第6話 ボタンエビの刺身

 店に入るなり知り合い二人の姿を探している自分に気がついて、美月は自嘲気味に笑った。

 ──なんだか、もうずいぶん長いこと付き合いがある親友みたい。

 そのわりには、美月は嘉穂と貴美の住んでいる場所も電話番号も、SNSのアカウントすら知らない。名刺をもらった貴美の住所や電話番号は調べればわかるかもしれないが、きちんと確認もしていなかった。

 なのに、最近では一番なんでも話せるような気さえする。

 それこそ、幼い頃からの友人とはまた違った話しやすさ、楽しさがある。

 ──不思議な縁よねぇ。

 しかし、その縁も今日は働いていないらしく、店内に嘉穂と貴美の姿はなかった。

 ほんの少しガッカリしつつ、美月はカウンターに座った。そして、手に取ったメニューの本日のオススメの中に『特大ボタンエビの刺身』を見つける。

 プリプリのエビで飲む日本酒というのはとても美味しそうだ。

「睦美さん、ボタンエビくださいな。あと、お酒はどうしようかしら……」

 少し考えこんだ美月に、睦美は、

「日本酒? 七瀬さん、最近、日本酒頼むことが多くなりましたよね」

 と笑った。

 そういえば、そうかもしれない。それも、あの二人の影響だろう。

 古い友人などには、よく「あんたは彼氏が変わるたびに趣味が変わるね」などと言われることはあるが、よもや飲み仲間の女友達に趣味を変えられるとは思いもしなかった。

「睦美さんはお見通しなのねぇ。えっと、『銀盤』を」

「それなら今日は純米大吟醸もあるけど?」

「じゃあ、それを頂こうかしら」

「はい、毎度」

 まず、お通しの枝豆と頼んだ銀盤が運ばれてきた。

 そして、追いかけるように大きなボタンエビの刺身が厳つい店主によってカウンター越しに手渡される。

 特大の文字に偽りはなく、ボタンエビは一匹が掌に収まりきらないほどのサイズだった。それが、三匹。尻尾は付いたままだが、殻は剥かれ、取り外された頭が皿の横に添えるように飾ってあった。

 尻尾や頭の、そして身に入ったラインの赤が鮮やかで美しい。

「ホント、すごく大きいわねぇ。それに、すごく綺麗」

 美月の感嘆の声に、店主が照れ臭そうに笑ってうなずいた。

 一口では食べきれないサイズのボタンエビを醤油につけて、ワサビと一緒に口へ。み切ろうと前歯を立てれば、エビの身はそれを弾こうとするほどにプリプリだった。

 そして、甘い。醤油やワサビのしょっぱさ辛さを押しのけて、エビの甘さが怒濤のように口の中に広がっていく。

 噛み切ったエビの半分を皿に置き、日本酒をすする。

 きっと、貴美ならば「なぜこのエビに日本酒が合うのだろう」とか「どの日本酒が合うのだろう」とか言い出すに違いない。そして、嘉穂は「今飲みたいお酒を飲めばいいのよ」と笑うのだろう。

 美月としては、

「ああ、美味しい」

 と素直に喜ぶだけである。

 ──こんなに美味しいエビなら、あの二人とワイワイ食べたかったなあ……。

 今からでも誰か来ないかな、と美月は入り口の方を振り返った。

 それと同時に、入り口の扉が開く。それに反応して、店員の睦美や沙也香が「いらっしゃいませ!」と声を上げた。

 入ってきたのは、嘉穂でも貴美でもなかった。

 女性だ。それも、若くて美しい。

 スーツ姿ではあったけれど、貴美のような会社勤めには見えなかった。明るい紫という色もそうだし、それが有名なブランド品であることも一目瞭然。ピアスやバッグもそれに合わせて相応で、普通の会社勤めには派手すぎる。居酒屋という空間でも浮いて見えた。

 そんな派手な装いでも下品に見えないのは、端正な顔や結い上げた黒髪の美しさのせいだけではないだろう。きっと、凜とした佇まいや穏やかな表情など、内面から滲み出ている品格によるところが大きい。

 その女性と目が合って、美月は息を呑んだ。

「もしかして──」

 その女性は、美月に向かってにっこりと微笑んだ。

 そして美月の側まで歩み寄ってきて、

「お久しぶり」

 と、ハスキーな声で言った。


 美月のとなりに座った紫スーツの女性は、カシスオレンジを頼んだ。

 そして店内を見回して、

「こういう店、好きなんだ。少し意外」

 と微笑んだ。

「そぉ? 素敵なお店よ。お店の人も常連さんもみんな優しいし、気取らない雰囲気で美味しいお料理とお酒が楽しめるし」

「そうかもね。……気を悪くしないでね? 誤解させたのなら謝るけど、このお店のことを悪く言ったわけではないのよ」

「うん。貴方と付き合っていた頃は、オシャレなレストランとかに行きたがってたもんねぇ、あたし」

「そうそう。あの頃は二人してお金がなかったけど、デートでイタリアン食べに行くために貯金したりしていたものね」

 紫スーツの女性は遠い目をして懐かしそうに言った。

「それより、ここへはどうして来たの? 思いつきで寄ったわけじゃないんでしょ?」

「ええ。美月のお店の人に聞いてきたの。最近はここがお気に入りだって」

「なるほどねぇ。驚いてたでしょ? あたしと付き合ってた頃の、男だった頃の貴方を知ってる人も同僚には多いし」

「まあね」

 そのときの同僚たちの驚きや動揺ぶりでも思い出しているのだろうか、紫スーツの女性はくすくすと笑ってうなずいた。

 そう、今となりに座っている彼女は、以前は男性として生きており、美月にとっては恋人だった時期もある、という人物だった。

 ──もう何年前になるのかなぁ……。

 彼は酒は飲んでも酷い酔い方はしなかったし、量もほどほどだった。暴力も振るわなければギャンブルもせず、とても優しい恋人だった。自他ともに男運がないと認める美月にとって、掛け値なしに幸せな期間だった。

 あるいは、それを失わざるを得ない運命だったことも含めて、美月の男運のなさなのかもしれないけれども。

「ねぇ」

 美月は日本酒を一口飲んで、訊いた。

「何?」

「もしかして、あたしのせい……?」

 それだけで、紫スーツの女性は美月の言わんとすることを察したようだった。

 即座に、「いいえ」と首を横に振る。

 かつて付き合っていた頃に、美月は悪ふざけで恋人に女装をさせたことがあった。端正で中性的な顔立ちと、華奢な体つきから、きっと似合うだろうと思ったのが動機である。

 メイクの手ほどきをして、ウイッグを被せて、女物の服を着せて──。

 そうしたら、想像以上というか、今となりにいる美女が出来上がってしまったのだ。

「きっかけではあったと思うけれど、遅かれ早かれだったはずよ。あの頃は、私も親の目とか世間体とか、色んなものを気にして普通であろうとしていたけど、かなり限界に近かったから」

「そっかぁ……」

 それは果たして本当なのだろうか。

 仮に美月のせいだったとしても、きっと返答は同じなのではないか。美月が知っている彼はそういう優しい人で、それは今話していても変わっていないのがわかる。

 何を訊いたところで、きっと、一番美月が傷つかない返答を、息をするように返すに違いない。

 まあ、しかし、今の彼女の笑顔は屈託がなくて、とても自然に思えた。

 であるならば、きっと、この人の本質はこちらなのだろう、ずっとそうだったのだろう。

 会話が途切れて、一〇秒ほどの沈黙が生まれた。その静けさの間に、誰かの笑い声や乾杯の音頭が、店内の中の喧噪が入りこんでくる。

「……ボタンエビ、食べる?」

 思い出したように、美月は訊いた。

 まだ一匹の半分を食べただけで、大きなボタンエビが二匹ほど、皿の上に手つかずのまま残っている。

「いいえ」

 やんわりと断りつつ、彼女は、

「ボタンエビ、か。ねえ、知ってる? ボタンエビって、生まれたときは性別がないんですって。成長するにつれて雄になって、もっと成長すると雌になるらしいわ」

 と笑った。

「へえ、そうなの?」

「ええ。まるで私みたいよね」

 その言葉を聞いて、美月はハッと顔を上げた。

「もしかして、手術を……?」

「明後日、日本を発つ予定なの。それで、美月に一度会っておこうかなって」

「そっかぁ……」

 かつての恋人がもっと遠くへ行ってしまう気もするが、ようやく彼女の人生が始まるのだという気もする。気持ちが複雑に絡まりすぎて、それ以上何を言えばいいのかも見つからなかった。

「ありがとう、美月」

「え?」

「男として生きるのは辛くても美月と付き合ってた期間は楽しかったし、きっかけをくれたのも美月だったし、何より──」

 言葉を切って、彼女はカシスオレンジをぐっとあおった。そしてコトッとグラスを置く。

「私が知る限り、美月は一番素敵な女性だもの。美月みたいな女になりたい、っていうのが今の私の目標なの」

「え──」

「じゃあね。久しぶりに会えてよかった」

 そう言い残して、彼女はカシスオレンジ一杯分としては多すぎる額の紙幣を一枚置いて席を立ち、店を出ていった。

「……復縁するわけでもない昔の恋人にそれを言われて、あたしはどうしたらいいのよ」

 とはいえ、彼女がそれで幸せになれるのなら、それが一番いいのだ、と思っている辺りが、彼女が言う美月の魅力なのだろう。

「ねえ、七瀬さん」

 沙也香が歩み寄ってきた。

「ちょっと話が聞こえちゃったんですけど、今の女の人って……」

「女の人、か」

 沙也香が言い終わる前に、美月は言った。

「そうね。ボタンエビと違って、あの人はずっと女だったのよ。少なくとも、心は」

 物憂げに目を伏せて、美月はボタンエビの刺身の皿を見やった。

「この子たちも、あたしと同じような失恋をしてきたのかしら……」

 その言葉は、困惑する沙也香の耳にすら届かず、店の喧噪の中に溶けていった。

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