2巻 第4話 日本酒マリアージュ


 店に入るなり二人の姿を探してしまう貴美だったが、その日は二人の姿はなく、目に止まったのは、髪を短く刈り上げた精悍な若い男性だった。

 いつかここで会った、杜氏の青年である。

「あ、どうも」

 ぺこり、と貴美は頭を下げた。

 青年も貴美に気がつくと、わざわざ席から立って、

「よろしければ、こちらにどうぞ」

 と、となりの席に招いた。

 とりあえず、いつもの面々もいないことだし、と貴美は青年のとなりの席に座った。座りながら、店員の睦美に最近気に入っている日本酒を頼んだ。

「どうですか、ここの牛すじ煮込みに合う日本酒、見つかりました?」

「いえ、それは継続中なんですけど……」

 ふと、貴美の脳裏に、寿司とワインをご馳走してくれた上司の顔が浮かんだ。

「実はですね、ちょっと仕事で上手くやれたときにお寿司とワインをご馳走してくれた上司がいるんです」

「えっ」

 貴美の言葉に、青年の顔色が変わった。傍目にも明らかに動揺が現れているが、当の貴美は気づかないまま話を続けた。

「それで、お礼にイタリアンかフレンチで日本酒を試してもらうとか、そういうことができたらいいなあって思ってるんですけど……聞いてます?」

「え? あ、ええと……」

 挙動不審になる青年に、貴美が注文した日本酒を持ってきた睦美が、

「バリバリのキャリアウーマンなんでしたっけ、その上司さん」

 と見かねて声をかけた。

「へ? キャリアウーマン?」

「そうなんですよ。メチャクチャ厳しくてクールな女性なんで、ご褒美にお寿司をご馳走してくれたときにはビックリしました」

「あ、女性。そうなんですか……」

 青年はホッと胸を撫で下ろした。

「でも、新藤さん、今どきは女同士だからって安心してちゃダメですよ。何が起こったっておかしくないご時世なんですから」

 イタズラっぽく睦美がそう言って去っていく。

「あはは、まさか」

 貴美は笑っていたが、青年の方は複雑そうな顔で睦美を睨んでいた。

「ええと、それで、なんでしたっけ?」

 頭をきつつ、視線を貴美に戻して、青年が訊いた。

「イタリアンやフレンチに日本酒を合わせるには、という話です」

「ああ、そうでした。うーん……」

 青年は少し考えこんで、

「比較的やりやすいのは、カルパッチョのような鮮魚系の料理ですね。これは刺身に合わせるのと近い感覚で日本酒で楽しめると思います。大吟醸なんか合うと思いますよ」

 と答えた。

「あー、わかります。前菜系とは相性が良さそうですよね」

「ですね。あとはもう日本酒の銘にもよるんですけど、生酒系は白ワインに近い合わせ方ができると思います」

 日本酒にも、生はある。文字通り、加熱処理をしていない日本酒である。

「なるほど……。肉料理には、やっぱり純米酒ですか?」

 その質問は、かつて嘉穂に教わったことや、これまで試してきた貴美自身の経験に基づいたものである。

 それでも自信を持って「純米酒ですよね」と言えなかったのは、あるいは貴美自身もそこに疑問を持っているからなのかもしれない。

「確かに、純米酒には肉料理に負けないコクや旨味を持っているお酒は多いですね。とはいえ、そこからさらに踏み込んで、合う、というところまで行くには、個別に料理と酒を合わせて選ぶしかないのかもしれません」

「そういえば、上司がワインとお寿司をご馳走してくれたときも、ワインの銘柄を指定したり、グラスをいくつも並べて、このネタにはこれ、みたいなことになってました」

「そうなりますよね。どうしても汎用性という意味では、料理と同じ文化圏のお酒には及ばないかもしれないです」

「まあ、好きな人にとっては、そうやって個別に合わせて試していくのも楽しいんですけどね」

 青年はまた考え込んで、ふと思い付いたように、

「そういえば、古酒──熟成酒は飲んだことがありますか?」

 と訊いた。

「えっ、熟成酒? 日本酒のですか?」

「はい」

「でも、日本酒って長期保存に向かないはずじゃ……。あ、でも、そういえば前に嘉穂さんがそんな話をしていたような……」

「もちろん、熟成前提に造ったり、しっかり管理する必要はありますが、日本酒にも古酒、熟成酒はあります。中には何十年ものもありますよ」

「へえ、どんな味がするんですか?」

 そう言いながら、貴美は通りかかった睦美に目を向けた。

 それとなしに聞いていたのか、睦美は、

「さすがに古酒を常備はしてないですねえ」

 と苦笑を返してきた。

「それは残念です……」

「ものにもよりますが、古酒、熟成酒には中国の紹興酒のような強い風味が出てきます。それはそれで合わせる料理は選びますが、濃厚な肉料理には合わせやすい気がします」

「やっぱり、お肉料理に合わせるには強さが必要なんですね」

「肉自体が強いですからね。あとは、やっぱり同じ文化の強みなんでしょうね。照り焼きや焼き鳥、ウナギのタレみたいに和風の味付けなら、なんとなくで合わせても、そんなおかしいことにはならなかったりするんですよ」

「あー、それ、わかります。同じ土地のお酒とお料理は相性が良いって、嘉穂さんも言ってました!」

「ときどき名前が出るその方が上司さんですか?」

 青年の問いに、貴美は首を横に振った。

「あ、いえ、違います。ここで出会って意気投合した飲み仲間ですよ。私よりお酒のことに詳しいんで、いろいろ教わってるんです」

「ああ、なるほど……」

 青年は少し考えこんだ。

 そして少し緊張気味な顔で居ずまいを正し、「あの」と意を決したように声を出した。

「うちの酒造に見学に来てみてはいかがですか」

 それはまるで、重大な告白でもするかのような口振りだった。

「えっ、いいんですか?」

「もちろんです。新米が出回るまでは忙しくありませんし、酒造になら熟成酒もありますから。五〇〇円ほど頂きますけど、熟成酒も含めて、何種類ものお酒を試飲できるプランもありますよ」

「うわあ、すごく行きたいです!」

 青年は少し興奮に上気した顔で、しかしホッとした様子も見せつつ、

「じゃ、じゃあ、連絡先を教えてもらっていいですか。日程の話とか、今後しなきゃならないと思うんで」

 と携帯電話をポケットから取り出した。

「あ、はい、もちろんです。あ、それから」

 貴美も携帯電話を取り出しつつ、

「その見学、さっき話に出た嘉穂さんも含めて、あと二人ほど呼んでもいいですか?」

 と訊いた。

「へ?」

「二人とも、お酒が大好きなんですよ。特に、嘉穂さんは物書きをやってる人なんで、そういう体験、喜ぶんじゃないかなって思って」

 まるで他意のない顔で貴美に言われて、青年は、

「も、もちろん」

 と答えるほかなかった。

 そんなやりとりの後ろでは、店員の睦美と沙也香が笑いをみ殺していた。

 それでも、その日、青年は貴美の連絡先を得ることに成功したのである。

 そして貴美は、何度か居酒屋『竜の泉』で出会った若い杜氏が、森屋裕樹という名前であることを知ったのだった。

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