2巻 第5話 酒造見学
その酒造は、嘉穂たちがよく行く居酒屋『竜の泉』の最寄り駅から電車を乗り継いで四〇分、そこから小さなコミュニティバスで一五分ほどの距離にあった。
地理的には東京の中にあるが、そこそこ発展した田舎町といった雰囲気である。
「普段そんなに納豆なんて食べないんですけど、食べるなって言われると妙に食べたくなるから不思議ですよね」
コミュニティバスの窓から流れていく景色を眺めながら、貴美が言った。
納豆菌は繁殖力が強い。菌を扱う酒造では厳禁なので、前日から納豆は食べないように、というお達しが出ていた。
「そう? 私は日常的に食べるから、うっかりしないように気を遣ったわ」
「あたしも。納豆って何かと便利なのよねえ」
「そうなのよ。ごはんにかけるのはもちろん、イカ刺しでも買ってきて和えたら良いおつまみになるし」
「納豆パスタとか納豆うどんも手軽に作れるし」
「納豆うどん……?」
美月の言葉に首を傾げた貴美だったが、それ以上会話を広げる前に降りる停留所が見えてきて、停車のボタンに手を伸ばした。
「都心を突っ切って来てるせいか、ずいぶんのどかな風景になったなあ、って感じねえ」
バスから降りるなり、美月が言った。
「そう? 私は酒造って、もっと水が綺麗な山の中にあるのだと思っていたわ」
「私もです。っていうか、東京にもあるって聞いてびっくりしました」
嘉穂の言葉に、貴美がうなずいた。
「今は水も運んでこられますからね」
三人の後ろから声がした。
振り返れば、そこには杜氏の青年──森屋裕樹の姿があった。
「どうも。遠くまで来てもらってすみません」
裕樹が頭を下げる。
「いえ、こちらこそ、貴重な機会を作っていただいて、感謝しています」
嘉穂もそう言って礼を返し、自分の名前を名乗った。美月も、「今日はよろしくお願いします」とそれに倣う。
「とりあえず、移動しましょう。外じゃ暑いですから」
移動先の酒造は、バス停から歩いて五分とかからないところにあった。
門を入ってすぐのところに、鉄骨で組まれた台座のようなものの上に鎮座した大きなタンクがある。そのタンクには、造っている酒の銘が大きく書かれていた。
「あれは井戸ですよ」
嘉穂の視線に気がついて、裕樹が言った。
「うちで酒を造るのに使う水は、あの井戸から汲むんです」
「じゃあ、もしかして、その井戸水が良いからこの場所で酒造りを?」
「いやあ、そういうわけじゃないみたいですね。水も、良いのか悪いのか、俺にはよくわかんないっす。この水じゃないとうちの酒の味は出ないでしょうけど、そのままは使えなくて、濾過したりしてますからね」
そんな説明をしながら、裕樹は三人を先導し、井戸の裏側へと回った。
「この機械で米を蒸します。米がそっちに流れていって、そのダクトで排熱するんですけど、冬でもここでの仕事はメチャメチャ暑いっすね」
そこに限らず、若者が案内してくれた酒造の作業場は、古い工場と古い蔵を融合させたような不思議な作りになっていた。
吟醸造りのための冷蔵庫のような部屋や、大きなタンクが並ぶ部屋も、現代の技術が入っていながらも、壁や梁などに古い蔵の面影が残っている。
「今は日本酒造りもかなりデータ化されて、意図して狙った味や香りを造れるようになっているって聞いたけれど、実際どうなんですか?」
貴美の質問に、裕樹は「うーん」と渋い顔をした。
「そうっすね、そういう面は確かにあります。でも、データ化できる部分って、たぶんホントに表面だけっていうか、ごく一部だと思うんですよね。だって、生き物が相手ですから。こうしたらこうなる、ってのはデータになったとして、でも、菌が起こすその作用の何もかもが解明されてるってワケでもないと思うんすよ」
「そうなんですか?」
「そりゃあそうです。それに、忙しいときはデータを参照してる暇なんかないですから、最終的には経験と勘がものを言う職人の世界っすね。少なくとも、うちは」
「なるほど……」
「とはいえ、失敗したら何が悪かったのか、予想以上に上手くいったら何がよかったのか、場合によったら大学の研究機関とかに分析を依頼してまで突き止めようってすることもあるんで、職人技とデータ管理の良いとこ取りみたいな感じっすね」
「料理は科学なんてよく言うけど、お酒造りもそういうところがあるのね」
何気ない嘉穂の呟きに、裕樹は、
「そうですね。生物学と化学を一緒にやってるようなもんかもしれないです」
と笑った。
古い蔵の中に機械が組み込まれていたり、もう使われていないであろう古く大きな樽の横に金属製のタンクがあったり。
長い酒造の歴史の中で、徐々に様々な機械や道具、技術が導入され、その都度、作業のやり方や材料への向き合い方も変化してきたのだろう。裕樹の言葉は、蔵だけでなく、人もそうした変化をし続けてきた証拠そのものなのかもしれない。
酒造りの工程や裏話などを聞きながら施設を見て回ったあとは、販売所のような一室に案内された。
木材の良い香りが立ちこめ、サンプルとしてたくさんの酒瓶が並び、奥には試飲用のテーブルも用意されていた。
「どうぞ、座ってください」
裕樹は三人にそう言って席を勧めて、三つのグラスと、何本かの酒瓶をテーブルの上に並べた。
「この瓶が純米吟醸、こっちは変なラベルですが、米を変えて試作した吟醸で、こっちのはおりがらみ、あと、古酒とみりんです」
「みりん!? みりんって、調味料のあれですか?」
驚く貴美に、裕樹は「あはは」と笑う。
「みりんもお酒ですからね。うちでも造ってるんですよ。調味料だけじゃなく、飲む文化だってあるんですよ」
「焼酎を加えて『直し』にしたりしますよね」
直しは本直しともいい、江戸時代には焼酎とみりんを混ぜたものを井戸水で冷やして飲んでいた、という記録も残っている。飲みにくい酒を「手直しして飲む」というような意味の名前であるらしい。関西の方では『柳蔭』とも呼ぶ。
「さすが作家さん、詳しいですね。生姜を加えると美味しいですよ。あとで飲んでみますか?」
そう言いつつ、裕樹は純米吟醸を三人のグラスに注いだ。
「まずはこれをどうぞ。次にこっちを飲んで、違いを感じてください」
言われるまま、三人は勧められた日本酒を順に口にした。
「あら、美味しい。どっちも、居酒屋にあったら頼んじゃうわあ」
「はい、でも、この違いはなんでしょう……。甘味、いえ、酸味ですかね……」
「香りも少し違うわ。何が違うのかしら。精米歩合か、醸造アルコールや水の添加量?」
「いえ、実は、酒米が違うんですよ。こっちが山田錦。こちらは八反錦という品種を使っています。八反は上品な香りのお酒になるんですよね」
「酒米の違い……!」
三人は顔を見合わせた。
実のところ、嘉穂もそこまで酒米の品種に意識を向けたことはなかった。銘柄や甘口辛口、吟醸や純米といった区分ばかりを見ていたのだ。そもそも、同じ銘柄の違う酒米を使った酒を揃えている店というのも滅多にない。
「日本酒の味はいろんな要因でガラッと変わるんですよね。酒米もそうですし、杜氏が変わっても全然違う味になったりしますよ」
次に、裕樹はほんのりと濁ったおりがらみを注いだ。
「おりがらみは、にごりと清酒の中間みたいな感じですね。おりがらみの『おり』は、米やの欠片などの醪、不純物のことです。少し待つとこれは沈んでいくんで分離できるんですけど、それを待たずに瓶詰めしたのがおりがらみです」
「おりがらみ、私は好きよ。清酒とにごり酒の良いとこ取りな感じで」
注いでもらったおりがらみに口を付けつつ、嘉穂は言った。
「あ、にごり酒よりずっとクセがなくて飲みやすいわねえ。あと、ちょっとシュワシュワしてる?」
美月が小首を傾げた。
「生酒なんで、発酵が続いているんですよ」
「……このおりがらみ、買って帰ることはできますか?」
貴美が裕樹に訊いた。よほど気に入ったのか、真剣な顔で。
裕樹は嬉しそうに少しを上気させた。
「ええ、もちろん。たぶん、まだ在庫はあったはずです。宅配便で送ることもできますよ」
それはそれとして、最後に残ったのは古酒とみりんである。
「じゃあ、古酒、いってみますか。ちなみにこれ、七年ものです」
裕樹が注いだ液体は、これまでの日本酒と違い、かなり黄色みが強かった。グラスにほんの少量、一口分にも満たない量が注がれただけだというのに、顔に近づけただけでかなりキツい香りが鼻をつく。
「うわ、これ、ホントに日本酒なんですか!?」
一口なめて、貴美が悲鳴のような声を上げた。
「確かに、香りも味も紹興酒みたいねえ」
「まあ、紹興酒ももち米を原料に使うから、遠い親戚かもしれないわね」
三人が味わうのを待って、裕樹は、
「紹興酒に近い、ってのは俺もそう思います。それってつまり、中華料理のような味や脂が濃い料理にも合う、ってことですよね」
と言った。
「その分、クセも強いから、好みは分かれるわよね」
「そうですね……。日本酒のつもりで飲むと、良くも悪くも驚きますよね」
嘉穂の言葉に、貴美もうなずいた。
「ちょうどいい料理と一緒に出して、驚かせるような演出もできるかもしれないですよ。熟成酒も、氷室のような低温の場所で熟成させることで、クセを一切出さないような造り方をしてるところもありますけどね」
嘉穂は「あー」とうなずいた。そういう日本酒を飲んだ記憶があったからだ。あのときは、戻り鰹を肴にしていたのだったか。
「まあ、こういうのもあります、という日本酒のひとつですね」
そして、最後に残ったのがみりんである。
古酒よりもっと黄色く、粘度の高い液体を少し注いで、裕樹は、
「これを入れると美味しいですよ」
と、チューブのおろし生姜と市販のレモン果汁を三人の前に置いた。
言われるままに生姜とレモン果汁を入れて、古酒同様におそるおそるなめてみた貴美は「あっ」と声を上げた。
「甘っ! え、みりんってこんなに甘いんですか!?」
「でも、イヤな甘さじゃないでしょう?」
裕樹が笑う。
「なんていうか、はちみつレモンみたいな味ねえ。生姜のせいかしら」
「というより、これ、ほぼ『ひやしあめ』よね」
「よくご存じで。関西ではメジャーな飲み物ですけど、こっちの人はあんまり知りませんよね。ひやしあめは麦芽水飴でみりんは米という違いはありますけど、砂糖を使っていないって点では同じです」
「え、砂糖、入ってないんですか!?」
再度、貴美が驚きの声を上げる。
「ええ、米の甘さですよ。面白いですよね。そしてみりん風調味料と違ってれっきとしたお酒なんで、宗教によっては戒律に引っかかったりすることもあるんです」
そんなふうに、同じ米から作られた様々な酒を飲み比べ、気になった酒をおかわりしたりしつつ、三人は発酵と熟成、米との不思議を堪能したのだった。
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