第5話 牛すじの煮込み


 最近、貴美には密かな楽しみがある。

 それは、この『竜の泉』の牛すじの煮込みに一番合う日本酒を、自分の舌だけで探し出すという試みである。

 ここで嘉穂や美月に会えた日は酒も料理も二人に合わせて頼むが、そういう目的があれば一人だった日も楽しく飲むことができる。

「これが美味しいんですよね」

 運ばれてきた牛すじ煮込みを見て、貴美はぺろりと唇を湿らせた。

 牛すじの煮込みなどというとおじさん臭い飲んだくれ料理のように聞こえるが、この店の牛すじの煮込みはひと味違う。

 少し深い皿はまるでビーフシチューのような具だくさんのどろりとした茶色い液体で満たされており、ほどよく焼かれた薄切りのバゲットとスプーンが添えられている。

 まるで、洋食屋の料理のようだ。

 しかし、スプーンで皿の中を探ってみれば、トロトロに柔らかくなった牛すじ肉やニンジンなどの他に、コンニャクやゴボウも入っているところに和食の矜持が残っていた。

 バゲットを一枚手に取り、その上にスプーンですくった具材を載せて、口へ運ぶ。

 サクッとしたバゲットの食感と、歯に触れただけで解けていく柔らかい牛すじ肉、味の染みた野菜、そしてほぼシチューのような味なのに、ほのかに味噌の香りが感じられる。

 そして、『大江山』という銘の純米酒を一口。

 味噌の香りがあるせいか、ほぼ洋食のような味なのに、不思議と日本酒と合う。

「んー!」

 美味しさに歓喜しつつ、貴美は眼鏡の位置を指で直した。

 もうこのまま、ビーフシチュー風の牛すじ煮込みと純米酒を交互に貪り続けたい衝動をぐっと抑え込んで、口の中に残る味や香りをしっかりと脳に刻みつけようと味わった。

 以前に一度、この研究を始めた日に吟醸酒と合わせてみたが、やはり味が濃いこの料理にはしっかりしたコクと味で迎え撃てる純米酒の方がしっくりくる気がした。

 ──ということは、今後は純米酒に絞って、どれと合うかを試していくべきかもしれないです……。

 まだ試していない吟醸酒もたくさんあるし、お酒を単体で考えたら、貴美としては吟醸酒の方が好みである。

 しかし、それを全部試すのは現実的ではない。貴美の酒量は日本酒なら二杯がいいところで、ちゃんと一人で帰れて翌日の仕事に影響が出ない限度はそのくらいなのだ。お財布的にも、新社会人の貴美にとっては一度に何杯も試すなど生活崩壊の危機を招きかねない。

 なので、少しずつ試してデータを蓄積するしかなく、傾向から実際に飲まず候補から外せる銘柄は見極めていく必要があった。

 ──いっそメモでも取りたいところですけど……。

 料理をしっかり味わいながら、酒との相性を分析しながら、お店でメモを広げるなんて、まるで味を盗みに来たライバル店のスパイのようでやる気になれなかった。

 常連として顔も覚えてくれているこの店でそんな誤解をされるとは思わないが、李下に冠を正さずとも言う。迂闊なことはするべきではないだろう。

 と、そう思ったところで──

 となりで同じく牛すじの煮込みを肴に日本酒を飲んでいた若い男性が、おもむろにノートを広げてメモを取り始めた。

「……」

 それをやったらまずいだろう、と思っていたことを堂々とやられたのだから、貴美にしてみれば衝撃の一言である。

 ──え、この人、堂々と何やってるんですか……!?

 短く刈り込んだ髪やTシャツにジーンズのラフな格好から職業は窺い知れないが、一口ごとに真剣な顔で味わい、何ごとかをメモする様子からは職人のような印象を受ける。

 ──もしかして、料理人……? ってことは、まさにこの店の味を盗もうとするライバル店のスパイ……。

 貴美は緊張のあまり、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 これは、大変な場面に居合わせたかもしれない。

 キョロキョロと店内を見回してみると、お客たちは気づいた素振りもない。それどころか、店主をはじめとしたカウンターの中の料理人たちも、睦美や沙也香などのホール係の店員も、まるで気にした素振りを見せない。

 ──こんなに堂々とメモ取ってるのに、みんな気づいてないんですか……? あるいは、トラブルを恐れて注意することもできないとか……?

 ありうる話だ。

 下手に注意すればクレームになる危険性もあるし、揉めごとになれば他のお客さんにも迷惑になるかもしれない。客に逆恨みをされてネットに悪評を流されるようなことになっても困るだろうし、言うに言えない、ということもありそうな話だ。

 だとしたら、この場を上手く収められるのは自分だけなのではないだろうか。

 ──同じ客という立場で、私が穏便に解決するしかないですね……。

 くいっと眼鏡の位置を直して、貴美は決意を固めた。

「あの」

 おそるおそる、貴美はその青年に声をかけた。

「はい?」

 驚いたように、メモを取っていた青年は顔を上げた。

「え、ええと」

 声をかけたはいいが、何をどう言うべきだろうか。貴美は少し考えて、

「私もこの牛すじの煮込みが大好きで、合う日本酒を探しているのですが、同じモノを食べている方にご意見を伺えたらと思いまして」

 と業務用のスマイルで言った。

「ああ……」

 貴美の前の料理と酒を見て、メモの青年は「なるほど」とうなずいた。

「逆に、貴女はどう思います?」

 メモを取っていたときの真剣な顔とは打って変わって、屈託のない笑顔で訊いてきた。

「え? 私ですか……? 私はまだ、少なくとも吟醸酒よりは純米酒かな、と思っている程度ですので……」

「ふむふむ、それはつまり、この濃い味に負けないだけのパンチが……例えばコクが酒にも欲しい、ということですか?」

「まあ、そうですね……。なんていうか、吟醸酒だと料理の邪魔はしないですけど、吟醸酒自体の香りや味はわからなくなってしまう気がします」

 もちろん、まだ貴美が知らない吟醸酒の中には特例があるかもしれない、という可能性は捨てないけれども。

「ほう。なるほどなるほど!」

 貴美の言葉に、メモの青年は我が意を得たりとでも言いたげに膝を打った。

「では、酸味はどうでしょう? やはり強い方が? ビーフシチューより味噌の風味が強いこの料理なら酸味も強い方がいいと思うのですよ。トマトを感じるような洋食だと酸味もヘタをするとケンカしてしまう気がするのですが、これならば」

「は、はあ……」

 思った以上にグイグイと質問されて、貴美は戸惑ってしまった。

 質問したのは自分なのでは? なのに、どうして質問攻めにされているのだろうか?

「私としては、その辺を探り始めたばかりでして……」

「あ、失礼。つい、熱くなってしまいまして。しかし、そういうことでしたら──」

 メモの青年は手を上げて「すみません」と店員の睦美を呼び、

「こちらに『アレ』をお願いします」

 と貴美を指し示して注文した。

 睦美も指示語だけの注文で意図を察したらしく、「はいよー」とすぐに一升瓶と新しい枡&グラスを持ってやってきた。そして、貴美の前に置いたグラスに一升瓶から日本酒を注ぐ。

 そのビンのラベルに記された銘は、貴美にとって聞き覚えのないものだった。

「このお酒で相性を試してみてもらえませんか。あ、もちろん、この一杯のお代はこちらで持ちますから」

「え、でも、それは申し訳ないというか……」

 奢ってもらう理由もない貴美としては、ますます困惑してしまう。

「いいんですよ。お酒の飲み方なんて人それぞれですが、貴女みたいに真剣に味をわかろうとしてくれてる人を見ると、俺も嬉しいんです。そして、そんな貴女の意見を聞いてみたいと思うのは俺のワガママなんですから」

「は、はあ……」

「最近じゃ、寿司屋でワインを飲む人とかもいるそうじゃないですか。いえ、それが悪いってんじゃないです。粋じゃないと文句をつける気もありません。でもね、だったら、逆にイタリアンやフレンチで日本酒って選択肢だってあるはずじゃないですか。いや、もうやってる人もたくさんいると思いますけどね。俺、日本酒が生まれた国である日本でも、そういう組み合わせもどんどん研究して発信していくべきだと思うんすよ」

 メモの青年の勢いに圧倒されながらも、その言葉に貴美もとても魅力を感じていた。

「私はまだ若輩者なので本格的なイタリアンやフレンチはよく知りませんけど……でも、カルパッチョとか日本酒で美味しく頂けそうですよね」

「そう、そういうことなんですよ! さらに一歩踏み込んで、濃厚なデミグラスやトリュフの香りに日本酒を合わせるのもありなのではないか、と。……あ、すみません。ついお喋りに熱が入って……。ささ、このお酒と試してみてください」

「はい。では、遠慮なく頂きます」

 思いもしなかった展開になってしまったが、ただで日本酒が一杯飲めるのは素直にありがたい、と貴美は思うことにした。

 食べかけのバゲットにすじ肉とニンジンを載せて、パクリ。ビーフシチュー状の汁が染み込んだパンの生地がべらぼうに美味しい。

 そして、料理を飲み込み、奢ってもらった日本酒で追い討ちをかける。

「……美味しい」

 たぶん、日本酒単体で考えたら、貴美の好みの味ではない。日本酒らしいコクや酸味が強く、ガツンとくる味だ。しかし、それだけに濃厚な牛すじの煮込みの味と真っ正面からぶつかり合っても負けない。

 もう一度、今度はバゲットなしで牛すじの煮込みを食べて、日本酒と合わせてみた。

 ──これは、思った以上に合います……。

 貴美の反応を見て、メモの青年は満面の笑みを浮かべた。

「どうです?」

「はい、とても合います。美味しいです。でも──」

 味を反芻するように、貴美は目を閉じた。

「強いて言うなら、後味が少し気になります」

「後味……」

 メモの青年はハッとしたような顔をしたあと、自分の牛すじ煮込みと酒を交互に口に入れて味を確認した。

「飲み込んだあと、ちょっとクセのあるアルコール臭が残る気がしませんか?」

「……うん、言われてみると確かに。なるほど、自分ではこんなもんだと思っていたけど、若い女性はそう感じる、と……」

 何度も何度もうなずいて、メモの青年は貴美に向き直り、深々と頭を下げた。

「えっ」

「ありがとう、貴女はもしかしたら俺の恩人かもしれない」

「……はい?」

 そして困惑する貴美をよそに、メモの青年は席を立ち、会計を済ませて足早に立ち去ってしまった。

「なんだったんですか……」

 残された貴美は首を傾げるばかりである。

 貴美がしばらく呆気にとられていると、店員の沙也香が頼んだ覚えのない刺身の盛り合わせを運んできた。

「私、頼んでませんけど……?」

「えっ、でも、ここだって言われましたけど……」

 困惑する二人に、カウンターの中から、

「……先ほどまでおとなりにいらっしゃったお客様からですよ」

 と厳つい店主が言った。

「え?」

「……それと、ここまでの新藤さんの飲み代も全部頂いたそうです」

「え なんで……はっ、まさかスパイの懐柔工作なのでは……?」

「……スパイ?」

 店主が首を傾げた。

「そうですよ! だって、料理を食べては真剣な顔でメモを取っていたんですから! あれはきっとこの店の味を盗もうとやってきたライバル店のスパイに違いありません!」

 貴美の言葉を聞いて、店主は「ははは」と笑った。

「あの人ねえ、酒造の人なのよ。若いけど、ああ見えてれっきとした杜氏さんなの」

 睦美が笑いながら近寄ってきて、そう説明した。

「えっ」

「もちろん、うちにもあの人のところのお酒、あるのよ。ほら、あの人が薦めてくれたお酒、あれが新作なんだって。あんなふうにときどきふらっとやってきては、どんな料理と一緒に自分たちのお酒が出されているのかを確かめていくのよ」

 びっくりして、貴美は目の前にある日本酒を見やった。

 まだなみなみと残っているその酒は、照明の光を受けて水面を輝かせている。

「じゃあ、もしかして私、日本酒造りのプロに一丁前にお酒の味のこととか語ってたってことですか……?」

 恥ずかしい。

 なんて恥ずかしい。

 貴美は顔を真っ赤にして、しゅんとうなだれた。

「あっはっは。でもね、お会計のとき、すっごく嬉しそうだったわよ? 自分とそう歳も違わない若い女性が、すごく真面目に自分たちの仕事の結果を理解してくれようとしてる、って。もっと頑張らなきゃ、とも言ってたわ」

 睦美にそう言われて、ますます貴美はかしこまってしまう。

 そんな大層なことではない。ただ、よく行く店で知人に会えなかったときのお遊び程度のことでしかなく、過大評価も甚だしい。

「……そんなもんですよ」

 店主が穏やかに笑った。

「……美味しいと言ってもらえたり、本気で味わおうとしてくれたり、たったそれだけのことで料理人は死ぬほど嬉しいんです。きっと、杜氏も一緒でしょう」

「そんな。だって、私はただ美味しく飲み食いしたいだけで……」

「居酒屋でそれ以上に大事なことってあるんですか?」

 沙也香に訊かれて、貴美は言葉に詰まってしまった。

「……究極的には、料理も酒もその一点に尽きますよ」

「まあ、彼も何かインスピレーションが得られたみたいだし、ここは奢ってもらえてラッキー、くらいに思っておけばいいんじゃないですか? そのうちまた会ったときにでもお礼を言えばいいんですよ」

 そう言ってけらけらと笑う睦美だったが、それでもなお、貴美の顔の赤さは一向に引く気配がなかった。

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