2巻 第10話 だし巻き玉子
お酒を、特に日本酒を何人かで飲んでいると、誰かが必ず頼む品というものがある。
例えば嘉穂たちの場合、だし巻き玉子がそうである。
よほど独創的なことをしていない限りは色々な酒に合うし、シェアもしやすい。何より、出汁の味が如実に出るため、店側の本気も窺える。
これが美味しい店は間違いない、みたいなジンクスというか、店の見極め理論のようなものを酒飲みは何かしら持っているものだが、そういった話でだし巻き玉子を挙げる人も少なくはない。それこそが、だし巻き玉子という料理の人気の証拠でもあるのだろう。
嘉穂たちにとっても、季節のメニューや、他の日にはメニューにないような料理を少し頼んだあたりで、誰ともなく頼もうと言い出している料理、それがだし巻き玉子だった。
「だし巻きください」
その日に頼んだのは、貴美だった。
店員の沙也香が伝票に書き込む中、それを聞いていた厳つい店主こと辰巳竜一郎は、
「……もしよろしければ、だし巻きに何か具を入れましょうか?」
と三人に声をかけた。
居酒屋『竜の泉』のだし巻き玉子はプレーンなタイプである。
出汁の味と品質の良い卵、そして料理の腕があるならそれで充分、という自信の表れだろう、と嘉穂は思っていた。
「いいんですか? そんなワガママお願いしちゃって」
嘉穂の言葉に、竜一郎は「ええ、たまには」とうなずいた。
そうなると、必然的に、話は「何をまいてもらうのが良いか」という方へと向く。
「何が美味しいかしらねえ。チーズなんてどうかしら。チーズオムレツみたいで美味しいんじゃないかしら」
美月がそう言うと、貴美も、
「えー、確かに美味しいとは思いますけど、なんかお酒の肴としては違うものの方がよくないですか? 明太子とか」
と意見を述べた。
「……ウナギを巻いたう巻き玉子などはメジャーですね。他に、解したカニの身を入れたり、ホウレンソウや桜エビ、すき焼き風の味を付けた挽肉を入れるお店なども知っています。ご家庭でも簡単にできるものだとツナ缶などは具として手軽で美味しいですね」
竜一郎の言葉に、三人とも想像力がき立てられる。
「シラスなんかも美味しいんじゃないかしら」
「キムチとかどうですかね」
「鮭のフレークとか」
「ニラや空豆なんかもありだと思います!」
美月と貴美が挙げるアイデアを聞きつつ、ふと嘉穂が言った、
「どれも美味しいと思うけど、大葉とか三つ葉を混ぜても美味しいんじゃないかしら」
という意見に、竜一郎は大きくうなずいた。
「……うちの店でも、恒常のメニューを決めるときに最後まで候補に残ったのが『大葉入りだし巻き玉子』でした」
「どうして外れちゃったんですか?」
貴美の質問に、竜一郎は苦笑した。
「……いえ、メニューが多すぎて、圧縮した方がいい、と考えまして。だし巻きはプレーン一種類にして、他のメニューを入れるべきかな、と」
なるほど、と三人も苦笑した。
実際、『竜の泉』のメニューはとても多い。恒常のメニューだけでも多い部類だというのに、季節やその日の仕入れによって変わる『本日のオススメ』が二〇や三〇、別紙で追加されるのだ。
「まかないではときどき出ることがあるんですよ、大葉入りだし巻き」
通りかかった店員の沙也香が、会話に入ってきた。
「私、大好きなんです、大葉だし巻き」
「お金を稼ぎながら一食分浮いて、それが美味しいなら言うことないわよね」
「はい、そうなんです!」
現役大学生のバイトなのだから、そりゃあ沙也香の楽しみはまかないだろう、と嘉穂は口元を綻ばせた。
自分の学生時代が思い出されて、嘉穂はなんだか複雑な気持ちになった。
嘉穂とて、まだ二〇代半ばである。
大学時代なんて、たかが数年前のはずなのに、どうしてこんなに懐かしいのだろう。
──そういえば、あの頃はお金もなくて、卵にはずいぶんお世話になったなあ。
バイトをして生活費を稼ぎながら、大学で講義を受け単位を取り、その傍らで趣味の小説を書き、学校内外のいくつかのサークルに顔を出して、会報誌などの文面作りを引き受けたりしていた。
今では仕事になっている文章を書くことが、ただそれだけで楽しかった時期でもあり、プロになれるなどと考えてもいなかった時期でもある。
あの頃、お金は常になかったが、そんな中で楽しみだったのが『賞味期限が危なくなってきた卵(安売り一〇個パックを買うと、たいてい何個かは危なくなる)の整理で作る玉子焼き』だった。
料理など自己流で、この店のだし巻き玉子には果てしなく遠く及ばない代物で、火が通り過ぎて堅くなっていたし、なかなかしっかり混ざらなくて味にもムラがあったけれど、二個三個の卵を使ったボリューム感だけで大きな満足があったものだった。
「あーあ、私も、学生時代のバイトはまかないが出る飲食関係を選べばよかったわ。そこまで考えてなかったなあ」
「やっぱり、片菊さんは出版社の編集部とかでバイトしてたんですか?」
「まさか。その頃は文章を仕事にしようなんて思ってなかったし、書店で雑用をやってた程度よ」
沙也香の質問に答えながら、懐かしい学生時代の味に思いを馳せる。
当然、自分の玉子焼きはお店の味に比肩するべくもなく、お店の味に親しんだ今では自分で作ることもなくなってしまった。
「具が入っても美味しいのは間違いないんだろうけど、私、なんだか一周回っていつものプレーンなのがいいかな、って思い始めてきたわ」
「あ、それわかるー。一番安心できるのよねー」
「ですね。混じりっけなしの美味しさというか」
三人の会話に、竜一郎が、
「……では、半分に大葉を入れて、半分はプレーンにしましょうか」
と提案する。
「いいんですか? すみません、ワガママばっかり言っちゃって」
申し訳ない気持ちでいっぱいで、嘉穂は頭を下げた。
「……いえいえ、大葉なら巻く位置をちょっと調整するだけですから。それに、プレーンなのが一番と言って頂けるのも、小細工なしで勝負できる味だと言って頂けているわけで、料理人冥利に尽きるというものです」
カウンターの中で、竜一郎がだし巻き玉子を焼き始めた。
その姿を眺めながら、だし巻き玉子を待ちつつ、三人はグラスを傾けるのだった。
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