2巻 第18話 燻製あれこれ
第十八話 燻製あれこれ
日本酒とチーズは合う。
それを知って以来、貴美はチーズを頼む機会が増えていた。
「チーズの燻製をください!」
「あ、良いわね、チーズ」
貴美の注文に、嘉穂も賛同の意を示し、
「だったら、他にも燻製系とか、いろいろ試してみましょうか」
「それなら、今日は金華鯖の燻製もありますよ」
注文を取りにきた店員の睦美が言う。
「あ、美味しそうね、じゃあそれも」
「はい、ありがとうございます」
「二ノ宮さんといい、マスターといい、ホントに乗せるのが上手いわよね。つい頼まされちゃうわ」
冗談めかした嘉穂の言葉に、睦美も、
「いえいえ、そんな。こういうのもお好きかなー、と思ってご提案してるだけですよ」
と、わざとらしく大仰に答えて、伝票に注文を書き込んでいく。
「鯖、美月さんが来てからの方がよかったんじゃないですか?」
「うーん、でも、今日も来るとは限らないし、来たらまた頼めばいいかなって」
よく一緒に飲む三人だが、別に一緒に飲もうと示し合わせているわけではない。嘉穂などはこの居酒屋『竜の泉』に飲みに来る頻度は高いものの、それでも毎日ではないし、貴美と美月はもっと低い。よく顔を合わせはするが、毎回三人が揃うわけではないのだ。
と、そんな話をしているところで店の入り口が開く音がした。
すぐに店員の沙也香が「いらっしゃいませー」と応対に向かい、
「あ、七瀬さん。片菊さんと新藤さん、来てますよ」
そんな声に振り返ると、ちょっと凹み顔の美月がいた。
──あ、これは『いつものアレ』か。
直感的にそう思った嘉穂は、目が合った貴美も同じことを考えていることを悟った。
穏やかでいかにも優しそうな印象で、セールストークで培われたコミュニケーション能力もあり、ついでにスタイルも良い美月はとてもモテる。嘉穂も「そりゃ周囲の男は放っておかないだろう」と本心から思ってしまうのだが……、どういうわけか、美月には男運がない。
出会ってそれほど経っていないにもかかわらず、嘉穂も貴美も、美月のろくでもない男との別れ話や愚痴を何度も聞いてきた。
「何かあったの?」
となりの席に座った美月に、嘉穂はそう問いかけた。
「ごめんねぇ、やっぱり、顔に出ちゃってるよねぇ」
申し訳なさそうに美月が頭を下げる。
「溜め込んでもいいことないですから、愚痴っちゃってください」
貴美の言葉に、嘉穂も苦笑しながらうなずいた。もはや恒例行事のような感覚である。
「まあ、今回は付き合った人のことじゃなくてね? それ以前っていうか、どっちかっていうと仕事の愚痴なんだけどね?」
「あ、恋愛の話じゃないんですか?」
「じゃない、って言い切っちゃうと少し違う気がするんだけど、あたしにその気はないし、別に付き合ったわけでもないかなぁ」
「職場にしつこく言い寄ってくる人がいる、とか?」
「そうなのよ。っていうか、お客さんなんだけど……」
「あれ? でも、美月さんのお店って婦人服しか置いてないはずですよね?」
貴美が首を傾げた。嘉穂が『客』をあえて除いて『職場の人』としたのも、それを踏まえてのことである。
「そうだけど、男性のお客さん、結構いるのよ? 彼女さんと一緒の人とか、彼女さんへのプレゼントを選びに来た人とか」
「彼女がいるのに美月さんに言い寄るの……?」
嘉穂と同じことを思ったのか、貴美も眉をひそめている。
「そうなの。『別れてきた』とか言われても、あたしがお願いしたわけじゃないし、何度もお店に押しかけられても困るしで」
「うわあ、重いですね……」
「まあ、一応はケジメをつけた上で口説きに来てるだけマシって考え方もできるのかもしれないけど」
「嘉穂さん、それがね、そうでもないの。客の誘いを断るのか、とか、別れるまでしてきてるのにそんな態度があるか、とか、もうメチャクチャで……」
美月が深いため息をつく。
嘉穂も貴美も、一様に「うわあ」という顔をした。
「接客業やってると、どこにでも困った客っているんですねえ。はい、スモークチーズと金華鯖の燻製ね」
料理を運んできた睦美も、苦笑しながら言った。
「このお店にもおかしなお客さんが来たりするんですか?」
「そりゃ、みなさんみたいに良い常連さんもたくさんいますけど、やっぱりたまに変な人が来ることはありますよ。お酒も入りますし。接客業の宿命じゃないですかね」
「お互い大変ですねぇ」
「あんまり酷いようなら、出入り禁止にしてもらうとか、最悪警察に介入してもらう選択肢も考えるべきじゃないかしら」
言いながら、嘉穂は金華鯖の皿を押しやるようにして美月に勧めた。
「あら、〆鯖みたいに見えるけど、これ、燻製なんだぁ」
美月が言う通り、見た目はほとんど〆鯖と変わらない。
「あ、ホントに酢の味がしなくて、いい香りがするぅ」
「そりゃあ、〆鯖じゃなくて燻製だもの」
嘉穂も一切れ、口に入れた。
もともと匂いが強い鯖だが、燻製したことによる香りが組み合わさってもお互いが邪魔をしていない。むしろ、相乗効果でどちらの香りも際立っている。
どれどれ、と貴美も金華鯖に箸を伸ばした。
「あ、これ、いいですね。スモークした魚ってサーモンぐらいしか知らなかったですけど、私、こっちの方が好きかも」
「燻製も素材だけじゃなくて、燻すのにどの木を使ったかとかでかなり変わるから、奥が深いわよ。好きな人は自宅で作っちゃうくらいには魅力的な世界なのよね」
「へー、そうなんですか。嘉穂さんも作ったりするんですか?」
「まさか。まあ、今は室内でも使える燻製機も売ってるけど、そこまで凝り始めると家飲み専門になっちゃうわよ」
「燻製って、あんまりピンとこないんだけど、どんなものがあるの?」
美月が首を傾げた。
「一番なじみ深いのは、『イカ燻』じゃないかしら」
「あ、コンビニとかで売ってるヤツですね」
「あー、あれ、燻製の燻だったのねぇ」
「イカやタコ、シシャモなんかも燻製にすると美味しいわよ。もっとも、最近のシシャモはほとんどカペリンだけど、まあ、充分美味しいから」
「あ、もしかして、『くんたま』ってあれも燻製ですか?」
「そうそう。ゆで玉子やウズラの玉子を燻製にしたものね」
「……もっとなじみ深くて有名な燻製がありますよ」
カウンターの向こうから、厳つい店主の竜一郎が言った。
「……ベーコンです」
「あ、確かに」
すっかり失念していた嘉穂は、思わずそう言って手を打ってしまった。
「へー、あれ、燻製だったんですね」
「……ちゃんと作った自家製のベーコンは、炙っただけで堪らない美味さの大ご馳走になりますよ。洋酒メインのお店だと、自家製のを置いてるところも多いです。何より、自分で作ると好きな厚さに切れるのがいいですね。贅沢な厚切りベーコンは焼いているだけで幸せな気持ちになれますよ」
話を聞いて、やってみようか、と心が揺れる嘉穂であった。
その脇で、はあ、とまた美月がため息をついた。
「煙たい客も、どうせなら燻製みたいに美味しくなってくれたらいいのになぁ」
「煙の発生源は、たぶん美味しくはならないわよ。むしろ燻されてるのは美月さんの方だし、実際、そういう経験も美月さんの魅力になっていくのかもしれないわよね」
うへえ、という顔をした美月の様子に、申し訳ないと思いつつも、嘉穂は貴美と顔を見合わせて苦笑してしまうのだった。
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