2巻 第9話 仕込みと信心


 居酒屋『竜の泉』の厳つい店主、辰巳竜一郎の朝は早い。

 店を開けるのは夕方だが、朝に市場に仕入れに行き、買い付けた食材を運び入れて仕込みをしているうちに開店時間などすぐにやってきてしまう。

 仕入れ自体、その日市場で実物を見て仕入れを決めるため、『本日のオススメ』に記載するメニューを決めるのも当日になる。

「おはようございます。今日の仕入れ、どうでした?」

 仕込みが始まる時間になると、調理場担当のスタッフが出勤してくる。白い頭のベテラン調理人が、顔を出すなり訊いてきた。

「……おはようございます。今日は戻り鰹が良さそうですね。あとは落ち鮎が目に止まったので買ってきました。アジも良いのがありましたけど、秋刀魚はダメですね」

 落ち鮎とは、子持ちになって秋の旬を迎えた鮎のことである。

「ほう、落ち鮎、良いですね。甘露煮ですか? それとも塩焼きで出します? 俺もまかないで食いてえなあ」

「……どっちにするかは考え中ですが、鮎はそんなに数がないので、まかないでは勘弁してください」

「でしょうなあ。あ、じゃあ俺は煮込みの方をやりますんで」

「……お願いします」

 軽口を叩きながらも、竜一郎の動きを見ただけで自分が何をすべきか把握し、作業に入るのはベテランの貫禄である。

 その後も、焼き場を任されている中東の青年や、ホール担当の二ノ宮睦美が続々とやってきては持ち場についていく。

 睦美は食材には直接手を出さないが、酒類の在庫をチェックしたり、今日の予約を確認したりと忙しく動き回っている。コースの内容や段取りについて、竜一郎に確認をとったり、常連がキープしたボトルを整理したりと忙しい。

「何、今日鮎があるんだ」

 睦美がカウンター越しに、食材を冷蔵庫にしまおうとしているベテラン料理人の手元を見て声をかけた。

 そして話は、落ち鮎は甘露煮か塩焼きか、という方へ向く。

「あー。どっちもいいけど、塩焼きを食べたがるお客さんの方が多いんじゃない?」

「そうかねえ」

「片菊さんたちとかさ」

「あー、あの三人組か。確かに落ち鮎の塩焼きってメニューにあったら目聡く見つけそうだねえ、目に浮かぶようだ」

 ベテラン料理人がくすくすと笑った。

「彼女たちが好きなお酒との相性だと、甘露煮よりは塩焼きでしょ」

「しかし、ああいう子たちにこそ、甘露煮も味わってもらいたいもんだがねえ」

「こればっかりはねえ。いくらそう思っても、押しつけるわけにもいかないし」

「甘露煮も酒に合うんだがなあ……」

「そりゃそうだけど、吟醸系よりは純米系でしょうよ」

 睦美が肩をすくめる。

「カンロニはなんデスか?」

 二人の会話を聞いていた中東の青年が訊いた。

「……甘露というのは、伝説上の、神様が飲む蜜のように甘い液体のことです。そこから、甘辛く魚を煮た料理のことを言います」

 戻り鰹を卸しながら、竜一郎は言った。

「……小魚を使うことが多いですが、鮎で作ると本当に美味しいですよ」

「実際に味を教えてほしそうな顔してるなァ」

 ベテランに言われて、青年は照れ臭そうに笑った。

「私の国、甘味強い料理好きな人多いデスから」

「しかしよ、なんだっけ、ハラール? とかいうので、お前さんたちは使える食材が制限されてるんだろ。鮎とか、大丈夫なのかい?」

「信仰は人それぞれダカラ、大丈夫な人は大丈夫。厳格な人でも、まあ、魚なら。問題になるとしタラ、捌き方とか、調理の仕方とか」

「複雑なんだなあ。とはいえ、外国人観光客が増えてるからには、他人事じゃねえやなあ」

 ベテラン料理人が難しい顔をする。

「……度が過ぎれば信仰の強要になりかねないですからね。なので、ハラールマークなども、統一された基準をなかなか作れないでいるそうですよ」

 竜一郎はそう説明して苦笑を浮かべた。彼の言うように、飲食店を経営する身としては、無関心ではいられないのだ。雇用主としても、そうした信仰を持つ者に豚肉を調理させるのだって、ハラスメントにならないか、と気を遣う。

「中には、神に祈ればどんな食材を食べても大丈夫、豚肉もお酒もOK、みたいな世俗派もいるヨ」

「……逆に、どこかのハラールマークがついていても、それを認証しているところの基準が自分の信仰と合わないからダメ、という人もいるようですね」

「なんでえ、そんなにいろいろあったんじゃあ、対応のしようがねえじゃねえか」

「……なので、お客様一人一人に確認するほかないでしょうね。最近はハラール認証を掲げる店も増えましたけど、『どこがどういう基準で認証したハラールか』ということでトラブルになる場合もあるようですね」

 同じ宗教だから、と部外者は一緒くたにしがちだが、生活に密着すればするほど、宗教も細分化していく。多くの派閥に分かれる宗教も少なくはないが、それ以外でも、きめ細かな対応を求められるべき案件なのである。

「そうそう」

 青年が、竜一郎の言葉にうなずいた。

「あそこのハラール基準は自分の信仰ではダメな食べ物も大丈夫にしちゃうカラ、他のところのハラールマークじゃないとダメ、みたいな人はたまにいるヨ」

「素人にゃさっぱりわからん」

 ベテラン料理人が肩をすくめた。

「知らないじゃすまないでしょ。そういうお客さんがうちにも来るかもしれないし」

 睦美に言われて、ベテラン料理人は「そりゃそうだが」とつぶやいた。

「……まあ、うちの厨房は主にカウンターの中なので、声をかけられることはありますが、大きく影響するのは睦美さんたちホール担当ですよ」

「そうよー」

「……なので、何か面倒な注文が入っても協力してあげてください」

「へいへい」

 ふて腐れたような態度だが、それを竜一郎と睦美が笑って流せるのは、ゴチャゴチャ言いつつも、いざとなれば率先して協力してくれることを知っているからである。

「……しかしまあ、そうした文化の違いを実感できるのが面白いところでもあります。美味しい美味しくない、食べる習慣があるかないか、それ以外でも、様々な食にまつわる文化があるということですね」

「私も、日本に来て驚いた文化たくさんあるヨ。生の魚食べるは知ってたケド、麺を音立てて食べるトカ、チーズかと思ったら豆腐だったトカ」

「そりゃお前、アレだ。お互い様ってヤツよ」

「そう、お互い様」

 ベテラン料理人と中東の青年が顔を見合わせてにいっと笑う。

 あるいは、こんな小さな居酒屋からこそ、真の意味で国際交流は始まるのかもしれない。

 開店前のいつもの様子に、竜一郎は漠然とそんなことを思った。

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