第15話 酒蒸し
その日は、最初に頼んだツブ貝とサザエの刺身が絶品だった。
「コリコリして美味しかったねぇ」
「貝ってカロリーが低いのに栄養価は高くてヘルシーだって聞きましたし、日本酒との相性もいいし、最高ですね」
一緒に同じ皿をつついた美月と貴美も気に入ったらしい。
「じゃあ、今日は貝づくしと行きましょうか」
嘉穂は笑いながらそう言って、手を挙げて店員の睦美を呼んだ。
「アサリの酒蒸しを一つ」
「はーい」
最近は、二人でも三人でも、顔を合わせれば合流して肴をシェアすることが当たり前になっていた。一人ずつ別々に好きなものを頼むのもいいが、一皿をみんなでつまんで割り勘にすれば一人よりたくさんの種類の料理を味わうことができる。
「そういえばぁ、今日はお店に変なお客さんが来てね」
料理が来るまでの合間に、美月が話し始めた。
「うちのお店で売ってるスカートが有名ブランドの新作のパクりだって言って怒鳴り込んできたの」
「あー」
嘉穂はうんざりしたような顔で日本酒を一口すすった。
「いるのよね、ちょっとでも類似点があるとパクりだ盗作だって騒ぐ人って」
「嘉穂さん、なんかすっごく実感がこもってるんですけど……」
「あたしは売り手でただの窓口だけど、嘉穂さんは作る側の人だもんねぇ」
貴美も美月も苦笑を浮かべている。
「舞台が現代日本で主人公が学生で超能力者なのは某ヒット作のパクりだ、とかさあ、それは同じジャンルって言うの。その理屈が正しいなら、時代劇や西部劇もほとんど全部ダメってことになっちゃうじゃない。名探偵が事件の謎を解いたら全部ホームズのパクりなのかっつーの」
「だよねぇ。同じくらいの丈のスカートで同系統の色や柄なら、どうしても似た印象になっちゃうもの。かといって、大きく流行りから形や柄を変えちゃうと売れなくなっちゃうし」
「そうそう、売れ線に寄せていくと、どうしても似た部分も増えちゃうのよね。そもそも、売れ線から離れすぎると企画が通らないことも多いし」
「流行から外れると、売る側もオススメしにくいのよねぇ」
まったく違う具体例を出しながら意気投合する嘉穂と美月に、貴美は、
「大変なんですね……」
と苦笑いしながら言った。
「それで、そのクレームのお客さんにはどう対応したんですか?」
「それはまあ、あたしが勤めてるお店は仕入れた服を売ってるだけだから、メーカーさんに言ってください、としか言えないのよねぇ」
「それはそうよね」
貴美に話の先を促された美月の言葉に、嘉穂がうなずく。
「そしたら、自分は客だぞ、客にさらに手間をかけさせるのか! とか言ってますます怒り出しちゃってぇ」
「うわあ……」
「最悪ですね」
美月の話に同調していた嘉穂よりも、貴美の方が共感して眉をひそめた。
「なんで無茶を言うお客や取引先の人に『黙れ』とか『帰れ』って怒鳴ることが許されないんですかね……?」
「貴美さんも仕事上でいろいろありそうね」
今度は嘉穂が苦笑する番だった。
「ホント、そう思うことあるよねぇ。もちろん、お客さんの九九%はそんなことは言わないまともな人だけど。でね、しょうがないからメーカーさんに電話したの」
「そこまでしてあげるの!?」
「まあ、他のお客さんの目もあるでしょうし、あんまり暴れられても困りますもんね」
嘉穂と貴美の反応の差が、普段どんな仕事をしているかの差なのかもしれない。
「ところがねぇ、メーカーさんの人が言うには、お客さんが言うブランドの新作より前にうちで売ってるスカートを商品化してたのね」
「あら。じゃあ、パクりだとしても被害者加害者がひっくり返るわね」
「あたしも嘉穂さんと同じことを思って、お客さんにそのことを伝えたの。そしたらねぇ、そのお客さん、なんて言ったと思う?」
「普通に考えれば、自分の間違いを認めて、謝って帰るとかですけど……」
けど、と付けた辺り、そうすんなりいかないと貴美は考えたのだろう。嘉穂としても、それで解決ならわざわざ美月が訊くはずもないだろう、と思った。
「その手の相手なら、有名ブランドに失礼だからそっちが折れろ、とか言い出しそうね」
「嘉穂さん、正解。すごいねぇ、よくわかったねぇ」
「マジですか……。言ってることメチャクチャじゃないですか」
呆れたように、貴美が脱力して肩を落とした。
「ホントにね」
「最後は『そうお考えなのでしたら、法的措置を取ってみてはいかがでしょうか。黙殺されるかもしれないクレームより確実かと思いますが』ってオススメしたら、なんかゴニョゴニョ言って帰っていったんだけどぉ」
「訴訟もお店がやれ、とか言い出さなかった?」
「そのときはぁ、承るフリして、後日にしれっと『却下されました』って言うつもりだったから。実際、誰が訴えてもそうなるんじゃないかなぁ」
「なるほど」
そんな話をしていたところに、アサリの酒蒸しが運ばれてきた。
ぱっくりと口を開けて透明な出汁に浸るたくさんの二枚貝。貝から出た旨みたっぷりの香りと、出汁の中に浮いている三つ葉の香りがすでに鼻孔を優しく刺激する。立ち上る湯気さえも美味しそうに見えた。
「お、来た来た」
「美味しそうだねぇ」
「香りだけでお酒が飲めそうです」
三人して目を輝かせながら、いそいそと取り皿にアサリを確保する。
嘉穂は確保したアサリを箸でつまみ、二枚貝の身が付いた方を口に含み、前歯でこそげ取るようにしながら箸でアサリを引っ張った。熱い貝の殻は口から外に出て、身だけが口の中に残る。
むほどに、クニクニした貝の食感と、ほんのりと塩味が効いた出汁の味が広がり出す。
貝の中でも、アサリの香りは格別だ、と嘉穂は思う。サザエもホタテも特有の香りがあって、どれもそれぞれの良さがあるが、その中でも最高級に上品だ。
その香りはごはんに炊き込んで深川飯にしても、味噌汁にしても美味しいが、もっとも純粋に味わえるのがこの酒蒸しだ、というのが嘉穂の持論だった。
そして何より、酒に合う。
アサリの味と三つ葉の香りが口の中に残っているうちに日本酒を口に含めば、それは口の中で日本酒に溶けて喉の奥へと消えていく。その感覚が堪らない。
「あー。なんていうか、派手さはないけど、こういう味ってすごくホッとするよねぇ」
はー、と大きく息を吐いて、幸せそうな顔で美月は言った。
「嘉穂さん、美月さん、これすごいですよ! このスープで日本酒が飲めます!」
出汁の湯気で眼鏡を曇らせながら、興奮気味に貴美がまくし立てた。
「私、アサリの酒蒸しって生まれて初めて食べましたけど、こんなに美味しい料理だったんですね……!」
「うん、美味しいよね。私、アサリの酒蒸しは大好きよ」
貝の味を一番ストレートに味わえる料理法なんじゃないか、と嘉穂は思っている。
「ねえねえ、二人とも、他にも酒蒸しがあるよ、ホラ」
美月がメニューの本日のオススメに並んでいる文字を指さした。
そこには──
『大ハマグリの酒蒸し(二個)』
『ホンビノス貝の酒蒸し』
アサリの他に、二種類の酒蒸しが並んでいた。
「ほんびのす?」
貴美が首を傾げた。
「……元々は北アメリカ辺りの貝なんですよ」
カウンターの中から、厳つい店主が言った。
「……今では日本の近海にも定着して、東京湾なんかでも獲れるんです。大アサリとか、白ハマグリなんて呼ばれ方もしたようですが、どちらも正確な名称ではないから、とホンビノス貝の名前で流通してますね」
「ハマグリは二個でこのお値段なんですか?」
嘉穂が問うと、店主は「……ええ」とうなずいた。
二個、という個数のわりに、お値段はアサリの酒蒸しより高い。サザエの刺身には及ばないが、それでもこの店の価格帯を考えると、高い部類の設定だった。
「ちなみにぃ、ホンビノスの方は何個なんですか?」
「……五つですね。ただ、この差は流通量の差であって、安い方が味で劣っているということはないと思いますよ」
と、そんなやりとりをしているところに、店員の睦美が歩み寄ってきた。
「今日は貝にこだわりますね。どうせなら、食べ比べてみたらどうです? なんなら、大ハマグリを三個、ホンビノスを六個で作ればちょうど三人でシェアできるでしょ。いいよね、店長?」
「……もちろん」
そうまで言われてしまっては、三人とも両方頼んで食べ比べる気満々になろうというものだった。
やがて運ばれてきた二種の酒蒸しは、先ほど食べたアサリの酒蒸しと同様、貝が出汁に浸って三つ葉が浮かんでいるというヴィジュアルだった。ただし、二種類とも貝が大きくてその存在感はアサリの比ではなかった。
「三個しか入ってないと寂しいかなって思ってたけど、これだけ大きいとそんなことないっていうかぁ、なんか高級で上品な感じがするから不思議よねぇ」
「ですね。で、こっちの六個の方がホンビノス……。白ハマグリとも呼ばれてたって言ってましたけど、確かに貝殻はこっちの方が白いですね。あと、ちょっと小さくてハマグリより丸っこい感じ」
眼鏡の位置を指で直しながら、貴美がマジマジと両方を見比べる。
「大きさについては、ホンビノスはもっと大きくなるそうよ。最大一〇センチだって。アメリカでは出世魚みたいに成長段階で呼び名が変わる、とも書いてあるわ」
スマホでホンビノス貝について調べながら、嘉穂が言った。
「一〇センチの貝ってのも見てみたいよねぇ。でもまあ、とりあえず肝心なのは味よねぇ」
美月が早速、両方の酒蒸しから一つずつ貝を自分の取り皿に確保した。
「そうね。せっかく食べ比べるために一緒に頼んだんだものね」
嘉穂も貴美もそれに倣った。
そして、それぞれを食べてみる。
「わあ、ハマグリ美味しいですね! ぷっくりしてて、上品で……!」
貴美が食べるなりわかりやすい笑顔を浮かべる。
「ホンビノスの方も美味しいわよぉ。味の系統はハマグリよりアサリに近いかしら?」
「そうね、私も美月さんと同じ印象だわ。この味と香りなら、大アサリって呼ばれていた、というのもなんとなくわかるわね」
「でも、私はどっちとも違う美味しさだと思います。こんなに美味しいなら、ハマグリやアサリの代用みたいな言い方、かわいそうですよ」
美味しさによる笑顔から、貴美の顔が急に憤慨顔に変わる。
「そうね。そういう意味では、ホンビノス貝って正式な名前で流通するようになったのはいいことよね」
「似てることに腹を立てたり、あえて名前を似せてみたり、人間って勝手よねぇ」
美月は肩をすくめた。スカートの話をホンビノス貝に重ねているのは明白だった。
「ホントそうよね。そりゃ盗作や剽窃は密漁と一緒で犯罪だからダメだけど、系統が似てるけど違うものなら好みや予算で賢く使い分けるのが一番よね」
「どれも美味しいけど、あたしは断然ホンビノス貝派になるよ! だってぇ、うちのスカートみたいな貝なんて、親近感が湧いちゃうもん」
「私もしっかり覚えておこうと思います。ホンビノス貝は美味しい、って」
二人の言葉を聞きながら、嘉穂はたった今、二人のファンを生み出した貝をもう一つ、取り皿に移動させた。
そして、
──まさかこの貝も、スカートと同列で語られるとは考えもしなかったでしょうね。
そう思って、苦笑を浮かべた。
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