2巻 第15話 蕎麦屋で一杯


 なんだかんだいって、居酒屋『竜の泉』は人気店である。時間帯やタイミングが合わなければ、常連であっても満席で入れないことも珍しくはない。

「まあ、そういう日もあるわよねえ」

 美月が残念そうにため息をついた。

 落ち合って店に向かったものの、満席で入れなかった嘉穂たち三人は、さてどうしたものかと相談中というわけだ。

「私たちが常連だからってなんとか席を作ろうとはしてくれましたけど、あの混みようじゃどうにもなりませんよね……」

「まあ、常連だからこそ、こういうときは譲るものよ。自分が好きな店の繁盛は良いことだもの、初めて来たお客さんたちに存分に楽しんでもらうべきよね」

「なるほど、一理あります」

 嘉穂の言葉に、貴美がうなずいた。

「それはそうと、嘉穂さん、貴美さん、他に良いお店って知らないかしら? このまま解散っていうのも味気ないでしょ?」

「そうねえ……。二人は何が飲みたいとか、何が食べたいとかある? 特に希望がないなら、ちょっとぶらぶら歩いてみて、勘でお店を探すっていうのはどう?」

 そうして、三人は薄暗い夕方の街を散策することになった。


 しばらくウロウロして三人が選んだ店は『蕎麦居酒屋』の看板を出していた。

 どう見ても蕎麦屋だが、居酒屋とも書いてあるからにはお酒も飲めるのだろう。そして、嘉穂の、

「お蕎麦屋さんでお酒を飲む、っていうのは昔からある定番よ」

 という一言が決め手になった。

 暖簾をくぐり、店の中へ。

 いくつものテーブルが並んだ店内にはカウンターはなく、年季の入り具合がすでに味になり始めているような、古くて庶民的な感じの店だった。

 すでにいくつかのテーブルが埋まっており、仕事帰りのサラリーマンたちが食事をしたりビールを飲んだりしていた。

「三人です。お酒を飲みたいんですけど、いいですか?」

 店に入るなり嘉穂がそう尋ねると、店の名が入ったエプロンを着けたおばちゃんが「どうぞどうぞ」と相好を崩した。

 三人がテーブルに着くなり、おばちゃんが小鉢に入ったお通しを持ってきて、「ご注文は?」と訊いた。

「せっかくだから、私は蕎麦焼酎の蕎麦湯わりにするわ。そうね、『雲海』がいいかしら」

「じゃあ、私もそれで」

「あたしもそうしようかしら。肴選びも、まずは嘉穂さんにお任せするわね」

「はいはい」

 苦笑しつつ、嘉穂はいくつか肴を見繕って、メニュー表を指さしながら「これと、これを。あと、これも」とおばちゃんに伝える。

「はい、ちょっと待っててくださいね」

 注文を取り終えて、おばちゃんが厨房へと消えていく。

「嘉穂さん、これ、なんですかね?」

 貴美がお通しの小鉢を覗き込んで、嘉穂に訊いた。

「蕎麦味噌よ。炒った蕎麦の実を味噌と混ぜたお蕎麦屋さんのつまみの定番ね。お店によっては唐辛子を混ぜてピリッとさせたり、逆にちょっと甘くしたり、いろいろ工夫をしているみたいね」

「へえ、私、初めて見ました」

「あたしも。蕎麦の実なんて、あんまり目にする機会はないわよねえ」

「美味しいわよ。素朴だけど、これさえあればお酒のアテには困らない感じ」

 言いながら、嘉穂は箸で蕎麦味噌をちょっぴりつまみ上げ、口に運んだ。

 貴美と美月も、嘉穂に倣って同じように蕎麦味噌を口に入れる。

「あ、美味しい! 思ってたより味噌がまろやかですね」

「歯応えも良いわねえ。ほくほくして、噛むほどに蕎麦の香りが味噌の味と混ざり合って、確かにお酒が欲しくなるわ」

「でしょ」

 そして、そこへ三人分の蕎麦焼酎の蕎麦湯わりが運ばれてくる。

 湯気が立つガラスのコップは、やや透明の液体で満たされ、しかし底の方には白っぽい粉が沈殿し、上澄みには黒っぽい小さな実が浮いていた。

「来たわね、蕎麦湯わり。これ、寒い時期なんか最高なのよ」

「これ、何が浮かんでるんです?」

 不思議そうな顔で、貴美がコップを見つめている。

「蕎麦の実よ」

「蕎麦湯わりってことは、底の方の白いのは麺を茹でたときに溶け出した蕎麦粉ってことかしら?」

「でしょうね」

 口に含めば、熱さとともに蕎麦の香りが口の中に広がる。

 蕎麦味噌で口の中に満ちていた香りを補強し、そして、酒の味とともに喉の奥へと流れ込んでいく。

「これは、合うわねえ」

「それはそうよ。だって、肴もお酒も割っているものも、全部蕎麦なんだもの」

「あ、確かに全部お蕎麦ですね……!」

 貴美が蕎麦湯わりと蕎麦味噌を交互に見ながら言った。

「はいお待たせ、こちら、板わさです」

 おばちゃんが肴を運んできた。

「板わさ?」

「かまぼこのお刺身ですよ。ほら、板かまぼこってあるでしょ? 板に載って売られてるかまぼこ。それとわさび醤油だから、板わさっていうのよ」

 首を傾げた貴美に、おばちゃんが説明をしてくれた。

「板わさも含めて、お蕎麦屋さんって、美味しい肴の宝庫なのよ。蕎麦の具に必要なかまぼこや卵、ネギなんかを使ってできるお料理は多いし、各種天ぷらも良い肴になるし」

 醤油皿に醤油を注ぎながら、嘉穂はそう補足した。

「なるほど」

「だから、昔から酒飲みはお蕎麦屋さんに飲みに来ていたのよ。とはいえ、元は食事をする場所だから、長っ尻は粋じゃないとか、色々作法みたいなものも生まれたんだけどね」

「今どきはそんなの気にしなくていいですよ。特にうちは夜は居酒屋でもあるし、好きなように飲んでくださいな」

 おばちゃんは笑ってそう言って、仕事に戻っていった。

「嘉穂さん、あとは何を頼んでるんですか?」

「あ、それ、あたしも気になるー」

「まずだし巻き玉子。お蕎麦屋さんの出汁なんて美味しいに決まってるし、それを使ってる玉子焼きならきっと美味しいと思うの」

 貴美と美月が「おおー」と感嘆の声を上げた。

「あと、鴨焼き。鴨南蛮の鴨を焼いたら美味しいだろうなって」

「あー、鴨! あたし大好き!」

「頼んであるのはそこまでだけど、食べてみてお腹の具合によっては天ぷらか何かで呑むのもいいし、〆にざる蕎麦を頼んだりするのもいいかもしれないわね。蕎麦粉をお湯と混ぜてき回した餅状の『そばがき』も美味しいわよ」

「蕎麦屋、すごくいいですね……! 日本酒もあるし、このお店が居酒屋も兼ねているからか、居酒屋でよく見るようなシシャモや冷や奴なんかもたくさんありますし」

「いつものお店もいいけど、たまには違うお店っていうのも、気分が変わって悪くないかもしれないわねぇ」

「今日みたいな日のために、他に何軒か、馴染みのお店を作っておくのはいいかもしれないわね」

 初めて入った店ではあるが、嘉穂としても雰囲気は嫌いではなかった。

 他の二人の印象も良さそうだし、これで蕎麦や天ぷらが美味しいなら、贔屓にするのもありかな、と思い始めている。

 いつだって、こうして店と客は真剣勝負をしているのだ。

 もちろん、気に入った店を見つけて客が勝ち、常連を獲得して店も勝つのが最良の結果である。

 そして、その勝敗はこれから来る料理にかかっているわけだが──。

「あ、嘉穂さん、だし巻きが来ましたよ!」

「わあ、出汁がひたひたで、想像してたのとちょっと違うけど美味しそうねぇ」

 もうすでに、勝敗は決しようとしているのかもしれなかった。

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