのよ」

 白子の天ぷらを食べて最初の担当編集を思い出すのは、ご馳走になったからばかりではない。未だ解けていない宿題があるからだ。

『片菊さんなら、この白子の天ぷらの味を、白子を食べたことがない人にどんな表現で伝えますか』

 そのときに投げかけられたその課題に、未だに嘉穂は向き合い続けている。

「そんなことを訊かれたんですか」

「確かにそれ、答えに困るわねぇ。チーズみたいな、とか……」

「そうね。味や香りは、基本的にはもっと一般的で近いものを持ち出して、何々のような、というのが一番楽な方法なのよね。でも、チーズにもいろいろあるじゃない」

「確かに、ブルーチーズとか全然近くないですよね」

「そっか、チーズって一言だけでも、どんなチーズを想像するかは人それぞれだったりするのねぇ」

「そうなのよ。どのチーズに近いのか、って突き詰めていくと、どんどん狭く深くなっていくのよね。で、最終的にその種類、銘柄のチーズをどのくらいの人が食べたことがあるのか、ってなっちゃうの」

 なるほど、と二人も神妙な顔をする。

「あ、ごめんなさい。別に真剣に考えなくてもいいのよ。今では、私も『きっと答えはない』って思い始めてるから」

「でも、嘉穂さんが尊敬するような人がそんな無責任な質問をするものですかね?」

「んー、質問というか、心構えの話だったのかな、って思ってるの。文章や表現を仕事にするなら、そういうことについて考えることをやめちゃいけないよ、みたいな」

「なんだか、哲学か禅問答みたいねぇ」

「そうね。案外、近いかもしれないわね」

 そう言って笑いながら、こうやって飲みながらとりとめもなくお喋りをしている中で答えが見つかったりするのかもしれない、と嘉穂は漠然と思うのだった。

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