第10話 チーズと日本酒

「スモークチーズで日本酒を飲むお客さんも結構いらっしゃいますよ」

 店員の睦美にそう言われて、美月と貴美は「まさか」と顔を見合わせた。チーズならワインをはじめとした洋酒の方が合う印象があったからだった。

 この場に嘉穂がいたらチーズと日本酒の相性について持論を聞かせてくれたのかもしれないが、今日は彼女の姿がない。

 とりあえず試しに、と頼んでみた自家製スモークチーズは、表面が少し黒っぽい茶色に変色したチーズを薄くスライスして皿に並べたものだった。

 表面以外はチーズの色を保ったそのコントラストが、まるで藁で炙った鰹のたたきのようでもある。

 囓ってみれば、チーズそのもののまろやかさと鼻に抜ける燻製独特の香りが見事に調和して、ついつい手が伸びてしまう味である。

「あ、確かにこれは日本酒も合うわねぇ」

「ですね。ちょっと意外でした」

 チーズの後味や燻製の残り香が、日本酒の風味を引き立てている。

 もちろん、このチーズに一番合う酒が何か、という話になればもっと相性がいい洋酒があるのだろうが、日本酒も銘柄によってはかなり上位に食い込むものもありそう、と思えるほどの好相性だった。

「あ、そうそう、チーズと言えば、私がときどきランチを食べに行くサーモンとクリームチーズのベーグルサンドが美味しい喫茶店があるんですけど、昨日、そこでたまたま嘉穂さんを見かけたんですよ」

「チーズ要素、薄くない?」

 美月が苦笑したが、貴美は構わず、

「そのときの嘉穂さんは同じくらいの歳の女性と一緒だったんですけど、あんまり友達って感じの雰囲気でもなくて」

 と言葉を続けた。

「じゃあ、お仕事の相手だったとか?」

「それにしては、二人ともかなりラフな格好だったんですよね」

「スーツを着ない仕事もあると思うけど」

「しかも、相手の女性は、嘉穂さんのことを『先生』って呼んでたんですよ! ほら、よく悪い人が用心棒とかをそう呼んだりするじゃないですか! これは前に話したちょっと人には言えないお仕事説が信憑性を帯びたと言わざるを得ない気がして……」

「えっとぉ、貴美さんは時代劇とか好きなのかしら? 先生って呼ばれるお仕事はもっと色々あると思うんだけどなぁ」

「しかも、そのとき嘉穂さんは大きくて分厚い封筒を受け取ってました。あれはきっと法外な報酬なのでは──あいたっ」

 後ろから後頭部を小突かれて、貴美は振り返った。美月もそれに倣う。

 そこには、噂の嘉穂の姿があった。

「あのときはどこかで見たような人がいると思っていたけど、やっぱり貴美さんだったのね。まったく、人を勝手に裏社会の人間にしないでよ、もう」

 嘉穂は貴美のとなりの席に腰を下ろして日本酒を注文し、おしぼりで手を拭きながら、

「あの封筒の中身はゲラといって、私が書いた原稿をプリントアウトして、校正さんや編集者さんがチェックして直した方がいいところを書き込んだものなの。それを私がどう直すか最終チェックをして返すのよ。昨日は別の原稿の打ち合わせがてら、ついでにその受け渡しをしていたの」

 と説明した。

「ってことは、嘉穂さんは作家さん?」

 美月の問いに、嘉穂は少し考えこんだ。

「まあ、そうとも言えるのかもね。小説、シナリオ、エッセイその他、わりと頼まれたら節操なく書くから、ライターとでも言っておくべきかもしれないけど」

「すごいですね」

 感心する貴美に、嘉穂は肩をすくめた。

「別にすごくなんかないわよ。単に会社勤めが続かなかったしイヤでイヤでしょうがなかったから、逃げ回っているうちにそういうところに流れ着いただけ。私からすれば、きちんと社会に貢献できてる二人の方が立派だと思うわ」

 そして嘉穂はスモークチーズに目をやって、

「そんなことより、今日はチーズで日本酒を飲んでるのね。そういうことなら、いいのがあるわよ。二ノ宮さーん!」

 と店員の睦美に声をかけた。

「いぶりがっこチーズください。あと、クリームチーズの酒盗和えも」

「はいはい。きっと片菊さんが来たらその流れになるな、って思ってましたよ」

 睦美は笑ってそう答え、伝票をつけると、大きな声でカウンターの中に注文を伝えた。

「いぶり……なんです?」

 貴美が首を傾げる。

「いぶりがっこって、確か東北の方の漬けものの名前よねぇ」

「ええ、秋田県のね。がっこっていうのは漬けものの意味で、いぶりがっこは燻した漬けもの、という意味ね。普通は燻して乾燥させた大根を塩とで漬け込んだものを言うわ」

「漬けものとチーズって合うんですか?」

「食べてみるのが一番早いと思うけど、同じ発酵食品同士なんだから、相性は悪くないと思うわよ」

 運ばれてきた皿には、スライスされた茶色くちょっとしわしわになったたくあんと、その上に載せられた一欠片のチーズが並んでいた。

「驚くほど名前通りなんですね」

 呟くように、貴美が言った。

 いぶりがっことチーズ。それ以外にはソースも味付けも一切ない。

「……どちらも熟成された旨みの塊ですからね。余計な手を加える必要がないんです。もちろん、その分、良質のモノを仕入れるようにしています」

 厳つい店主がカウンターの中からそう説明してくれた。

「まあ、食べてご覧なさいな」

 そう言いながら、嘉穂は真っ先にチーズが載ったいぶりがっこを一口で食べてしまった。そして当たり前のように日本酒で追撃する。

 貴美と美月もそれに続いて、いぶりがっこチーズを食べてみた。

 チーズの旨みに重なるのは、コリコリとしたいぶりがっこの食感。さらにいぶりがっこの燻された風味が先ほどまで食べていたスモークチーズを思わせる。漬けものの塩気も全体を引き締めるのに一役買っていた。

「わっ、ただ載っけただけなのに、思った以上に料理として成立してます……!」

「ホント、これ、すごいわねぇ……。まるで、お互いがお互いと合わせるために作られてるみたい」

 でしょ、と言わんばかりに嘉穂が笑った。

「面白いわよね。洋の東西で生まれた食べ物がこんなに相性がいいなんて。しかも、日本酒にもバッチリ合うのよ」

「スモークチーズでも驚いたんですけど、日本酒とチーズが合うのも不思議ですよね」

「まあ、こういうお店で出すチーズは、そういう種類を選んでいるでしょうしね。チーズと一口で言っても種類はたくさんあるし、例えばワインなんかチーズとの合わせ方では日本酒とは比較にならない歴史と知識があるはずよ」

「確かに、それはそうよねぇ」

「だから、チーズが好きなら洋酒を勉強してみるのもいいかもしれないわね。私はあまり詳しくないけれど」

「なるほど……」

 貴美がうなずいたところで、カウンター越しに店主が、

「……クリームチーズの酒盗和えです」

 と小鉢を一つ、差し出してきた。

「はい、どうも」

 嘉穂が受け取り、その小鉢を三人の中央に置いた。

 小鉢の中には真っ白いチーズの塊がいくつかと、その上からピンク色のドロッとしたモノがぶっかけられているという、見た目はちょっとよろしくない料理だった。飾りとして大葉が添えられているが、あまり見た目の改善に貢献できていない。

「見た目はちょっとアレですね……」

 貴美が苦笑いをする。

「そう? まあ、そもそも酒盗が魚の……主に鰹の内臓の塩漬けだから、見た目に関してはどうにもならないわね」

「っていうかぁ、酒盗の見た目そのものより、チーズにかかってるのがいけないんじゃないかなぁ」

「ま、見た目はともかく、味は保証するわよ。ホヤが苦手な美月さんはともかく、貴美さんは好きだと思うわ。これも発酵食品同士だし」

「あたしも酒盗は平気だよ? 生臭さすぎるのは苦手だけど」

 そう言って、美月は率先して箸でクリームチーズを少しちぎって、ピンク色の酒盗に絡めて口へと運んだ。

「あ、ホントだ、美味しい! 酒盗の塩気がチーズのまろやかさでいい感じにマイルドになってる!」

 美月の反応を見て、貴美も箸を伸ばした。そして怖々とごく少量を口に入れて、

「ああ、確かに、お互いの旨みがそれぞれを引き立てあってる感じ、いぶりがっこチーズ以上かもしれません……!」

 と、再度箸を伸ばした。

「しかもその旨みが、日本酒に合うのよね。ホントにお酒が盗まれるように消えていくわよ。ちびちびやれるのもいいわよね。肴が長持ちすると、ついついお酒の量も増えちゃうのが難点だけど」

 そう言って、嘉穂は日本酒を飲みながら笑った。

「それにしても、チーズってすごいですよね。そのまま食べても美味しいし、いろんな食べ方がある上に、こんなふうに日本まで来て新しい食べ方を開発されてるわけですよね」

 しみじみと、貴美が言った。

「そうよねぇ。ピザの上にも載ってるし、チーズフォンデュとか、ハンバーグの上に載っけたり、なんなら食パンの上に溶けるチーズ載っけて焼くだけで美味しいもんねぇ」

「マスカルポーネとかデザートにまで使われてるものね」

「あ、私、チーズケーキ大好きです!」

 数え上げてみれば、思った以上に身のまわりにはチーズが溢れている。当たり前のように生活に溶け込み、おそらく最低でも一日一回は視界に入っていることだろう。

「はぁ」

 嘉穂が大きなため息をついた。

「結局、必要なのはチーズみたいな誰とでも上手くやれる器用さなのよね。人間関係から逃げ回って個人で仕事やってもさ、最終的にはもっと人付き合いに気を遣うんだもの」

「え、そうなんですか? 文章を書く仕事なら、人に会わなくていいんじゃ……」

 首を傾げる貴美に、嘉穂は首を横に振った。

「だって、個人事業主は従業員自分一人なのよ? 広報も営業も自分一人でやらなきゃいけないし、よほどの大先生ならともかく、取引先とのやりとりだって、一つの失礼で今後の仕事を全部失うリスク背負ってやらなきゃいけないのよ?」

「まあまあ、どんな仕事だってイヤなことの一つや二つはあるものでしょ?」

 美月の慰めの言葉に、嘉穂は「まあね」と笑った。

「嘉穂さんだって、今日までお仕事を続けてきているんだから、それはきっといいチーズみたいに熟成されていってるってことなんじゃないかなぁ、って思うの」

「だといいんだけどね」

 苦笑しつつ、嘉穂もクリームチーズの酒盗和えをつまんで日本酒を飲み、

「まあ、美味しくお酒を飲むためにも、お仕事は頑張るけどね」

 とグラスを二人に示して見せた。

「ホントそれですね」

「だねぇ。あたしも、最近はそれが一番の動機かなあ」

 三人は笑って、誰からともなくグラスをぶつけて乾杯していた。

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