2巻 第14話 酒米飲み比べ
同業者である以上、バッタリと顔を合わせる偶然もそう珍しくはない。
「あら、片菊せ……さん、これから打ち合わせ?」
出版社のロビーでバッタリと、知り合いの作家に──例えば、姫宮やよいと出くわす、そんなこともある。あるいは、すれ違った見知らぬ誰かが、尊敬して止まないあの大人気作の作者だったりするかもしれないのだ。
「いえ、終わったところよ」
「え、でも、担当さんはついさっきまで……」
同じ担当なはずなのに、という疑問なのだろう。
「今日は別の編集部に用事があったのよ。シナリオで少し関わっているゲームの関係でちょっとね」
「もしかして、ノベライズのお話?」
「まだなんとも言えないわ」
「立場上そう言わざるを得ないのはわかりますけれど、同業者のそういう情報を口外するほど道理をわきまえてないつもりはありませんわよ」
拗ねたように、やよいが唇を尖らせた。
「そうじゃなくて、まだ何も決まってないのよ。この業界、直前でひっくり返るなんてよくある話でしょ」
「まあ、それは……。たまに、原稿を書き上げてから急にその企画はなくなりました、なんて言われる話も聞きますけれど」
「でしょ。だからよ」
やよいは「なるほど」とうなずいて、少し考えこみ、意を決したように、
「わかりましたわ。それはそれとして、用事が済んでいるのでしたら、少しお酒でもいかが? この近くに、良いお店を見つけましたの」
と早口でまくし立てた。
さほど親しいわけでもなかったやよいからの誘いに少し驚いた嘉穂だったが、考えてみれば一緒に日本酒の試飲会に行った仲である。
それに、試飲会に熱心に行くような酒好きが認める「良い店」にも興味がある。
「いいわね、是非」
嘉穂の返事に、やよいの顔が素直に綻んだ。この人、こんな顔もするんだ、と嘉穂としては新鮮な気分だった。
あまり目立たない看板を出して、地下に構えた店。
奥に座敷の席もあるが、それ以外はカウンター席のみという小さな居酒屋だった。
カウンターの中には、店主らしき男性と、女性がもう一人。二人で切り盛りしているということだろうか。
嘉穂はまず、メニューを見て驚いた。ビールも少しは置いてあるが、ワインやカクテル類はもちろん、ハイボールも焼酎も置いていない。あるのは、日本酒ばかり。
逆に、日本酒は二〇種類か三〇種類かという品揃えだ。
「すごく尖った品揃えですね。日本酒以外はないのか、とか言われません?」
「そこはまあ、店自体をお客様の趣味に合わせて選んで頂くしかないですね」
人の好さそうな四〇代くらいの店主は、そう言って笑った。
「とはいえ、日本酒専門なんて、都心の大きな駅の側で人が多いからできる商売ですね。少し立地が変わったら成り立っていなかったと思います」
それはその通りだろう、と嘉穂もうなずいた。
地域ごとに、客になり得る人の数はある程度決まっている。その中の「お酒を飲みたい人」から「日本酒を飲みたい人」にターゲットを絞れば、当然、対象はより少なくなってしまう。
「今日は、何か面白いお酒は入っているかしら?」
やよいに問われて、店主と同じくらいの年代の女性が、
「
と、やよいにもちかけた。
「而今は良いですわね。片菊さんも、それでよろしい?」
「ええ。でも、飲み比べ……?」
そんなに何種類も純米吟醸があるのだろうか、と嘉穂は首を傾げた。
「あるんですのよ、結構種類が」
まるで嘉穂の内心を覗いたように、やよいが笑った。
店主が一升瓶を四本出してきて、嘉穂たちの前に置いた。全てのラベルに「而今」「純米吟醸」「火入れ」の文字があり、それぞれ「山田錦」「雄町」「千本錦」「八反錦」の文字がある。
「あ、酒米が違うのね」
「而今は人気の銘柄ですから、なかなかここまで揃えているお店はありませんわよ」
そうこうしている間に、嘉穂とやよいの目の前にはそれぞれの日本酒が注がれた小さなグラスがそれぞれ四つ、並べられた。
「こちらから順に、山田錦、雄町、八反錦、千本錦になります」
「それじゃ、片菊さん、頂きましょう。お疲れ様」
「ええ、お疲れ様」
それぞれ、グラスを一つ手に取り、こつん、と互いのグラスを軽く触れさせた。
嘉穂が最初に手にしたのは、山田錦のグラスだった。
純米酒らしい甘味と、吟醸酒らしい香りは果実を思わせる味わい。なるほど、人気の銘柄というのはうなずけた。
「山田錦のは、とても優等生的ですわよね。純米吟醸酒の模範としてとても正しい、という感じがしますわ」
「確かに。ということは、他のは少しクセがあるのかしら?」
嘉穂は次に千本錦のグラスを手に取った。
「あ、こっちの方が果実みが強いかしら……。香りも甘味も強い気がするわ」
並べて飲み比べると、明確に違いがわかる。
このお酒は貴美が好きそうだな、と嘉穂は思った。
「八反錦も千本錦に近いかもしれないですわね」
そう言われて飲んでみれば、確かに八反錦も甘味と香りは強い。しかし、千本錦よりはスッキリしていて、美月はきっと、こっちを好むだろう、という気がする。
「片菊さんは、雄町が一番好みなのではなくて?」
やよいにそう言われて試してみると──、
「うん、私はこれ」
迷わずそう言える味だった。
とても繊細で、澄み切った印象だ。もちろん、純米らしい旨味や吟醸らしい香りはしっかりある。その上で、もっとも料理に合わせやすいように思えた。
「日本酒の味の違いというと、どうしても精米歩合や醸造法、あとは杜氏が誰かといったことがよく言われますが、酒米の種類でもかなり味は変わるんですよね」
店主にそう言われて、それを味わったばかりの嘉穂は「はい」と深くうなずいた。
「ところで、肴はどうなさいますか? 大根とネギトロのサラダなんか、今飲んでるお酒のアテにもオススメですけど」
ネギトロをサラダに使うとは、何とも贅沢なことだ。シャキシャキした大根の食感にネギトロの旨味と脂が加われば、さぞ美味しいことだろう。
「それから、うちは姫路おでんもやってるんですよ。生姜醤油で食べるおでん、こっちの方じゃ珍しいんじゃないですか?」
良い店は、酒が美味く、料理が美味いだけではなく、薦め方も上手い。ついつい頼みたくなるような品を、絶妙なタイミングで推してくる。
「じゃあ、そのサラダと、おでんの大根とコンニャクとちくわを二人分ください。姫宮さん、それでいい?」
「ええ、もちろん」
四種の純米吟醸の味の違いを楽しみながら肴が来るのを待ち、壁にずらりと張り出された日本酒のラインナップを眺めながら、次に何を飲もうかと考える。
良い店を教えてくれたやよいに感謝しつつも、しかし、頻繁には来られないなあ、と嘉穂は苦笑交じりにため息をついた。
打ち合わせなどで近くまで来ることはそれなりにあるが、如何せん自宅から少し遠い。ついでがあるならともかく、やはり近場の店の方がいい。
それに、財布の中身も時間も有限である以上、足繁く通える店の数にも限りがある。
とはいえ、それでも。
良い店をいくつも知っているということは、幸せなことだと嘉穂は思うのだった。
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