第14話 居酒屋メシ

 その男性が店に入ってきたときに度肝を抜かれたのは、きっと嘉穂たち三人だけではなかったはずだ。

 その身体は、あまりにも大きかった。レスラーかラガーマンか、というくらい隆々とした肉体を縮こまらせるようにして入り口をくぐる姿は少しユーモラスではあったけれど、それでもその体による威圧感を消しきれるものではなかった。

 その大男は空いていたカウンター席にどっかと腰を下ろした。

「……いらっしゃい」

 同じくらい大柄で厳つい店主がカウンターの中から声をかける。大男は店主に四角い顔を向けて「どうも」と低い声で言い、

「ウーロンハイを。それから、厚切りハムカツとライスを下さい」

 と店主に直接告げた。

「……ライスは定食セットにすると味噌汁も付きますが」

「いえ、味噌汁は最後にもらいます」

「……かしこまりました」

 お酒も頼んでいるとはいえ、ライスを頼んで「味噌汁は最後」とはどういう意味だろうか、と嘉穂は首を傾げた。

「もしかして、最初にライスも食べるけど、このあともっともっと食べるから、ってことなんでしょうか?」

 小さな声で、貴美が言った。

「最後に、ってことはそういうことよねぇ」

 美月もそう呟く。

 やはり、二人も嘉穂同様に気になっているらしい。

 しばらくして大男に運ばれてきたハムカツは厚さが二センチ近くあり、見るからに厚切りでその名に恥じぬ逸品だった。カットしたレモンと和がらし、山盛りの千切りキャベツも当然添えてある。日本酒党の嘉穂はこのハムカツをあまり頼む機会がないけれど、ビールを中心に飲む客の間では人気が高いとは聞いていた。

 大男はそのハムカツとキャベツにソースをダバダバとかけてレモンを搾り、嘉穂ならどう頑張っても三口か四口を必要とするであろうハムカツを一口で口の中に入れた。

 衣を噛むザクッという音が、嘉穂たちの耳にまで届いてきそうな気さえする。

 揚げたてで熱かったのか、何度かはふはふと息を吐きながら、大男は実に美味そうな顔で何度も咀嚼し、そして大量のごはんをきこんだ。

 それを飲み込むと今度は大量のキャベツを張り、またハムカツに戻る。ときおりウーロンハイで口の中の物を流し込みながら、大男は厚切りハムカツとライスを(もちろん千切りキャベツも)瞬く間に平らげてしまった。

「すみません」

 大男は皿を下げに来た店員の睦美に、

「茄子と豚肉のピリ辛炒めとライスを」

 と追加注文した。

 ──またライス!?

 三人で顔を見合わせる。

 茄子と豚肉のピリ辛炒めは、その名の通り茄子と豚肉をピリッと辛みを利かせた味噌味で炒めた料理である。ピーマンなど他の野菜も入るが、あくまでメインは茄子と豚である。よく油を吸う茄子が溶け出した豚の脂を旨みごと充分に吸っており、豚の脂身の甘さとピリッとした辛めの味付けが引き立て合う。

 やはり日本酒向きの料理ではないが、ごはんとの相性がいいのは言うまでもない。

 それを、大男はまたごはんと一緒にもりもり食べ始めた。

 いっそ見ていて気持ちがいいほどに、料理とごはんが大男の口の中へと消えていく。大男は途中でウーロンハイのお代わりを挟みつつも、ものの三分ほどで茄子と豚肉のピリ辛炒めとごはんを食べ尽くしてしまった。

「なんという健啖家……」

「ホントに美味しそうに食べるよねぇ」

「ここまで来ると、味噌汁をいつ頼むかが気になります」

 三者三様の感想を囁き合いつつも、すでに大男の動向から目が離せなくなっている。

 それは嘉穂たちのみならず、他の客や店員たちも同様であるらしかった。

「すみません、スペシャル納豆を」

 大男は軽く手を挙げて、睦美にそう注文した。

 この店の納豆には種類というか段階があり、納豆にぶつ切りにした生のマグロが入った『マグロ納豆』、そこにイカやタコが加わる『海鮮納豆』、さらにそこに山芋、たくあん、いくらなどが追加される最上位版の『スペシャル納豆』の序列となる。

 これは日本酒でも肴としていけるので、ときおり嘉穂も頼むメニューである。

「それとライスを」

 ざわ、と店内が騒然となった。

 三杯目のごはんである。この店のライスはボリュームがある。少なくとも、嘉穂が〆に頼むときには量を半分にしてもらうことが前提なくらいには。

「一品につきごはん一杯とは……」

「おかずにしてるお料理も、どれも結構ボリュームあるよねぇ」

「気持ちいい食べっぷりですけど、見てるだけでお腹いっぱいになりそうです。しかも、味噌汁まだ頼みませんでしたよ」

 そんな店内の目を意にも介さず、大男は運ばれてきたスペシャル納豆に油をたっぷりと回しかけて、ガシガシと豪快に混ぜ始めた。そしてごはんにそれを半分ほどかけて、もりもりとスペシャル納豆ごはんを飲み込んでいく。

 ──納豆を半分残した。ということは、まさか……?

 そのまさか、だった。

 瞬く間に納豆ごはんを食べ尽くして、大男は、

「ライスを」

 と追加のごはんを注文した。

 ──やっぱりお代わりきた……!

 四杯目のごはんである。

 そんなにも米を腹に入れられるものなのか、と嘉穂は自分の常識を疑いそうになる。

 そのくらい、大男は平然と二杯目の納豆ごはんを同じ勢いで美味そうに平らげていく。

「吸引力が落ちる気配がまったくないわねぇ」

「そんな、高性能掃除機じゃないんですから」

 美月の言葉に、貴美が苦笑する。

「すみません、〆に焼きうどんと味噌汁をください」

 大男のさらなる注文に、店内が一転、静まり返った。

 〆とは。

 おそらく、店内の全員がその定義について考えこんだに違いない。

 この店の焼きうどんは野菜と豚肉がたっぷりのスタンダードな醤油味焼きうどんである。湯気とともにゆらゆら踊る鰹節がいかにも美味しそうに見える。

 その焼きうどんを、大男は豪快にすすり、ときおりウーロンハイで喉を潤しながら、またすする。

 その様は、美月の高性能掃除機の例えがまさにピッタリに思えた。

 大男は瞬く間に焼きうどんとウーロンハイを平らげ、添えられていたアサリの味噌汁をずずーっとすすって、アサリの身まで綺麗に食べて箸を置いた。

「ごちそうさまでした」

 そして少しも休むことなく、会計を済ませて、店に入ってきたときと同じ足取りで店を出ていった。

「すごかったねぇ」

 まるで止めていた息を吐くように、美月が言った。

 店にざわめきが戻ったところを見ると、店内の誰もが大男の食べっぷりに見入って話すことも忘れていたらしい。

 厚切りハムカツに茄子と豚肉のピリ辛炒め、スペシャル納豆、ごはん四杯、焼きうどんにアサリの味噌汁、ウーロンハイ二杯の、実に見事な食べっぷりであった。

「あんな飲み方をする人もいるのね……」

「ごはんを食べながら飲む、という発想はありませんでした」

 嘉穂の呟きに、貴美も相づちを打った。

「そうね」

 発想もそうだが、そもそも普通の人はあんなにたくさん食べられない。

「……今の方はかなり珍しい飲み方をされましたが、主食とお酒を一緒にという飲み方は結構見かけますよ」

 カウンターの向こうから、厳つい店主が言った。

「ホントですか?」

 嘉穂の問いに、店主は「ええ」とうなずいた。

「……チャーハンやお好み焼きでビールとか、うちでも焼きそばで飲む方も多いですし。餃子もビールに合いますが、本場の中国では主食だと聞きます」

「そういえばぁ、あたしの知り合いにも鯛飯や松茸ごはんを肴に日本酒を飲むのが好き、って人がいるわ」

 ごはんもので、酒。嘉穂の飲み方としては、その選択はない。だが、想像してみれば、味や風味が強いそうしたごはんものの料理は酒と合いそうにも思える。

「私の上司のお寿司でワインも、その仲間ですよね」

「なるほど……。考えてみれば、いろんな飲み方があるものね。案外、固定観念で身近にある美味しい組み合わせとか見逃してることも多いのかも」

 嘉穂はそう言って考えこんだ。セオリーというのは失敗しないという意味では有用だが、そこに縛られすぎるのも足枷になってしまうのかもしれない。

「……逆に、うちでまったくお酒を飲まれないお客様もいらっしゃいますよ」

 店主の言葉に、三人はまた驚いた。

「それってつまり、飲めないけど付き合いで来る的なことですか?」

 貴美の質問に、店主は「いいえ」と首を横に振る。

「……そういう方はたいてい一人でいらっしゃいます」

 その言葉に、また嘉穂たちは驚かされた。

「……飲み物はソフトドリンクを注文して、料理を一品とそれにお刺身かちょっとした小鉢のような料理を頼んで、それを定食セットにしてお食事して行かれるんですよ」

 なるほど、と嘉穂は唸った。

 刺身も単品なら、ものによってはさほど高くはない。しらすおろしや冷や奴など、ごはんに添えても抜群の小鉢の類いに至っては、安い。

 選択次第では、一〇〇〇円前後で満足度の高い定食が出来上がるわけだ。居酒屋は普通の定食屋よりメニューの数も多いし、組み合わせの選択肢は膨大になる。

 そして何より──

「居酒屋さんのお料理って、どれもこれも美味しいもんねぇ。ごはんで食べたくなるのもすっごくわかるわぁ」

 そうなのだ。

 繁盛する居酒屋は、えてして料理が美味い。料理が美味しくてついついお酒も進んでしまう、という店こそが愛される。

 裏を返せば、美味い食べ物を探すテクニックとして、繁盛している飲み屋に入ってみる、というのは上策なのかもしれない。

「でも、そういうお客さんってお店的にはどうなんですか? やっぱり、お酒も飲んでもらいたいわけじゃないですか」

 貴美の問いに、店主は苦笑を浮かべた。

「……まあ、そうですね。本音を言えばそうですが、それでも美味しいからと食べに来て頂けるのであれば大歓迎ですよ。そういう味のわかるお客様に話を聞いた人が来てくださることもあるでしょうから」

 なるほどなあ、と嘉穂は杖をついて感心した。

 通い慣れたつもりのこの店でさえ、知らない飲み方をしたり、知らない使い方をしている客が少なからずいる。

 それは驚きでもあり、面白さでもある。

「飲み方も店の使い方も十人十色、か──」

 まったく、酒もメシも奥が深い。

 それを思い知らされて、だからこそ楽しくなる嘉穂なのだった。

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