第9話 ホヤの塩辛

 いつもの店、『竜の泉』の前で、いつもの三人はバッタリと顔を合わせた。

「この間は本当にごめんなさい」

 嘉穂と貴美に手を合わせて、美月は深々と頭を下げた。言うまでもなく、何日か前にちょっと悪い酔い方をして二人に迷惑をかけたことへの謝罪だろう。

「まあ、そういう日もありますよ」

 愛想笑いで、貴美が言った。

「そうね。でも、何かいいことでもあった? 美月さん、なんだかスッキリした顔してる気がするけど」

 嘉穂の問いに、美月はちょっと複雑そうな顔をした。

「いいことっていうか、でもまあ、スッキリはしましたぁ。キッパリ別れたんで!」

「あ、やっぱり彼氏がらみだったんだ……。初めて会ったときに言ってた酷い彼氏?」

「嘉穂さん、それは前の前の彼氏だよ?」

「前の前……? え、ついこの前なのに、彼氏が何人……。ちょっと意味がわからないんですけど」

 貴美が目を丸くしている。

 やれやれ、と苦笑をしつつ、嘉穂は、

「まあ、とにかく、お店に入りましょ」

 と店の入り口の扉を開けた。

「いらっしゃいませ!」

 店員の睦美や沙也香の元気な声が出迎えてくれるのも相変わらずで、今日も店の中は活気に満ちている。テーブル席はすべて埋まっており、ちょうど会計を済ませて席を立ったサラリーマンの三人組が座っていたカウンター席が空いたところだった。

「ちょうど空いたんで、こちらどうぞ。今片付けますから」

 沙也香が嘉穂たちにそう言いながら、前の客のグラスや皿を片付け始める。

「ラッキーだったわねぇ」

 嬉しそうに、美月が言う。

「本当にそうね。今の時間ならまだ満席にはなってないと思ってたのに」

「今日は大盛況ですね」

 嘉穂も貴美も同意しながら、沙也香が片付けたあとのカウンター席に着いた。

「……今日はホヤがありますよ」

 カウンターの向こう側から、厳つい店主が言った。

「あ、いいですね」

 即答した嘉穂だったが、

「え、嘉穂さん、あれ好きなんだぁ……」

 と美月は顔をしかめた。

「ホヤってなんですか?」

 貴美は首を傾げている。

「まあ、好みは分かれますよね、ホヤって」

 おしぼりとお通しを持ってきた睦美が笑った。

「ホヤっていうのは、まあ、海産物なんですけどね、岩とかに張りついたパイナップルっぽい形の生き物なんですよ。植物っぽく見えますけど、一応動物らしいです」

「貝とかの仲間ですか?」

「いえ、なんか脊索動物とかって、どっちかというとあたしら脊椎動物に近い生き物らしいですよ」

「へえ……。変な生き物ですね」

「ホヤって生臭くなぁい?」

「すごく足が早いのよね。本当に好きな人に言わせると、水揚げされる漁港に行って獲れたてを食べるべき、らしいわ。私も信用できる店でしか頼まないけど」

「……そうですね。鮮度が落ちると、本当に臭いがきつくなるので」

「うん。だから、私は頼むけど、美月さんには無理強いはしないわよ」

「ごめんねぇ。あたしは適当に別のお刺身か何か頼むから」

「気にしないで。貴美さんも、好みが分かれるものだから、初めてなら私のを少し味見してみるといいわ」

「いいんですか? そうさせてもらえると助かります」

 そんなこんなで、各々注文を済ませて、お酒とお通しが運ばれてきた。ほどなく、ホヤの刺身と塩辛も目の前に並ぶ。

 刺身は黄色みが強く、見た目的には一口大に切ったモツ、というのが一番近いかもしれない。塩辛の方は、黄色にオレンジに近い赤みが入っている。

 お疲れ様、と乾杯してお酒に口をつけつつ、ホヤの刺身を口に運んで、

「貴美さんもどうぞ。最初は塩辛の方がいいかも」

 と勧めた。

「では、頂きます」

 神妙な顔で、貴美が塩辛に箸を伸ばす。

 嘉穂の口の中では、すでにホヤの味が広がっていた。くにゅくにゅした食感と、磯を思わせる香り。この香りが強くなりすぎると生臭くなるのだが、それこそがホヤの魅力であり、多くの人に海の味と言わしめる所以である。

「んんん?」

 その味に、貴美もどう表現するべきなのか困っているらしい。

「食感は面白いですけど、うーん」

「潮の味とか、海の味とか言われるわね」

「確かに、そうとしか言い様がないかもしれません」

「でも、この独特の香りが日本酒に合うのよ」

 グラスを口に運びながら、嘉穂は笑って言った。

 口の中で混ざり合う海の香りと酒の香り。それが、好きな人にはクセになるほどたまらないカップリングになる。

「なるほど……」

 同じように日本酒を飲んで、貴美は深くうなずいた。

「これは好き嫌いが分かれそうな気がします。私はわりと好きですけど」

「だからこそ『珍味』なんて言われるのよね」

 ひとしきりホヤと日本酒を楽しんで、嘉穂は、

「それで?」

 と美月に訊いた。

「へ? ……ああ、彼と別れたって話?」

「ええ。まあ、それ以上話したくないのなら無理に聞こうとは思わないけど」

「んー、まあ、なんていうか……」

 どう話すべきかを考えこむように、美月はカウンターに肘をついて、日本酒のグラスに口を寄せて一口すすった。

「悪い人じゃなかったんだけどぉ、お金を貸してとか言い出して……」

「あ、それはダメなパターンですね」

 貴美が早々に一刀両断にした。

 それに苦笑しつつも、嘉穂もまったく同感ではあった。

「理由は何? ギャンブル? もし起業とか家庭の事情とかなら、結婚詐欺の線まで見えてくるけど……」

「それがねぇ、ゲームなんだよねぇ」

 はあ、と美月が大きくため息をついた。

「ゲーム? 私はあまり興味がないんで知らないんですけど、ゲームってそこまでお金かかるんですか? そりゃ本体ごと買うとかだとそこそこしそうではありますけど」

 貴美が首を傾げた。

「でも、それ、お金借りるほどですか?」

「そういうのじゃなくてね、っていうか、そういうゲームも好きな人ではあったけどぉ、一番お金を使ってたのは携帯のゲームなのね」

「あー」

 すべてを悟って、嘉穂は天井を仰いだ。

「携帯のゲームって、基本無料なんじゃないんですか? そういうの、アプリストアで一杯見ますけど。有料のも何百円とか、高くても千円とか二千円くらいだと思いますけど」

 なおもわかっていない貴美に、この子は本当にゲームとか興味ないんだなあ、と嘉穂は苦笑してしまった。

「違うのよ、貴美さん。お金がかかるという意味では、基本無料のゲームの方が泥沼になるケースが多々あるのよ」

「無料なのにですか?」

「無料で始められるけどね? 強いキャラクターやアイテムはお金を払ってガシャとかガチャとかいうクジを引かないと手に入らないみたいでぇ」

「例えばあるゲームは、一番みんなが欲しがる大当たりのキャラやアイテムが排出率が一%で、一回引くのに約三〇〇円。まあ、まとめ買いで多少お得になったりはするけど」

 すらすらと、嘉穂は説明した。

「え、一%って……」

「何万円も注ぎ込んで当たらなかった、なんてことも少なくないみたいね。仕事で関わることもあるから、あんまり悪く言いたくないけど、まあ、ギャンブルと大差ないわ」

「そうなのよぉ。それに使いたいからお金を貸して、って言われてケンカになって、あの日はちょっとモヤモヤしてたの」

「それは別れて正解だと思うわ」

「ですよね。ゲームにそんなにお金を注ぎ込むなんて……」

 んー、と嘉穂は少し顔をしかめた。

「私はね、ゲームにお金を使うことはいいと思うの。どんな趣味を持つか、それにいくら使うか、それって他人かどうこう言うべき問題じゃないと思うわ」

 嘉穂はホヤの刺身を一切れ箸でつまんだ。

「言うなれば、趣味なんて全部ホヤみたいなものよ。好きな人は食べればいいし、美月さんみたいに苦手な人は食べなければいい。人に無理に勧めるものでもないし、逆に好きな人に食べるなって言うのも違う、みたいな」

 つまんだホヤを醤油につけて、嘉穂はそれを口に入れた。箸を置き、すぐさま日本酒を口に含み、飲み込んで、また言葉を紡ぐ。

「例えば、高価な装備を揃えて旅費まで使って危険覚悟で高い山に挑む登山って趣味も、インドア派の私には理解できないわ。でも、それを好きな人にやめなさい、とは言えないでしょ?」

「それは、まあ、そうですけど」

「趣味なんて、好きな人にしか理解できないものなのよ。こうして私たちがお酒を飲んでるのも、興味がない人にとっては無駄なお金の使い方に見えるわけで。ほら、よくその何万円があればこんな美味しいものが食べられるとか、高級なブランド品が買えるとか、言う人がいるじゃない? でも、美味しい料理やブランド品だって無駄だと思う人はいるわけで、そんなのは結局個人の価値観次第なのよね」

「私は美味しいものもブランド品も人並みに欲しいですけど、ときどきビックリするくらい食べ物とか服に無頓着な人っていますよね」

「そういう人にもっと美味しいもの食べなさいとか服にお金を使いなさいって言うのも、大きなお世話だものねぇ。服屋さんの店員やってる身としては、最低限の身だしなみは整えてほしいなぁ、って思うけど」

「程度はあるけど、人それぞれなのよね。ゲームのデータは形に残らないし、サービス終了したら価値はなくなるって言う人もいるけど、映画やライブや遊園地だってどんなに楽しくたって形には残らないし、思い出という意味なら、そのゲームを楽しく遊んだっていう思い出が残るのは一緒だもの」

「確かに……」

 うなずく貴美。

 美月はカウンターに杖をついて、

「その点はあたしも、嘉穂さんと同意見なんだけどねぇ。でもそれ、自分のお金でやる分には、って話でしょ?」

 と物憂げに言った。

「そうね。別れた方がいい理由は、趣味の内容より、金銭感覚よね」

「それでちょっと追及してみたら、毎月それで結構な額のお金を借りたりもしてるらしくてぇ。あーあ、顔はかなり好みだったのになぁ」

「なんて言うか……深入りする前でよかったんじゃないですかね」

 貴美に言われて、美月は「まあねぇ」と苦笑いした。

 そんな話を聞いていたのかいないのか、店主がカウンターの中から、

「……あの、ホヤ玉子ってご存じですか」

 と尋ねてきた。

「……わりとホヤが苦手でも、これなら好きという方はいらっしゃいますよ。ゆで玉子をホヤで包んで蒸した料理で、宮城県の女川発祥の料理らしいのですが」

 そう言いながら、店主が出してきた皿の上には、スコッチエッグを思わせる玉子料理が乗っていた。割ったゆで玉子の表面にホヤが張りついている。

「へえ、面白いですね」

 嘉穂が皿を受け取ると、貴美はもちろん、美月も興味深げに皿を覗き込んだ。

 どれどれ、と食べてみると、ホヤの弾力と白身のプリッとした食感、黄身の濃厚さが驚くほど相性がいい。加熱したことでホヤの風味は強まっているものの、玉子が合わさることで相当マイルドになっている。

「あ、美味しいです!」

 貴美がそう声を上げた。

 おそるおそる箸を伸ばした美月も、

「あ、ホント、これはそんなに苦手じゃないかも」

 と驚いている。

「これは、その彼氏も料理次第ではいけるかもしれない、という店長さんの弁護かしら」

 冗談めかして、嘉穂が言う。

「……いいえ」

 店主は首を横に振りつつ、

「……恋人に金をせびるようなクズはどうでもいいですが、飲み屋の料理人としては、ホヤを好きになって頂けたらな、と思いまして」

 と言ってはにかむように笑った。

「なるほど、趣味には『布教』の必要性もある、ってことかしらね……」

 嫌いな人に無理に勧める必要はないが、好きになってもらえれば一緒に楽しく食べることができる。

 趣味もまた、一緒に楽しむ人が増えればその趣味の人口も増え、広がっていく。人口が増えれば、その趣味人相手の商売が成立し、趣味の商品や道具は幅広くなっていく。

「このホヤ玉子くらい見直せるところが、彼にもあればよかったんだけどなぁ……」

 美月は自分が囓ったホヤ玉子を見つめながら、大きなため息をついた。

 ホヤも趣味も、そして男女の機微も、嘉穂が考える以上に奥が深いのかもしれない。

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