第21話 居酒屋の四季
「……ホタルイカの沖漬けと、ボイルホタルイカです。こちらはワサビ醤油もいいですが、酢味噌もどうぞ」
厳つい店主がそう説明しながら、カウンター越しに料理を出してくれた。
それを受け取った嘉穂が、美月にも貴美にも手が届く位置に二皿を置く。
「来た来た。ホタルイカって美味しいよねぇ」
「はい。以前食べた素干しが美味しかったので、これも期待です」
沖漬けは大根おろしと大葉の上に、油の色に染まったホタルイカが丸のまま六匹載せられていた。その上に削った柚子の皮が散らしてある。言うまでもなく、この店『竜の泉』で仕込んだ自家製である。
ボイルの方はやはり六匹ほどが刺身のように大根や海藻のツマが添えて盛られており、別の皿に人数分の酢味噌が配られた。
もちろん、合わせるのは日本酒。各々が好きな地酒を頼んでいる。
「……ホタルイカのいいのが入るようになると、もう春だなって気がしますね」
そう言って、店主が笑う。
「嘉穂さん、ホタルイカって春が旬なんですか?」
貴美の質問に、嘉穂は「ええ」とうなずいた。
「三月から五月くらいかしら。確かに、最近は暖かくなってきたわよね」
「居酒屋でこんなふうに季節を感じるなんて、ちょっと風流だよねぇ」
「ですね」
美月の言葉に、貴美がうなずいた。
「都会で暮らしていると、外を出歩くよりこういうお店の方が季節感があったりするわよ。近くに大きな公園や庭園でもあるならともかく、季節なんか気温か街路樹や植え込みくらいでしか感じなかったりするでしょ?」
「確かに、最近じゃ花粉も年がら年中みたいだもんねぇ」
「アレルギーの原因が真っ先に思い浮かぶ季節感とか、ちょっとイヤですよね……」
貴美のみならず、嘉穂も苦笑してしまった。
「その点、居酒屋では日本酒の肴に最高のホタルイカで春を感じて、もう少ししたらタラの芽の天ぷらやウドの酢味噌和えも出てくるわよね」
「魚に春のサワラもこの時期ですか?」
「あ、サワラいいよねぇ。西京焼きとか、あたし大好き!」
「残念、サワラが美味しいのは秋から冬にかけてよ」
嘉穂の言葉に、美月と貴美は「えっ」と驚きの声を異口同音に発した。
「なのに、魚に春って書くんですか?おかしくないですか?」
貴美の疑問に、美月も、
「そうだよねぇ。おかしいよねぇ」
と同意を示した。
「……サワラは関東と関西で旬が違うんですよ」
カウンターの中から、店主が笑って言った。
「そうなのよ」
嘉穂も笑ってうなずき、
「関東では出産前の脂の乗った寒い時期のサワラが好まれるの。でも、関西では、五月から六月にかけて瀬戸内海に産卵のために集まってくるの。だから、その時期によく獲れたんでしょうね。きっと、サワラの漢字も都が西にあった頃にできたのよ」
「……産卵時期なこともあって、関西では真子や白子もよく食べるようですね」
なるほど、と美月と嘉穂は納得顔でうなずいた。
「……残念ながら、こっちではサワラの時季はもう終わりですが」
「残念ではあるけど、時季が過ぎたら食べられなくなるのも風情よねぇ」
「ですね。次のシーズンにまた食べたいなあ、って一年待つのも楽しいと思います」
「何かのシーズンが終わったら、別のシーズンがやってくるのよ。例えば、夏になれば鰺やアナゴ、ハモなんかが美味しくなるわよね」
「ハモの湯引きを梅肉でとか最高よねぇ」
「夏は野菜も美味しいわよ」
「野菜っていうと……何ですかね?」
貴美はあまりピンと来ていないらしい。
「例えば茄子の煮浸しとか、冷やしトマトとか、夏になると食べたくなるわよね。オクラやピーマンなんかもそうだし、以前に食べた『谷中生姜の豚肉巻き焼き』の谷中生姜も初夏から夏にかけての食材よ」
「あ! そういえばあのメニュー、最近見かけないなって思ってました!」
「……さすがにこの時期は手に入りませんから」
カウンターの中で、店主が苦笑する。
「食べ物の話じゃないけど、あたし、夏は暑い中働いたあとの冷たいビールとかも旬みたいなものだと思うんだよねぇ」
わかる、と嘉穂はうなずいた。
キリッと冷やした冷酒もいいし、氷を浮かべたハイボールもいいが、夏場は居酒屋に入るなりキンキンに冷えたビールが欲しくなる。
「ビールとなると、やっぱり枝豆ですかね?」
「丸のままのキュウリを味噌や梅肉で囓っても美味しいよねぇ。もろきゅうってヤツ?」
「もろきゅうは本来、もろみ味噌とキュウリなんだけどね。まあ、普通の味噌でも、梅きゅうでも美味しいのは確かだけれど」
「こうしてみると、夏も結構美味しいものがたくさんあるよねぇ」
「秋はもっとたくさんあるわよ」
「食欲の秋ですもんね。秋刀魚とか秋鮭とか、名前に秋って入ってますし」
「そうね。他にも、太刀魚、ホッケ、鯖、戻り鰹も秋だし、いくらやすじこもこの頃から美味しくなっていくわね」
「嘉穂さんも貴美さんも、お芋を忘れてもらっちゃ困るなぁ。あと、松茸! 秋はキノコの季節だよ!」
「お米も秋に新米が出るから、たいがい何を食べても美味しいのが困るわよね」
「秋はいろいろと食べすぎちゃうよねぇ」
「でも、冬は冬で美味しいもの山盛りじゃないですか。鍋とか」
貴美の言葉に、嘉穂と美月は苦笑しながらうなずいた。
「冬はアンコウ、キンキや金目鯛、タラ、ヒラメやワカサギやシシャモもそうだし、魚も旬のオンパレードなのよね」
「ブリもでしょ? 寒ブリって言うもんねぇ」
「カニとかも冬ですよね?」
「カニは種類によるわね。ずわい、タラバ、毛ガニなんかは冬だけれど、ワタリガニなんかはあちこちに漁場がある関係で一年中水揚げされるし、花咲ガニはむしろ夏だし」
「カニもズルいよねぇ。鍋にして美味しいし、刺身も茹でても美味しいし、カニミソなんか嘉穂さんも貴美さんも大好きでしょ? あたしはちょっと苦手だけど」
「あれ、美月さん、カニミソ、ダメなんですか?」
「うーん。カニの甲羅を外して食べるミソは平気なんだけど、瓶詰とか缶詰のカニミソはちょっとね」
「あー、確かにちょっと別物感あるわよね」
嘉穂がうなずくと、美月は「でしょ」と苦笑いした。
「そんなに違います?」
貴美が首を傾げる。
「あ、でも、私はあんまりカニとか丸ごと食べたことありませんでした」
「……保存の都合がありますからね。甲殻類は足が早いので、どうしても時間が経つと臭いが出てしまいますし」
店主の言葉にうんうんとうなずきつつ、美月は、
「あたし、たぶんその臭いが苦手なんだと思う。まあ、ホヤに比べたら全然マシだし、丸っきり食べられないほどじゃないけどねぇ」
と言った。
「まあ、肴もお酒と一緒よ。嫌いなモノをわざわざ選ぶ必要はないし、私たちも無理強いなんかしないわよ。好きじゃない人に食べさせるくらいなら、自分で食べた方がみんな幸せだものね」
「ですよね。好きな肴で好きなお酒を飲むのが一番ですから」
「そういうこと」
もちろん、新境地の開拓やチャレンジは素晴らしいことだと嘉穂は考えているが、そんな冒険や苦行を毎日毎日やる必要はない。
「だよねぇ。一年を通して、美味しいものだらけなんだから」
美月はそう言って、ホタルイカの沖漬けを一匹、箸でつまみ上げてヒョイッと口に運んだ。そして間髪入れずに日本酒を口にする。
「あー、美味しぃ! どうしてイカってこんなにお酒に合うんだろ」
ホタルイカのよさは、一口で丸っと一匹を食べられることだ。旨みの塊であるイカのワタも丸ごと一緒に味わえるのだから、旨みを一切損なわない。
沖漬けは醤油で漬け込んだ料理である。口に入れれば柚子と醤油の風味が舌に触れ、噛めば漬け込まれてふにゃっとなったイカの食感とともにワタの味が溢れ出す。
ホタルイカは日本酒に合わせるために生まれた生き物なのではないか、とさえ嘉穂は思うことがある。
貴美も同様に沖漬けに箸を伸ばし、嘉穂もボイルに酢味噌をつけて口に入れた。
生や沖漬けとは違う、火が通ったからこそのイカの食感。粘性やぐにゃりとした性質の代わりに、弾力を得たボイルホタルイカは歯を立てればぷつりと切れる。
調理法が変わっただけで、まるで別の食材のような味わいに変わる。
そしていずれも、酒を引き立て、何倍もの美味しさに変えてしまう。
「……まだ冬が旬の魚もギリギリ終わっていませんし、そちらも召し上がりますか? 寒ブリや冬から春にかけて旬の鯛もいいのが入っていますが」
店主の問いに、三人は顔を見合わせた。
言葉を交わすまでもなく、三人の顔は「食べたい」と雄弁に語っている。
「じゃあ、その辺を見繕って三人前のお刺身盛り合わせをお願いしていいですか?」
代表して、嘉穂が言った。
「……ありがとうございます」
厳つい顔をにこりと綻ばせて、店主が仕事に取りかかる。
「冬と春を同時に味わえるとか、ちょうど間くらいの時期もいいよねぇ」
「確かに。そう考えると、居酒屋っていつ来ても当たりですね」
「季節的にはそうかもしれないわね。でも、どっちかというと、市場に何が並んでるかとか、お店が何を仕入れられたかの方が重要かもしれないわ」
「……そこは私どもの腕の見せどころですので」
店主の言葉に、三人はうなずいた。
仕入れと料理の腕を信用すればこそ、常連として足繁く通っている三人である。
寒ブリと鯛が入った刺身の盛り合わせはすぐに出てきた。他にサヨリや白魚など、春の魚がふんだんに盛りつけられている。
「こうして見ると、寒ブリがまるで冬の名残みたいね」
ぽつり、と嘉穂は呟いた。
春の魚たちが多い中に混じった、冬の代表格。刺身の盛り合わせの外にあるのも、二種のホタルイカで春のものだ。
「寒ブリを先に食べてしまったら、冬が終わってしまいそう」
「あ、嘉穂さん、その表現、素敵だねぇ! さすが作家さん!」
「ちょ、やめてよ」
嘉穂は照れて顔を赤くした。
「いえ、ホントに素敵でした。まるで詩みたいで」
貴美までキラキラした目で見つめるものだから、嘉穂は顔を真っ赤にしてしまった。
「お刺身の詩なんてしまらないわよ、もう!」
拗ねたように唇を尖らせて、嘉穂は照れを誤魔化すように鯛の刺身を醤油につけて口の中に押し込んだ。
白身魚のほのかな甘みと香りは、ホタルイカとはまた違った風味で嘉穂の舌に春を届けてくれているようだった。
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