第20話 甘口と辛口

「値段は聞かない方がいいわよ」

 そう言って、嘉穂は店に入ってきたばかりの貴美に自分が飲んでいた日本酒を「一口飲んでみない?」と勧めた。

「え、そんなに高いお酒なんですか……?」

 席に座りつつ、貴美は怖々聞き返した。

「あたしはグラス一杯にあのお値段は払えないかなぁ。でも、一口飲ませてもらったけど、確かに高いだけの品格があったわよ」

 先に来て嘉穂のとなりで飲んでいた美月が貴美に言う。

「マジですか……。では、ありがたく一口頂きます」

 そして貴美は一口飲むなり、

「ふわぁ」

 と変な声を上げた。

「なんですか、これ!? 今まで飲んだ吟醸酒にも果物みたいな香りのお酒はありましたけど、これはちょっと群を抜きすぎなのでは」

「ね、すごいでしょ。この梨みたいな香り」

「はい! しかもなんだか、味までとっても甘くて……!」

「あら、そう? でも、このお酒、分類上は辛口になるのよね」

 興奮気味に熱っぽく語っていた貴美が、きょとんとした顔で首を傾げた。

「あたしも甘いお酒だなぁ、って感じたけど、そうなの?」

「ええ」

 貴美からグラスを返してもらいつつ、嘉穂はうなずいた。

「そういえば、日本酒は辛口とか甘口とか言いますけど、あれって味のことじゃないんですか? 私はてっきり……」

「いいえ、味のことよ」

「え? でも、今のお酒はあんなに甘い香りがしたのに……」

「そうね、きっと貴美さんは香りに引っ張られて甘く感じてしまったのかもしれないわ。まあ、甘いも辛いも最終的には個々の感じ方だから他人の意見に左右される必要はないんだけど、そもそも甘口辛口の判断に香りは関係ないのよ」

「じゃあ、甘口とか辛口ってなんなの?」

 美月が首を傾げた。

「基準の話をすれば、キッチリ数値で計れる日本酒の味の指針よ」

「数値ですか?」

「ええ。日本酒はお米の糖を酵母が分解することでアルコールを発生させて造られることは知ってるわよね? その分解の度合いを表す数値に日本酒度というのがあるの。酵母がたくさん働いていればそれだけ糖が減ってアルコールが強くなる。逆にあまり働いていなければ、糖が残って甘くなる、という具合ね。日本酒度が高ければ、それだけ甘さが少なくなるの」

「じゃあ、甘口辛口っていうのは、その日本酒度のことなんですね」

 納得したように、貴美と美月がうなずいた。

 が、嘉穂は首を横に振った。

「いいえ、日本酒度はそれを決める要素の一つよ。もう一つ、味を決定づける要素があるでしょう?」

 そう問われて、貴美は考えこんだ。

「香りが関係ないとすると……コク……いえ、酸味ですか?」

 貴美の導き出した結論に、嘉穂はにっこりと微笑んだ。

「正解。どんなに甘くても、酸っぱさが勝てば甘さも薄まってしまうものね。日本酒の瓶の裏側のラベルには、日本酒度と酸度という数値の記載があるはずだから、参考にすると好みの日本酒を探しやすいかもしれないわ」

「えっとぉ、日本酒度は高いほど辛くて、低いほど甘いのよね。その上で、酸度が高ければやっぱり辛口で、低ければ甘い、と」

「そうそう。甘辛度とか濃淡度っていう数値の算出式もあるんだけど、それは面倒だから省略ね。一般的には、日本酒度も酸度も低いのが淡麗甘口、どちらも高いのが濃醇辛口、日本酒度が高くて酸度が低いのが淡麗辛口、日本酒度が低くて酸度が高いのが濃醇甘口と呼ばれるって覚えておくと、選びやすくなるかも」

「あ、淡麗辛口とか、CMで聞いたことあります!」

「あたしも聞いたことあるけど、あれってそういう意味の言葉だったのねぇ」

「まあ、あくまで目安だけどね。さっき貴美さんがこのお酒を甘いと感じたように、香りとか他の要素で味わいなんて変わっちゃうから。最終的には、甘いも辛いも自分の感じ方で分類しちゃっていいのよ」

「嘉穂さんのそういうとこ、ブレないよねぇ」

 美月が笑う。

「それはそうよ。お酒に限らず、あらゆる嗜好品のジャンルや分類なんて、究極的には『自分が好きかどうか』でいいの。例えば小説や映画にもSFとかホラーとか分類があるけど、あれだってお客さんが好きなものを探しやすくするために大雑把に分類しているだけなのよ。個人的に好きか嫌いか、それ以上に重要なことではないのよ」

「好きか嫌いを探すための分類かぁ」

「言われてみれば、映画とか本とかをジャンルで探すのも、そのジャンルが好きだからですもんね」

「そういうこと。大事なのは、分類の先にある『好き』なのよ」

「なるほど……。じゃあ、これまで飲んで好きだったお酒の数値を覚えておけば、ある程度は飲まなくても傾向を推測できる、ということですね」

「貴美さんはそういうデータをまとめたり分析したりするの、好きそうよねぇ」

「はい。楽しいです」

 そんな話をしているところに店員の睦美が貴美のお通しとおしぼりを持ってきて、

「じゃあ、今日は辛口と甘口、わかりやすいのを飲み比べてみます?」

 と訊いた。

「あ、是非お願いします」

 OK、と言って一度その場を離れ、睦美が持ってきたのは『想天坊・外伝』と記されたラベルの純米酒だった。しっかりとラベルにも辛口と書いてある。

「まず辛口からね。新潟のお酒で、最近勢いがある酒造さんなんです。日本酒度プラス一〇の超辛口ですけど、スッキリしてて美味しいですよ。しかも、お値段もリーズナブル」

 説明しながら、睦美が日本酒をグラスに注ぐ。

「じゃあ、飲み終わったら今度は甘口のお酒を見繕ってきますから」

 そう言って、睦美は呼ばれたテーブルへと去っていった。

 貴美は早速一口すすって、ゆっくりと味を確かめるように味わった。

「あ、ホントにスッキリ……。でも、お米の風味はしっかりしてて、飲みやすいお酒ですね」

「そうね。私もそのお酒、好きよ」

「へぇ。あたしも頼もうかなぁ」

「これもセオリーの話になるけど、辛口のお酒には生醤油や塩味の肴が合うとされているわね。例えば、お刺身とか漬けものとか、塩で食べる天ぷらとか。吟醸とか純米だけじゃなく、辛い甘いも考えて合わせることを考えても面白いわよ」

「なるほど……。あ、二ノ宮さん!」

 話を聞きながら、貴美は通りすがりの睦美に声をかけた。

「もう飲み終わっちゃった?」

「いえ、どうせ比べるなら交互に飲んだ方がいい気がするんで、甘いのもお願いします」

「はいはい、じゃあ今持ってくるね」

 睦美が持ってきたのは『越後鶴亀』という銘の純米吟醸酒だった。

「これはワイン用の酵母を使って作られた珍しいお酒なんですよ。たぶん、新藤さんはかなり好きな味だと思いますよ」

 睦美の言葉通り、貴美は一口飲むなり、

「あ、美味しい! 好きです、このお酒!」

 と笑顔で言った。

「でしょー」

 と笑いながら、睦美は仕事へと戻っていった。

「甘くてフルーツみたいな吟醸香もいい香りで、──あっ、甘さのあとにぐーっと酸味が来ますね。それも好きです」

「貴美さん、完全に二ノ宮さんに好みを把握されちゃってるねぇ」

 美月が笑う。

「この店の常連で二ノ宮さんに好みを押さえられてない人なんかいないわよ」

「ですよね」

 嘉穂も貴美も、美月の言葉に口元を綻ばせた。

「吟醸香を楽しみたいならあっさり系の肴がいいけど、甘い日本酒は脂の乗った焼き魚や甘辛くて味が濃い煮魚なんかの強さを受け止めるしっかり感はあるかもしれないわね。もちろん、白ワインっぽさがあるならチーズなんかと合わせてもいけそうだけど」

「知れば知るほど日本酒も奥深いですね……。でも、辛口って具体的にどんな味のお酒を指すのか、ちょっと実感としてはわかりにくい気がします」

 貴美は何度か二種類の日本酒を交互に飲んで、呟いた。

「……うん、やっぱり。別に唐辛子みたいに辛いわけでも、塩辛いわけでもないですし……。甘口は実際に甘いのですごくわかりやすいですけど」

 貴美がそう呟くと、嘉穂は苦笑した。

「ぶっちゃけて言ってしまえば、辛口の定義は『甘口ではないお酒』ってことかな、って私も思っているのよね。実際、元々は日本酒業界で甘口の対義語として使われていた業界用語だって話だし」

「え、そうなんですか?」

 貴美が首を傾げる。

「あ、その話、あたしも聞いたことあるよ。戦後に質の悪い甘ったるい日本酒が出回ったことでイメージが悪くなったんだけど、ちゃんとした酒造りを守ったところのお酒が本格辛口ってコマーシャルでイメージをひっくり返したって」

 美月に嘉穂は「ええ」と同意を示した。

「甘いことが悪いお酒の代名詞みたいになっちゃったから、逆に『辛口』という真逆のフレーズで品質をアピールする必要があったのかもしれないわね。もちろん、今は甘い日本酒もしっかり美味しいわ。それはそのお酒を飲めばわかると思うけど」

「はい。とっても美味しいです」

「結局、それが一番大切なのよね。私を含めて、二ノ宮さんであれ有名な食通であれ、誰が勧めたとしても、最終的に味覚は一〇人いれば一〇人とも違うんだから、自分の舌で確認するしかないのよ」

「そうよねぇ。あたしは嘉穂さんのことも二ノ宮さんのことも信頼してるけど、やっぱり二人に勧められたってホヤの刺身が嫌いなことに変わりはないもん」

 美月の言葉に、そこまで嫌いか、と嘉穂と貴美は苦笑した。

「映画でもなんでもそうでしょ? 不評で人気がなかった作品でも、たまに熱烈に愛してる人とかいるじゃない。人の話ばかりで判断すると、もしかしたら自分にだけは深く刺さる運命の出会いを逃してしまうかもしれないのよ」

「そうですよね。一般的には合わないって言われるお酒と肴でも、自分が美味しいって思うならそれをやらない理由にはなりませんよね」

「ええ。だから、好きなお酒を好きな肴と好きな方法で飲めばいいのよ。その結果として失敗することがあったとしても、それはそれで話のネタくらいにはなるし、もしかしたら予想外の美味しさに出会えるかもしれないし」

「かといって、お金払って不味い思いはしたくないよねぇ」

「それも同感です。だから、今後は他人の話は参考程度に考えて、自分の舌で『アタック・オブ・ザ・キラートマト』みたいな美味しさを探そうと思います!」

 貴美の決意のこもった宣言に、嘉穂は凍りついたように硬直し、美月は首を傾げた。

「キラートマト?」

 どうやら美月はそれを知らないらしい。

「あ、ふうん……。貴美さん、あの映画好きなんだ……。まあ、確かにカルトな魅力はあるのかもしれないけど……。続編もあるくらいだし……」

 知らなかった美月も、その嘉穂の反応でおおよその概要を悟ったらしく、「あはは」と困ったように笑った。

 まさに、人の好みというのは本人にしかわからないものなのである。

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