第8話 日本酒あれこれ
今日は鯖がいいと言われて趣向を変えた刺身や郷土料理が出てきたとなれば、当然何を飲むか、という話になってくる。
刺身なら日本酒か、と各々好きな銘柄を頼もうかとメニューを覗き込んでいるところに、
「そういえば、今日は結構面白い日本酒が何本か入ったって睦美さんが言ってましたよ」
と店員の沙也香が気を利かせて教えてくれた。
「呼んできましょうか?」
そう言う沙也香の指が上を指しているところを見ると、どうやら睦美は今は二階の座敷の方に行っているらしい。
「じゃあ、お願いします。呼ぶっていうか、面白いのを見繕ってください、って伝えてもらえるかしら」
「はい、わかりましたっ」
沙也香が小走りで二階へと向かう。
「面白い日本酒ってどんなのでしょう?」
貴美が首を傾げた。
「さあ、それはわからないけれど、この前ここで飲んだ『雪漫々』という熟成日本酒はとても美味しかったわよ」
「へえ、そんなお酒もあるのねぇ」
「今は、きっといろんな酒造でたくさんの杜氏さんが独自の美味しい日本酒を作ろうと頑張ってるんですよね」
そう言う貴美の顔は、まるで特定の誰かを思い出しているようでもあった。
「元々地域ごと酒造ごとの特色が有った上に、今は海外からの評価も高いから、力を入れているところも多いみたいね」
「それで美味しいお酒が増えてくれるなら、あたしは嬉しいなぁ」
まったくその通り、と嘉穂も貴美もうなずいた。
「はい、お待たせー」
店員の睦美が、三つのグラスと四合瓶を手にやってきた。いつもの枡とセットのグラスではなく、ワイングラスのような、ちょっとオシャレなグラスだった。
「一杯の量は少なくなっちゃうけど、いろんな種類を飲めた方がいいかなと思って」
そう言いながら、睦美は三人の前にグラスを置いて、四角くて少し珍しい瓶のラベルを示した。
そのラベルの銘は、『大吟醸 正雪』とある。
「静岡のお酒なんですけどね。まずはこれ。新藤さん、フルーティな吟醸酒がお好きだからいいかなって」
いつもより小ぶりなグラスに、酒が注がれる。
すでにこの時点で、甘い吟醸酒の香りが鼻に届き始めていた。
「いい香り……」
早速、貴美がグラスを手に取って、口をつけた。その瞬間、表情が一変する。
「嘉穂さん、これ、バナナの香りがします……!」
その言葉に美月は、
「ホントにぃ?」
と驚いてグラスを手に取った。
が、嘉穂は「ああ、なるほど」とうなずいただけだった。吟醸香の中にはバナナのような香りのものがある、ということは知っていたからだ。
嘉穂もグラスに口をつける。
スッキリとした、いわゆる辛口の味わい。それとともに、確かにバナナを思わせる吟醸香が鼻へと抜けていく。
「へえ……! ホントにバナナだわ」
「だから言ったじゃないですか。バナナですよ」
「バナナだねぇ」
知識と実践でこんなにも違う、という例なのだろう。
嘉穂が想像していた以上に香りが鮮烈で、バナナそのものだったのだ。
吟醸香に関しては、果物に例えられることが多いが、それはあくまで『~っぽい』という表現であり、同じお酒でも人によっては「リンゴのような」と言い、別の人は「パインみたい」と表現する、なんてことも少なくはない。
けれど、この吟醸香は三人が三人ともバナナの香りだと感じた。嘉穂が思うに、きっと一〇人でも九人以上がバナナだと感想を述べるに違いない。
「でしょ?」
その反応を待ってました、とばかり、睦美が笑った。
「最近ではバナナやリンゴの酵母を使ったお酒を造ってるところもあるって聞きますけど、ここのはそうじゃないですからね。まあ、もうどの成分がどんな香りになるって分析も進んでて、そうした成分が発生しやすい酵母が作られたりしてますから、狙った香りを出したりしやすくはなってるんでしょうけど」
「お酒造りって、職人の技であると同時に、化学でもあるんですね」
貴美の言葉に、睦美は「ですね」とうなずいた。
「じゃあ、飲み終わった頃に次のお酒持ってきますから」
そう言って、睦美は仕事へと戻っていった。
次に睦美が持ってきた日本酒は、グラスに注いだ瞬間に三人の目を引いた。
その日本酒は、ロゼワインのような淡いピンク色をしていたのだ。ワイングラスのような酒器を使っているから、なおさらそう見える。
「これ、ホントに日本酒ですか?」
「ええ、そうですよ。さっき、果物の酵母を使ってお酒を造ってるところがある、ってお話をしたじゃないですか。これは、そういう新しい試みを積極的にやっている九州の酒造さんのお酒なんですよ。『ぴんくれでぃ』って銘のお酒です」
早速、一口。
「あ、美味しい。あたし、これ、好きかも」
美月が口をつけるなりそう言った。
果実のような甘みと、上品な酸味がバランスよく混ざり合い、繊細で、かつまろやかな味わいである。色の珍しさだけでなく、味にも妥協していないことが一口でしっかりと伝わってくる。
「美味しいですね。でも、この色って何で出してるんですか?」
嘉穂の問いに、睦美は、
「古代米らしいですよ」
と答えた。
「ああっ、なるほど!」
嘉穂は膝を打った。
「古代米?」
貴美が首を傾げる。
「文字通り、古代のお米……と言いたいところですが、実際には『古代から栽培されていた米の形質を残す品種』とでも言うべきでしょうかねえ。ぶっちゃけると、販売用の宣伝文句なので、明確な基準があるわけじゃないっぽいんですよ。片菊さんが納得したように、赤かったり黒かったり、色を持つ品種も多いんです」
「へえ……」
と、貴美と美月の声が重なった。
「このお酒、造り方としては吟醸造りの方式らしいんですけど、現在、農産物検査法に古代米は適用されていなくて、純米吟醸とは名乗れないんだそうです」
「こんなに美味しいのに、法律って意地悪ねぇ」
美月は味を確かめるようにもう一口飲んで、「はあ」とため息をついた。
「まあ、それでも、七瀬さんみたいに飲めば味をわかってくれて、気に入ってくれる人もいるわけですから、区分や名前なんかよりそっちの方が大事なんじゃないですか」
そう言って笑って、睦美は、
「あと一本、面白いお酒はありますからね」
と言い残して他のテーブルへと呼ばれて行ってしまった。
「それにしても、綺麗な色ですよね」
貴美がグラスを照明に翳すようにしながら、言った。
「そうね。食べ物も飲み物も、目で楽しむという要素もあるから、見た目が綺麗って大切なことよね。それで味が損なわれてしまっては本末転倒だとは思うけれど……」
「こんなに美味しいなら、それも問題にならないわよねぇ」
美月は本当にこの酒を気に入ったようで、飲むペースが嘉穂や貴美よりずいぶんと速い。
「オシャレだし、家でお友達と飲むときなんかも喜ばれそうなお酒よねぇ。ネットとかでお取り寄せできるかしら?」
「美月さん、本当に気に入ったのね」
嘉穂はくすっと笑った。確かに、女子会での受けはよさそうだ。
「もちろん! 今度、ぴんくれでぃをお取り寄せするから、三人で家飲みしましょ? きっと楽しいわよぉ」
ニコニコと、上機嫌で美月が嘉穂に腕を伸ばして肩を抱いた。
だいぶ慣れてきた美月の馴れ馴れしさに苦笑しつつ、嘉穂は、
「言い出したからには、家飲みの場所は美月さんが提供するんでしょうね?」
と訊きながら肩に回された手を外した。
「もちろん、いいよぉ。えへへ」
「ちょ、美月さん、もうかなり酔っているのでは」
貴美が少し心配そうな顔をする。
「大丈夫だよぉ?」
「酔っ払いの大丈夫ほど信用できない言葉はないのよね……」
「同感です。自戒も込めて」
神妙な顔で、貴美がうなずいた。
「まあ、今まで一緒に飲んできた経験からして、美月さんがこの量でベロベロになるってことはないと思うけど」
それでも、体調や精神状態によっては、いつもの量でも酔い方が変わってくるのが人間である。
「あ。次のお酒、やめておきます……?」
酒瓶と三つのグラスを持ってきた睦美が不安げな顔で訊いた。
「大丈夫ですぅ」
元気よく美月が答える。
「すみません、二ノ宮さん、次のは量を半分にしてもらっていいですか?」
拝むように手を合わせて、嘉穂は睦美にお願いした。
「うん、その方がよさそうね」
苦笑する睦美に、美月は、
「大丈夫なのにぃ」
と不満顔だ。
三分の一にした方がいいのではないだろうか、と嘉穂は思い始めた。
が、すでに睦美はグラスに白く濁った酒を注ぎ始めていた。
「あ、濁り酒ですか」
嘉穂の問いに、睦美は「ええ」とうなずいた。
「まあ、お好きな方には珍しいってほどではないですけど、濁りは季節限定も多いですから、是非飲んでもらおうかな、と」
濁り酒はその名の通り、白く濁った日本酒である。雑に説明すると、完全に濾過しきっていない日本酒、というところだろうか。
「あ、思ったより飲みやすいです」
一口飲んでみた貴美が驚いたように言った。
「なんかこう、もっと原始的というか、大雑把な味なのかと思ってました」
「まあ、どうしても製造過程的な印象があるけれど、逆にお米のデンプンやそれが分解した糖が残っている分、甘くて飲みやすい味になるのよ。それでもアルコール度数は日本酒と同じだけあるから、飲み過ぎ注意なお酒ね」
嘉穂の説明に、貴美がなるほど、と興味深げにうなずいた。
「面白いですよね。その甘みの奥の方に、ほのかなフルーツっぽい香りもしっかりあって。これって吟醸香ですよね? やっぱり日本酒なんだな、って」
「ホント、美味しーい! 二ノ宮さぁん、おかわりくださぁい!」
「あっ、嘉穂さん、美月さんがもう飲み干してます!」
「え、ちょ、美月さん!? ストップストップ!」
二人がかりで美月を押さえつつ、嘉穂は睦美に「お勘定をしてくれ」と合図を送った。
結局、このあと、嘉穂と貴美はまだ飲みたがる美月をなだめたりすかしたりしながら引っ張って自宅まで送り届ける羽目になったのだった。
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