第11話 寿司とワイン

 なぜこんなことになっているのだろうか。

 貴美は緊張でガチガチになりながら、回っていない寿司屋のあまりに高尚な雰囲気に完全に気後れしていた。

 なぜ、壁に張り出されたメニューに値段が書いていないのか。時価とはどういうことなのか。何もかもが貴美の理解の外である。

「今さら割り勘なんて言い出さないから、そんなにビクビクしなくても大丈夫よ」

 となりのカウンター席に座った四〇前後の女性が笑って言った。

 この店に連れて来てくれたスーツが似合うその女性は、貴美の上司である。貴美が聞いている話では会社の偉い人たちにも一目置かれるくらい有能な人物であり、敬意とやっかみ両方から「あの人が未だに独身なのは仕事と結婚しているから」などと言われていた。

 少し前に大きなヘマをやった貴美をこっぴどく叱った当人であり、それ以来、貴美はこの女性がちょっと苦手だった。

「あの、部長。今日はなんで……」

「新藤さん、先日、他部署から回ってきた書類のミスに気がついたでしょう」

「あ、はい」

 それは事実である。大きなヘマ以来、貴美は書類を何度も確認する、という行為を徹底していた。それで同僚より作業効率が落ちてしまったとしても、同じ失敗をもう一度やるよりはマシ、と考えてのことである。

 もはやクセになりつつあるその行動が功を奏して、そのミスを指摘することができたということが確かにあった。

「まあ、貴女が気づかなくても私も最後に確認はしたから大ごとにはならなかったと思うけれど、あのミスを素通ししたら洒落にならない損害が出ることになっていたのよ」

「はあ……。でも、そうだとしても、私は前に一度やらかしてますし、それでトントンくらいなのでは……?」

「損害の規模としては、今回の方が遥かに大きくなったはずよ。それを未然に防げたのはお手柄だし、何より、失敗からきちんと学んで成長している貴女の姿勢に敬意を表したいと思ったの。それに、この件で営業部に大きな貸しも作れたし」

 なるほど、怖い部長がご機嫌でお寿司をご馳走してくれる理由はその『貸し』か、と貴美は納得することにした。

「ところで、新藤さん、お酒は飲める?」

「あ、はい」

 連れてこられた理由がわかって少し緊張がほぐれれば、こういうお店で出される日本酒はどんなものだろうか、と興味が湧いてくる。

「じゃあ、ドクター・ローゼンから……これを」

 部長の注文で、二つのワイングラスが運ばれてきて、白ワインが注がれた。

「飲んでみて。ドイツのワインなんだけど、何度試してもフランスのワインより寿司にはこっちの方が合う気がするのよね」

「あ、はい。頂きます」

 お互いにグラスを持って、「お疲れ様でした」と乾杯する。

 部長はグラスを少し回して香りを楽しんだりしていたが、貴美はワインについて何も知らず、当然その行為の意味もよくわからなかった。

 舐めるようにワインを口に含むと、思った以上に口当たりはよかった。ブドウ酒の名に恥じぬほんのりとした甘みは感じるが、ブドウそのものと味はだいぶ違う。優しい酸味と、熟れたフルーツの甘い香りが特徴的だった。

「あ、美味しい……。吟醸酒がワインっぽいって言われるの、少しわかる気がします」

「あら、日本酒党なの? 若いのに渋いわね」

 部長がそう言って笑うのと同時に、カウンターの中から、

「コハダです」

 と、にゅっと手が伸びてきて、銀色に光るコハダがシャリに載った握り寿司が一貫ずつ、目の前に置かれた。

「わあ、綺麗なお寿司ですね……」

 酢で締められたコハダの身が三つ編みにした髪のように編まれている。

「寿司はお任せで頼んであるけど、もし足りないようなら追加で頼んでもいいわよ。それから、細工に見とれるのもいいけど、寿司は出されたらすぐ食べるのがマナーよ」

 そう言いながら、部長はコハダの握りをつまんでちょいと醤油をつけて、ぱくりと一口で食べてしまった。

「あ、はい」

 慌てて、貴美もコハダの握りを箸で口へと入れた。

 酢で締められて引き締まったコハダの細工は口の中で解ける。舌の上で握られたシャリもするりと解け、ネタの酸味と酢飯の酸味、甘みはむほどに混ざり合ってそれぞれの味を引き立て合う。

 ──なんて美味しいお寿司だろう。

 貴美とて、寿司を食べた経験くらいある。コハダだって初めてではない。

 しかし、その中でも、このコハダは群を抜いて美味しい気がした。きっと、コハダ自体にそこまでの差はない。差があるとすれば、シャリや締めた酢の強さなどのバランスなのではないか、と貴美は感じていた。

 そして、コハダの握りの余韻が消えないうちに、ワインを一口。

「えっ」

 思わず声を上げていた。

 握りを食べる前に飲んだワインの味と、印象がかなり変わっている。

 舌に残ったコハダの握りの酸味や香り、酢飯の甘みや酸味の中へとワインの甘みと酸味が違和感なく入りこんでくる。そして、口の中で両者の味や香りと混ざり合って、寿司の後味もワインの味も高まった気がした。

「ね、合うでしょう?」

「はい……。刺身とかお寿司には絶対日本酒の方が合うと思ってたんですけど……」

 貴美の素直な感想に、部長はふふっと笑みを浮かべた。

「もちろん、合わないワインもたくさんあるわ。この店の味付けだからこのワインが合うだけなのかもしれないし。そして、日本酒の方が無難にそこそこ合うものが多いのも確かだと思うけど、こういう相性が合う組み合わせを探すのって無難ですませるより楽しいのよね」

「なるほど……」

「ロゼも頼んでおきましょうか。赤貝やエビなんかは白よりロゼの方が合うモノが多いわ。マグロも赤を合わせる人が多いようだけど、私に言わせればロゼね」

「ええっ、ネタによってお酒を変えるんですか……?」

「それはそうよ。どうせなら一番合うお酒で楽しみたいでしょう?」

「そ、そうですね……」

 部長は気楽に言っているが、その相性をパッと見抜けるようになるまでに、いったい何種類のワインの味を覚える必要があるのだろうか、と貴美は気が遠くなってしまった。


「──ということがあったんですよ」

 いつもの店で、いつものように飲みながら、貴美は嘉穂と美月に上司に寿司を奢ってもらった末を語った。

「うらやましいわぁ。今どき、部下を高級なお寿司屋さんに連れて行ってご馳走してくれる上司なんてなかなかいないわよ?」

「いえいえ、美月さん、部長は普段はすごく厳しいし怖い人なんですよ?」

「でも、ミスしたときには厳しく叱るけど、きちんといい仕事をしたときには褒めてご褒美をくれる上司って、とても筋が通っていていいんじゃない? 普段の部下の努力もきちんと見ていてくれているようだし。お寿司もワインも美味しかったんでしょ?」

「それはそうですけど……でも、強引すぎません? まあ、奢ってもらっておいて贅沢もワガママも百も承知ですけど、せっかくそんなお店に行ったなら、日本酒も飲みたかったなあ、って思うわけですよ」

 なるほど、と嘉穂と美月は苦笑して顔を見合わせた。

「まあ、貴美さんは日本酒好きだから、気持ちはわかるけどぉ」

「だって、嘉穂さんはいつも好きなものを好きなように飲めばいいって言ってるじゃないですか」

「うん、まあ、そうなんだけど、あれって逃げでもあるのよね」

「え? 逃げ?」

 貴美が首を傾げた。

「そうよ。だって、私のオススメはあくまで私の味覚が根拠だもの。最終的には他人の好みにまで責任は負えないわ。好みに合わなかった、って文句を言われても困る。だから、私は好きだけど、あなたはあなたの自己責任で注文するかどうかを決めてね、っていう保険でもあるのよ」

「でも、それって私の上司も立場的には同じはずですよね? 部長に私の味覚や好みなんかわからないはずですし」

「いいえ、違うわよ。少なくとも、貴美さんの上司さんは明確に責任を負っているわ。支払いを全部負担する、という意味で」

「あ」

 ハッとしたように、貴美が声を上げた。

「そうよねぇ。仮に好みに合わなかったとしても、貴美さんのお財布は痛くも痒くもないものねぇ」

「それに、その上司さんのようなもてなし方も、私はありだと思うわよ。自分はこの食べ方飲み方が一番美味しいと思う、だからそれを味わってもらおうと考える。それってすごくシンプルでわかりやすいじゃない? まあ、確かに少し押しつけがましく思えてしまうことはあるかもしれないけど」

「なるほど……」

「まあ、ここで日本酒ばっかり飲んでるとワインを飲む機会もあんまりできないだろうから、いい経験になったんじゃないかしら?」

「その上司さんも、合うワインを選ぶのが難しいって言ってたんでしょ? そういう人に教えてもらえる機会って、貴重なんじゃないかなぁ」

「それは、まあ……」

 それでも貴美の言葉が歯切れ悪いのは、日本酒への未練だろうか。それとも、好きなように飲む、というスタイルへの固執だろうか。

「私もお寿司なら日本酒がいいけど、っていうか、お寿司屋さんで飲むならお造りを頼んで魚とお酒を堪能してから〆に握りをちょっと食べる、みたいな飲み方をしちゃうけど、お寿司だから日本酒じゃなきゃヤダってのもどうかと思うわよ。試して美味しくなかったならともかく、美味しいと思ったならそれはそれで納得すればいいんじゃない?」

「あたしたちだって、チーズで日本酒楽しんだりするもんねぇ」

「そうそう。まあ、どうしても何か引っかかるなら、フレンチかイタリアンに合う日本酒を見つけ出して、その上司さんに教えてあげたら?」

「あ、それは面白そうです」

 貴美はクイッと眼鏡を押し上げた。

 果たして面白そうなのは、相性探しの方なのか、上司に美味しいと言わしめて一本取ることなのか。

「確かに、グダグダ言ってても仕方ないですよね。実際美味しかったですし。日本酒であのお寿司を食べたいなら、自分で食べに行けるくらいお金稼げるように頑張ればいいんですし」

「それにしても、寿司とワインかぁ。もしかしたら、他の海外のお酒でも何か合うのがあったりするのかな?」

「どうかしらね。でも、食べ物もお酒も、実際に味わってみないとわからないものよ。海外で日本人が考えつかないような奇抜なお寿司が生まれたりするけど、カリフォルニアロールなんて案外美味しかったりするじゃない」

「最近の回転寿司は、お店によってはかなりチャレンジしてる気がしますけど。酢飯にカレーかけたりとか」

「え、そうなの?」

 驚いて、嘉穂は貴美に聞き返した。

「あー、それ知ってる。普通に美味しいらしいよぉ? 嘉穂さんでも知らないこと、あるんだねぇ」

「それはそうよ」

 苦笑しつつも、嘉穂は酢飯にカレーをかけた味を想像しようとして、どうにも上手くいかずに首を傾げた。

 世の中には色々なことを考える人がいるものだ。そして、今日、今この瞬間も飽くなき探究心で食を追求している人がいて、発展を続けているのだろう、ということを実感するのだった。

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