2巻 第16話 背伸びともてなし
「いらっしゃいませ! あれ、今日は森屋さんと一緒じゃないんですね」
店員の沙也香は、貴美の顔を見るなりそう言った。そう言われてもおかしくないくらいには、最近の貴美は杜氏の青年と一緒に飲むことが多かった。
「もしかしてお邪魔だった?」
先に来て飲み始めていた嘉穂が、イタズラっぽい顔をした。
「あらー、もしかして待ち合わせをしてたりして?」
美月までが面白がってそんなことを言う。
「そんなんじゃありませんよ。ちょっと上司にお返ししようと思って、いろいろ相談に乗ってもらってただけです」
「上司って、ああ、仕事が上手く行ったときにお寿司を奢ってくれたっていう?」
「はい、その上司です。お寿司とワインをご馳走してもらったので、日本酒を美味しく飲めるイタリアンについてずっと相談してたんです。日本酒も置いてるお店を紹介してもらったりとか」
そう言って嘉穂たちに合流してカウンター席に着き、貴美は深くため息をついた。
「と言うわりには凹んでるわねぇ。上手くいかなかったの?」
「うーん、いえ、上司はとても喜んでくれましたし、きっと満足してくれたと思うんですよね」
「でも、貴美さんはその結果に満足してないんだ」
「そりゃそうですよ。だって、その日に限って、期待してた日本酒が届いてないなんて思わないじゃないですかー!」
「あ、もしかして、高速道路で起こった大規模な事故の影響?」
最近話題になっているニュースについて、嘉穂が言及した。
その事故からの復旧が遅れているらしく、物流の一部には未だに影響が出ているのだという。
「そうなんですよ。だから誰が悪いってワケじゃないんですけど、最初から予定が崩れちゃって」
どうやら、貴美はそのアクシデントでいきなりテンパってしまったらしい。
「しかも、普段行き慣れてないお店だったから、他のお酒も知らないのばっかりで」
「あー、お店が変わると、お酒もだいぶ変わっちゃうみたいですね、私は他のお店のことはよく知りませんけど」
言いながら、沙也香が貴美の前にお通しの煮物を置いた。
「お飲み物はどうします?」
「じゃあ、越乃景虎を」
「はい」
沙也香が伝票に書き込んで、日本酒を取りに行く。
「で、そのあとどうなったの?」
美月の質問に、貴美は、
「もうメチャクチャですよ!」
と頬を膨らませた。
「まあ、崩れたら弱い私が悪いんですけど……注文はもたつくし、水はひっくり返しちゃうし、お料理はこぼしちゃうし……」
「ごめん、すごく想像できてつい笑っちゃったわ」
「ホント、思わず思い浮かべちゃったわぁ」
嘉穂と美月が、笑いをみ殺しながら笑い合う。
「二人とも酷いです」
むくれながら、貴美は沙也香が運んできた日本酒を飲んだ。
「結局、上司も見かねたみたいで、私に言ったんです。『頑張ってくれたのは嬉しいけど、背伸びをする必要なんかないのよ』って」
「あー、確かに、聞いてる感じだと、その上司さんならそう言うかもね」
納得顔で、嘉穂がうなずいた。
厳しいけれど、きちんと部下を見ていて、良い仕事をしたら褒めてくれるどころかご馳走までしてくれるバリバリのキャリアウーマン。それが、嘉穂たちが聞いている貴美の上司の人物像である。
その上司は、きっと貴美が綿密に計画を立てたことも、それでも些細なトラブルでパニックに陥ってしまったことも、全部お見通しだったのだろう。
「もう、なんか自分の不甲斐なさとか、上司にかえって気を遣わせてしまったみたいで情けないやら悔しいやらで」
「でも、それで終わりじゃなかったんでしょ?」
訊きながら、嘉穂は器を押しやるようにして、自分が食べていた自家製の塩辛を貴美に勧めた。
「だよねぇ。とっても喜んでくれたって言ってたし」
「ええ、まあ……」
小さく会釈して嘉穂の塩辛をつまみつつ、貴美は、
「上司が『ちょっと店を変えて仕切り直さない?』って言ってくれまして」
「あー、良い判断かもね。雰囲気を引きずることってあるから」
「で、『日本酒、好きなのよね? じゃあ、良いお蕎麦屋さんを知らない? お蕎麦屋さんで飲む、っていうのを一度やってみたかったの』とか言われまして」
「ちゃんと貴美さんの顔を立てて、活躍できそうな振り方をしてくれるあたり、ホントに有能な人って感じねぇ」
「でも、私が知ってる蕎麦屋なんてこないだのところしかないですからね。っていうか、あのお店を知らなかったら完全にアウトでしたよ」
「良いタイミングだったわね、一軒だけでも知っててよかったじゃない」
「まあ、あの店に連れて行って蕎麦味噌とか板わさとか天ぷらとか頼んだら喜んでくれましたけど」
貴美は一度言葉を句切って、悔しそうに唇をんだ。
「それって私がずっと準備して、色んな人に手伝ってもらって、やりたかったことじゃないんですもん」
「なるほどね」
嘉穂は深くうなずいた。
「ねえ、貴美さん。その上司さんは、貴女に振る舞うためにお寿司とワインの組み合わせを考えたのかしら?」
「いえ、違うと思いますけど」
「そうよね。普段からやっていて、自分が一番美味しいと思うから、それを貴美さんに食べさせてあげたい、と思ったのよね、きっと」
「あ」
「まあ、上司さんも、貴美さんが一生懸命準備してくれたことは嬉しかったんじゃないかなぁ」
美月の言葉に、嘉穂も「そうね」とうなずいた。
「あるいは、だからこそ、『そんなに気張らなくて良いよ』と言いたかったのかも。『貴女が普段から美味しいと思うものでいいよ』って」
「私、間違っちゃったんですかね……?」
「そんなことはないよぉ」
「うん。別に貴美さんが間違ったってことじゃなくて、なんていうか、噛み合うかどうか、みたいな話なのよ。例えば、上司さんにご馳走してもらったお寿司とワイン、貴美さんもせっかくのお寿司は日本酒を合わせたかった、って言ってたじゃない」
「あー、まあ、せっかくご馳走してくれたのに、生意気でワガママなこと言ったなあ、とは思いますけど」
「でも、そういうことなのよ。どんなに心を込めてもてなしても、もてなされる側の好みと必ずしも合致するとは限らないし、場合によっては『こう喜んでもらおう』『こうやれば喜ばれるはず』っていうもてなす側のエゴみたいなものが強くなってしまったり」
「ホント、難しいわよねぇ」
「どうすればよかったんですかね……」
貴美は頭を抱えて考え込んでしまった。
「そうね、最初に相手に要望を訊くのも手だとは思うけど」
「でも、ほらぁ、サプライズ的な演出ってあるじゃない。そういうの、やりたくなる気持ち、あたしわかるなぁ」
「気持ちはわかるけど、サプライズは好みを知り尽くすくらい親しい相手じゃないと難しいんじゃないかしら。よく知りもしない人に嬉しくもないサプライズをされても反応に困るでしょ?」
嘉穂の辛辣気味な言葉に、「確かに」と貴美と美月は苦笑した。
「相手と自分の関係や距離感を踏まえた上で、今回の場合、いつも使ってる居酒屋に誘う、くらいでよかったのかもしれないわね。上司さんの奢りも、なんかすごいことみたいに感じられるけど、実際には『上司さんがいつもやってる飲み』だったわけで、つまり日常の延長だったんでしょ」
「言われてみれば、その通りかもしれません……」
「高級なお寿司屋さんに通えるなんて、すごいわよねぇ」
「それは頻度にもよると思うけどね。いずれにしても、貴美さんは、もっと気軽に『自分の行きつけのお店にご一緒にどうですか』と言うだけでよかったのかもしれないわね」
「そうですね。今度は、ここに誘ってみることにします」
そう言って、メニューを手に注文を考え始めた貴美の顔からは、だいぶ憂いの色は消えているようだった。
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