第4話 酒器と戻り鰹
夕方、まだ陽が高いうちから飲み始める酒は美味い、と嘉穂は思う。
窓から薄暮の街並みを眺めながら、お通しで日本酒を舐めるようにちびちびと飲みつつ、頼んだ本命の肴を待つ。
よく「平日の日中に飲む酒は美味い」などと、多くの他人様が働いている時間帯に酒を飲むちょっと後ろ向きな喜びを表現することがある。しかし、嘉穂としては、居酒屋の開店と同時くらいに飲み始める方が好きだった。
一足お先に、くらいの方が背徳感としてもちょうどいい。
それに、日中となると使える店も限られてしまう。やはり飲むなら気に入った店がいい。まだ混んでいない馴染みの店で先に飲みながら、来るかどうかもわからない顔馴染みを待つというのも嫌いではなかった。
頼んでいた鰹の刺身が運ばれてきた。
それと同時に、入り口の開く音がした。
まさか、美月にしても貴美にしても、来るにはまだ早い。そう思いつつも、嘉穂はつい入り口へと目を向けた。
案の定、入ってきたのは美月でも貴美でもなく、一組の老夫婦だった。完全に見知らぬ人ではない。話したことはないが、何度かこの店で見かけたことがある顔だ。
老夫婦は嘉穂に会釈すると、カウンターの二席ほど離れたところに並んで腰を下ろした。
「ああ、戻り鰹ですか。いいですね」
老夫婦のおじいさんが嘉穂の料理を見て、にっこりと微笑んだ。
どうも、と嘉穂も小さく頭を下げる。
鰹といえば春から初夏にかけての初鰹が有名だが、夏の終わりから秋にかけての戻り鰹もまた旬である。海流の関係で、二つのシーズンに近海にやってくる、というわけだ。初鰹はさっぱりとした味わいであるのに対して、戻り鰹は脂が乗っている。
「私たちも頂きましょうか、鰹」
おばあさんが、おじいさんに言う。
「そうしようか」
店員の睦美が歩み寄っておしぼりとお通しを出し、
「鰹刺しでいいですか? あと、お飲み物は?」
と訊いた。
「飲み物は日本酒がいいんですが、少しお願いを聞いてもらっていいでしょうか?」
おばあさんが丁寧な言葉遣いで睦美に言った。
「実は、これで飲みたいんです。息子がね、金婚式に贈ってくれたんですよ」
そう言って老夫婦が取り出したのは、一揃いのぐい呑みだった。小ぶりで、銀色のそれは金属製であることが一目で見て取れた。
「あら、素敵。いい息子さんですね。わかりました、じゃあ、グラスじゃなくて徳利でお持ちしますね」
「ありがとう。お酒の銘柄は……何がいいかな……」
メニューを手に迷うおじいさんに、店主がカウンターの中で作業の手を止めて、
「……それでしたら、今日は『雪漫々』という面白いお酒が入っていますが、いかがですか?」
と静かに告げた。
「あ、そのお酒、出羽桜酒造のお酒なんですけど、マイナス五度で何年か熟成させた古酒なんですよ」
補足するように、睦美が言った。
「どうしても古酒になると日本酒はクセが強くなっちゃうんですけど、このお酒は低温のせいか、吟醸香もそのままにまろやかさだけ足したような仕上がりで、ものすごく美味しいですよ。時間をかけて熟成させることで味が良くなるなんて、お二人にピッタリなお酒だと思いますけど」
「じゃあ、それをお願いします」
おばあさんが丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます!沙也香ちゃん、『雪漫々』出してー!」
睦美の声に、若い店員が「はい」と元気よく答えたあとに、
「あ、そのお酒って何種類ありますか?」
と訊いた。
「一種類だけだから」
睦美が苦笑する。
そして不思議そうな顔をした嘉穂に、
「あの子、日本酒に興味がないものだから、同じ銘柄に吟醸とか純米とかいろいろ種類があるのをなかなか覚えられないんですよ」
と説明した。
なるほど、と嘉穂も苦笑する。
おまけに、日本酒のラベルにはデザイン重視で読みにくかったり、銘より大きく別の文言が記されているものもある。嘉穂が思っているより、居酒屋のホールというのも覚えることが多いのかもしれない。
「あの、『雪漫々』を私も頂けますか」
「言うと思った。今グラスお持ちしますね」
そりゃ言うよ、と内心思って、嘉穂は唇を尖らせた。
あんな説明を聞いて、飲みたくならないはずがないのだから。
それは、とても上品な味わいの酒だった。
注がれた時点で甘くフルーティな吟醸香が漂ってくる。口に含めばとてもなめらかで、まるでクセがない。しかし、米の甘みはしっかりとあって、それらが喉を流れていく感触すら心地よい。
──これが、古酒……?
他の店で、嘉穂は日本酒の古酒を飲んだ経験があった。そのときに飲んだお酒は、確かに日本酒らしさはあったものの、紹興酒のような強烈なクセがあった。それはそれで美味しかったのだが、今目の前にある酒とはまるで別物だ。
こんなに品よく、吟醸酒の持ち味を残したままで熟成させることができるとは。
「うむむ……」
唸りつつ、戻り鰹の刺身を一口。
そこへ、雪漫々を一口。
恐るべきはこのクセのなさ。食中酒として料理と合わせることで、その真価は何倍にも跳ね上がるような気さえした。
その酒を、老夫婦は錫の酒器で飲んでいる。
錫という金属は、酒の雑味を除いてまろやかな味にするのだという。
そう言われていることも、金属の酒器があることも嘉穂は知っていた。しかし、その謳われる効果に関しては眉唾だと考えていた。
もちろん、気に入った器を使うことで楽しく飲み食いすることは美味しさにもつながるとは思うけれども──
「あら」
おばあさんと目が合った。
思わず、考えながら、おばあさんの手にある酒器を見つめていたらしい。
「そりゃ気になるわよねえ、ぐい呑みを持ち込むなんて変なことをしていたら」
「あ、いえ、すみません……」
なんだか恥ずかしくなって、嘉穂は目を伏せた。
「いいのよ。よろしかったら、一口、試してみます?」
そう言いながら、おばあさんは錫の酒器を嘉穂に差し出した。
「いいんですか?」
「ええ。だって、息子がくれたこの酒器を自慢したいんだもの」
おばあさんがイタズラっぽく笑う。
それは冗談でありながらも、嘉穂に遠慮をさせないための気遣いでもあったのだろう。
「では、お言葉に甘えて……」
嘉穂は手を伸ばし、おばあさんから酒で満たされた錫の酒器を受け取った。
──この感触……。
手に触れた時点で、金属がひんやりと冷えているのがわかった。その冷たさは、ガラスのコップやビールのジョッキ、陶器の猪口の冷え方とも少し違う気がする。もっと冷たくて、もっと素材の芯が冷えているような……。
「いただきます」
錫の酒器に、唇が触れる。
「……!」
同じビンから注いだ同じ酒なのだから、味も温度も大差はないはずだ。なのに、こちらの方がより冷えている気がした。
味がまろやかになる云々については、元の酒が美味しすぎるせいもあってか、一口でわかるほどの差があるかどうかはわからない。
それよりも何よりも、嘉穂が驚いたのは唇に触れた酒器の感触だった。
その冷たさは、他の素材の酒器では味わえないだろう。手で触ったときに感じた他の素材との違いが、唇だとよりいっそう鮮明になる。
「この唇のひんやり感は、すごく面白いですね」
そう言いながら、嘉穂はお礼を言って酒器を返した。
「ホントねえ。私たちも、器一つでこんな違うんだってビックリしてたのよ」
すごくわかる、と嘉穂はうなずいた。
このひんやり感のために錫の酒器を買ってもいいかもしれない、とまで嘉穂は思い始めている。
「戻り鰹というのもね、感慨があるんですよ」
おじいさんが言った。
「もう何十年前になるか、息子と大喧嘩をしたことがありましてね」
訥々と、おじいさんは語り始める。
「我が家はずっと模型屋を経営してましてね。プラモデルとか、それを作る道具とかを中心に商売してきたんです。たくさんの常連さんに贔屓にしてもらいましてね、細々やってきたんですが、息子がね、『もっと流行の商品を扱うべきだ』と言い出しましてね」
ちびり、とおじいさんが錫の酒器でお酒を飲んだ。
「まあ、要するに当時やってたアニメに登場するロボットのプラモデルをもっと扱うべきだ、ということですよ。実際、売れ行きがいいのは知っていましたし、今でもプラモデルと言えばその商品群みたいなところはあるんですよ。お嬢さんにはあまり関心のある話ではないでしょうけどね」
「いえ、名前くらいは知ってます」
嘉穂とて知り合いに男性もいるし、そうした知人の中には趣味でプラモデルを作る人もいる。ちょっとした集まりの場で、そういう話が出ることも度々あった。そのくらいには、そのアニメのタイトルもプラモデルのシリーズも知名度が高い。
「でもね、当時はやっぱりそういうプラモデルを買うのは子どもが中心でね。大人の趣味人である常連さんたちはそれを嫌ったんだよ。騒がしいし、子どもが来ないうちの店の方がいい、ってね。こっちもそういう常連さんたち相手に商売をやってきたから、それでいいと思っていた。だから、息子が言うことも相手にしなかったんですよ。でもね」
酒器を置いて、おじいさんは大きくため息をついた。
「常連さんも老いて一人、また一人と引退し始めると、目に見えてうちの模型店の経営は傾き始めた。当たり前ですよ、若い人が興味を持つような商品を仕入れず、新しい客を獲得する努力をしてこなかったんですから。そうなることを息子はわかっていたんでしょう。でも、そうなってから気づいてももう手遅れで、息子も私の頑固さに呆れて、こんな家業を継げるかと就職して家を出たあとでした」
仮定の話は難しい。
例えば、息子の助言を聞き入れて流行の商品を扱ったとしても、それで新規の客を呼べたかどうかはわからない。ヘタをすれば、常連も失って新規客も得られず、もっと窮地に陥るのが早まってしまう展開だって当然考えられる。
「そんな折りに、我が家の窮状をどこかで息子が聞きつけたらしくて、段ボールを何箱も送ってきましてね。電話で『自分が会社で手がけた商品だから、これを扱ってみろ』って」
おっと、息子再登場来た、と嘉穂は内心ほくそ笑んだ。
息子から贈られた酒器に端を発している以上、それは想像に難くなかった。しかも、実家の窮地を救うヒーロー役とは、いい展開だ。
「それがね、銃のプラモデルだったんですよ。しかも、一二分の一サイズの、ミニチュアサイズの。確かに精巧にできていましたが、こんなのが売れるのか、と思いましたよ。だって、完成しても自分で持って構えることもできないわけでしょう。しかも、パッケージには銃を持ったかわいい女の子が描いてあるのに、当然その女の子は付いてこない。これじゃ詐欺じゃないか、と」
なるほど、聞く限りではかなり『攻めた』商品であるように思えた。実際、嘉穂もその商品がどんなターゲットに売れるのか、よくわからない。
「でも、その商品を置いて、販促用にと送ってくれたのぼりやポスターでPRを始めると、本当にその商品目当てのお客さんが来るようになりましてね」
「あれは本当にビックリしましたよねえ」
おばあさんがそう相づちを打った。
「そのあと、息子が『他社のだけど、一緒に売るといい商品を紹介するから』と言って教えてくれたのが、同じ縮尺の、いわゆるフィギュアのシリーズだったんですよ。関節が動かせる構造で、アクションフィギュアと言うのだそうで。これが色々なアニメや映画、実写のキャラまで手広く展開していて、これに持たせるのにちょうどいいサイズだったわけです」
「ああ、なるほど……」
そこまで聞いて、ようやく嘉穂にも合点がいった。その銃のシリーズには、明確な用途というか、それを持たせるべき対象が存在したのだ。
つまり、着せ替え人形の追加の洋服を別売りにしたようなモノで、すでに手広く展開しているシリーズの拡張パーツとしての需要を狙ったのだ。それがあれば、本来は銃を持たないようなキャラクターのフィギュアにも武装をさせられる、と。
「すごい息子さんですね」
その売り方を狙って企画を立てたのだとしたら、商才というか、ビジネスのチャンスに対する嗅覚が優れた人物であるように思えた。他のシリーズの人気に当て込んだやり方には賛否が分かれるかもしれないが、その需要を見出すのは誰にでもできることではない。
「ええ、本当に。老いては子に従えと言いますが、思い知らされました」
そう言ったおじいさんの笑顔には、自嘲が半分と、息子を誇る気持ちが半分、混ざり合っているようだった。
「いずれにしても、うちの店はそれで持ち直しましてね。その銃のプラモを買いに来た若い人たちに、昔取った杵柄でよりリアルな塗装の仕方をアドバイスしたり、適した道具を薦めたりするうちに新しい常連さんもできました」
「それで、戻り鰹、ですか」
にっこりと、おじいさんが笑う。
ケンカをして離れていった子が、社会的な経験を積み、反目し合っていた両親に手を差し伸べるだけの度量を備えて戻ってくる。
確かに、たっぷりと脂を蓄えて帰ってきた戻り鰹のようだ。
そして、そんな息子からお祝いにと酒器を贈られたということは、和解したとみていいだろう。
このカウンター席の老夫婦の前の酒と料理は、まるでこれまでの人生と、息子との紆余曲折を期せずしてなぞらえることになったのかもしれない。
その老夫婦の、酒と料理を楽しむ顔があまりに幸せそうで、嘉穂もなんだか嬉しくなって目を細めた。
こんな話に出会えるのも、常連同士の垣根が低いこうした居酒屋ならではなのだろう、と。
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