2巻 第3話 イナゴの佃煮


 その日、嘉穂は「あ、これはいけない」という予感を早々に感じ取っていた。

 たぶん、それは貴美も同じだっただろう。

「嘉穂さん、貴美さん、聞いてくださいよう」

 嘉穂と貴美が店に来たときには、すでに美月はカウンターに陣取って一人で飲み始めていた。

 そして、半べそでのそのセリフである。

 ──また失恋したのか。

 もはやそれは、直感というより確信だった。

「今度はどんな男性だったんですか?」

 そう尋ねた貴美も覚悟を決めたらしい。

 やれやれ、と嘉穂も小さく一つため息をついた。

 こうなれば、一蓮托生である。

「睦美さーん、『百年の孤独』をロックで」

「嘉穂さぁん、今その焼酎を頼むの、なんか悪意がなぁい?」

 美月に腕をまれて、嘉穂は面倒くさそうに、

「考えすぎ。長話を聞くなら、ちょっとくらい強いお酒でも飲まなきゃやってらんないかな、と思っただけよ」

 そんなやりとりを横目で見つつ、貴美も好みの酒を注文している。そしてついでに、今日の仕入れでは何が良さそうかを尋ねている。慣れたものである。

「で、今回はどんな男だったのよ」

 嘉穂も嘉穂で慣れたもので、そう訊きながら、メニューを手に『本日のオススメ』に目を通していた。

 二人して慣れてしまうほどに、美月が失恋する頻度は多い。気がつけば新しい恋人ができていて、嘉穂や貴美がそれを知る前に別れている。

 何をどうやったらそんな簡単に異性と出会えるのか、嘉穂にとっては不思議でしょうがない。

「すごく真面目そうな人だったの。いつもビシッとスーツを着こなして、いかにもやり手の営業職みたいな」

 ぐすぐすと半べそをきながら、ときおりおしぼりで目元を拭いたりしつつ、美月は言った。

「今回は真面目系サラリーマンですか。前回はなんでしたっけ?」

「前回はIT系インド人、その前は自称会社経営のナイスミドルで、更に前がソーシャルゲームの課金でお金を借りようとしたダメ男」

「嘉穂さん、よく覚えてますね……」

「もしかしたら、仕事の参考くらいにはなるかなって。あ、二ノ宮さん、肉じゃがください」

「えー、ひどーい。友情で聞いてくれてると思ってたのにー」

「それが少なからずあるから、私も貴美さんも聞いてあげる覚悟をさっさと決めたのよ」

「それで、真面目な営業職っぽいサラリーマンの彼とはどうなったんですか?」

 生グレープフルーツサワーを手に、貴美が訊いた。

 貴美はどうやら、話が中心の場合には日本酒を飲む気がないらしい。用途によってお酒を使い分けられるのは大変な進歩である。師匠のつもりはない嘉穂であっても、そういうところを見ると思わずニヤリとしてしまう。

「もちろんもう別れたよ! だって、ここに連れてきたら、二ノ宮さんにすっごい横柄な態度するんだもん!」

「あー。あの人、七瀬さんの彼氏だったんですか」

 嘉穂に肉じゃがを持って来た二ノ宮睦美が苦笑した。すでにベテランの域で年齢も若くはないが、睦美はこの店での人気は高い。

 常連客の顔と酒の好みを完全に把握し、好みにドストライクの酒と肴を薦めてくる。明るい性格で話も楽しく、うんちく話や世間話も面白い。完全にこの店になくてはならない重鎮であり、看板娘である。

「こっちも商売ですし、別に気にしませんけどね」

「いいえ、二ノ宮さん、それは違うわ。美月さん、別れて正解よ」

「はい、最低です。そんな人とはどうせ長続きしないです」

 一瞬で、嘉穂も貴美も、噂の元彼の好感度が底値にまで落ちた。

「お客の立場を利用して偉そうにする人、嫌いです」

「そうね。カッコ悪いわよね。しかも、その男は、きっと結婚したら同じ態度を美月さんに向けるわよ」

「うん、同感。だから、お店を出たらすぐにさよならしたんだけどぉ」

 はあ、と美月は大きくため息をついた。

「今思えば、それ以外は問題なかったんだし、その点を直させるような努力をするべきだったのかなあ、って」

「それは考えたって仕方ないと思うわよ。それで変わってくれるとは限らないし」

「そうですよね。どんなに頑張っても相手次第ですし……」

「あたしもそう思うんだけどねー。何より、そこでドン引きして冷めちゃったし。でもぉ」

 ダメな男によく引っかかる美月は、慣れもあってか、見切りを付けるのも早い。ただし、思い切りがいいわりに、こうして後になってから悩んだり後悔したりするわけだが。

「決めた! 次は見た目より内面で選ぶ!」

 ぐっと拳を握りしめて、美月はビールを呷った。

「中身は見えないから難しいんだけどね」

 嘉穂はそう呟きながら、ふと、『本日のオススメ』で目に止まった肴を注文した。

「あ、イナゴの佃煮ください」

「い、イナゴ!?」

 嘉穂の言葉に、貴美が驚きの声を上げた。

「イナゴってあのイナゴですか?」

「そうよ、バッタの」

「そんなの、食べられるんですか!?」

「もちろん。昆虫を食べる文化なんか世界中あちこちにあるわよ」

「あたしも知ってはいたけど、食べたことはないかなあ」

 運ばれてきた皿の中身を見て、貴美は「うわあ」と顔をしかめた。

 見た目は、佃煮色に染まっただけのイナゴそのものである。それが二〇匹ほど、無造作に盛られている。

「見た目は抵抗あると思うけど、本質は味でしょ」

「なあに、嘉穂さん、イナゴの佃煮みたいな男を見つけろってこと?」

「別にそんなことを言う気はないけど、なんとなく連想したのは確かかもね」

 言いながら、嘉穂は茶色く染まったイナゴを箸でつまみ上げ、そのまま口に入れた。それに倣って、美月もイナゴに箸を伸ばす。

「あ、美味しい。味はオーソドックスな佃煮だけど、パリパリしてて小エビみたい」

「えー、マジですか……。そんな、バッタが美味しいなんて……」

 貴美も怖々と一番小さいイナゴをつまんで、何秒かためらったあとに、決死の覚悟のような顔で食べる。

「あー、なるほど、確かにエビっぽいですね」

「そもそも、エビやシャコだって冷静に考えたら結構グロテスクな姿してると思うわよ」

「あー、言われてみれば……。脚、たくさんあるもんねえ」

「そんなこと、考えたこともなかったです……」

 貴美は再度、イナゴの佃煮を箸で持ち上げて、マジマジと眺めた。

「シャコは知りませんけど、エビは処理前の姿でもあんまり抵抗ないですよね。スーパーの鮮魚売り場とかでもよく見かけますし」

「結局は、慣れの問題ってことでしょ。味を知って見慣れていれば、特に見た目なんて問題じゃなくなるわよね。逆に美味しそうに見えたり」

「うん、そうだよね。やっぱり、見た目より中身よね! 見た目は、そのうち慣れる!」

 決意を新たにする美月に、嘉穂と貴美は顔を見合わせる。

 なんとなく、「次はそれでダメだったときの愚痴を聞かされることになるんだろうな」と思った嘉穂だったが、貴美もまったく同じことを考えていそうな顔をしていた。

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