第3話 お刺身と室蘭焼き鳥

「ええと……」

 貴美はメニューの『今日のオススメ』を手に目移りしていた。

 日本酒を頼んだのだから、まずは刺身がいい。

 でも、コチとかヒラマサとか、貴美があまり聞いたことのない魚の名前もたくさん並んでいる。マグロやサーモンなどの貴美もよく知っている魚の名前もあるが……。

 ──なんかこう、そういうのばっかり頼むのも、カッコ悪いような……。

 こういうときに嘉穂がいれば、パパッと美味しい魚を選んでくれるのだろうが、今日は珍しく彼女の姿がない。もっとも、嘉穂がいたら「格好なんか気にしないで食べたいものを頼みなさい」と言っただろうけれども。

 ともかく、貴美はこんなときの嘉穂の教えを思い返そうと思案した。

 貴美は記憶を手繰り、店員の睦美に、

「オススメから見繕ってお刺身を一人前の盛り合わせにしてもらえますか」

 と頼んだ。

 たいていの店には、単品の刺身の他に、盛り合わせというメニューが存在する。

 そこそこ値は張る場合も多いが、何種類もの刺身を単品で頼むよりは経済的だ。その日仕入れた魚の中でどれが美味しいかを知っているのはお店の人なのだから、信頼できるお店なら盛り合わせで任せてしまうのも手なのだ。

 もちろん、盛り合わせの内容が固定の店もあるだろうが、常連にあまり良くないものを出して見捨てられてはお店も損をするのだから、美味しいところを見繕ってくれる店もちゃんとある。逆に、そういうところでお店の姿勢を見極めることだってできる。

 ……との教えを、師はすでに弟子に施していたのである。

「はい、刺し盛り一人前ね……と、いらっしゃい!」

 店の入り口が開いて、入ってきたのは美月だった。

「あ! 美月さん!」

 貴美が手を振ると、美月も手を振り返してとなりへとやってきた。

「二人前にする? 刺し盛り」

 睦美の問いに、貴美と美月は、

「「はい」」

 と綺麗にハモって答えた。


 盛り合わせには、マグロの赤身と中トロ、鰺(たたき)、〆鯖、イカなどが適度な量で盛られていた。珍しいところでは、太刀魚(炙り)があり、白身の魚はイサキだと睦美が運んできたときに教えてくれた。

 二人でその刺身をつつきながらしばらく飲んでいたが、嘉穂は姿を見せない。いつもなら、とっくに来ている時間である。というより、たいてい嘉穂はこの三人の中では一番早く店にやってきて、一人で飲み始めている。

「今日は来ないんですかね、嘉穂さん」

「まあ、そういう日もあるんじゃないかしらねぇ。やっぱり、師匠がいないと寂しい?」

「私は別に……」

 ちょっと照れ気味な貴美の口振りが少し拗ねているようで、そんな様子が可愛くて、美月はくすくす笑いながら、

「そうなの? あたしは寂しいけどなぁ。師匠の指導に真面目な顔で聞き入ってる貴美さんが一番可愛いし」

 と目を細めた。

 貴美の照れ顔が困り顔に変わる。どう答えていいのかわからず目を逸らした貴美の視線の先では、一人の男性客が料理のメニューを見ながら大きなため息をついたところだった。

「ここにもないか……」

 その男性は、残念そうに、小さな声でそう呟いた。

「どうしました?」

 店員の睦美が、その男性客に歩み寄ってそう尋ねた。

「あ、いえ、私は室蘭の生まれなんですけど、最近、急に地元の焼き鳥が恋しくなりまして。食べられる店がないものかと探してるんですけど」

「……室蘭の焼き鳥というと、豚とタマネギのですか? タレのをからしで食べる?」

 カウンターの中から、厳つい店長が小さな声で訊いた。

「そうです、それです! ご存じなんですか」

「……ええ、まあ、知識だけですが。よろしかったら、お作りしましょうか? 材料はありますし、今日はまだお客さんも少なくて手も空いてますので。ご希望の味になるかはわかりませんが」

「いいんですか!? 是非お願いします! 常連でもないのに、わがままを言ってしまって申し訳ないのですが」

「いいんですよ、気にしないでくださいって。お客様に楽しく飲んでもらってこその居酒屋なんですから。ねっ、店長?」

 睦美の言葉に、店主は無言でうなずいた。

「このなりで口数が少ないから誤解されやすいですけど、言ってくれればメニューにないものでも対応させてもらいますから」

「あのぉ」

 そのやりとりに、美月が手を上げて割って入った。

「その、室蘭の、豚の焼き鳥? あたしたちも頼んでいいですかぁ? 貴美さんも食べてみたいでしょ?」

「え? ええ、まあ、……はい」

 店主が無言でうなずき、やがて、カウンターの中の焼き場から豚の焼ける香りと音が漂い始めた。

「ねえ、お客さん。一つ訊いてもいいですか?」

 睦美が先ほどの室蘭の男性にそう声をかけた。

「はい?」

「豚とタマネギを串に刺して焼いてもそりゃ美味しいと思うんですけど、なんで焼き豚じゃなくて焼き鳥って呼ぶんです? そりゃこっちでも串焼きには豚を使ったのを出す焼き鳥屋もありますけど、そういう感覚とも違うんですよね?」

「あー、そうですね……。最近では室蘭でも鶏肉の焼き鳥もありますが、鳥精とか鳥精肉とか、分けて呼びますね」

「えっ、鶏じゃない豚の串を焼き鳥って言って、鶏のを別枠で呼ぶってことですか?なんでそんなことに……?」

 思わず、貴美もそう訊いてしまった。

「さあ、なんででしょうね……? 養豚自体は昭和初期から室蘭では国からも推奨されて盛んだったそうなので、材料には事欠かなかったと思いますけど、名前については私もよく知りません。というか、当たり前にそう呼んでいたので、こっちに来るまでまったく不思議にも思わなかったのです」

「あー、確かに、みんなが当たり前のようにそう呼んでたら、それが普通ですもんねえ。店長、知ってます?」

 睦美の問いに、店主は無言で首を横に振った。

「謎ですね……」

「謎ねぇ」

 貴美と美月も、首を傾げる。

「嘉穂さんなら知ってますかね?」

「あの人も不思議な人よねぇ。いろんなこと知ってるし……。お仕事とか、何をやってるのかしら?」

 美月が口にした疑問に、答える者は誰一人としていなかった。

「え、誰も知らないんですか?」

 貴美が睦美や店主、他の常連客の顔まで見回すが、やはり誰も「知らない」という顔をしている。

「そういや何してる人なんですかねえ。毎日のように来て結構飲み食いしてるんだから、お金はかなり持ってるんでしょうけど。お店としては頻度も単価も高くてとっても助かるお客さんなんだけど」

 睦美が首を捻った。

「そういえば、私が、名刺を渡したときも、『持ち合わせてない』と言ってましたけど、その後も名刺を頂いてません」

「あ、確かにそうねぇ。もしかして、意図的にはぐらかしてるのかしら」

「沙也香ちゃん、何か聞いてる?」

 睦美が若い店員にそう声をかけた。

「まさか、睦美さんが知らないことを知ってるわけないじゃないですか。あたしなんかより、いつも一緒に飲んでて聞く機会が多いのもみなさんですし」

「だよねえ」

 睦美が肩をすくめる。

「もしかして、あまり人には言えないようなお仕事だったりするのでは……。例えば、ギャンブラーとか。パチンコやスロットを生業にする人もいると聞きました」

 ポツリ、と貴美が言った。

「それはないかなあ。この近くのパチンコ屋さんで片菊さんと会ったことないし」

 睦美が即答した。

「睦美ちゃんはほどほどにしときなよ。先月も大負けしたんだろ?」

 常連の誰かが混ぜっ返して、店内に笑い声が満ちた。睦美だけが「そこ、うるさい」と仏頂面である。

「単に金持ちの旦那がいるとか?」

「でも、それなら隠す必要はないだろ」

「まさか、もっと言えないような亭主だったり? 例えば、アレだ、極妻的な、あるいは情婦とか」

「そういう怖い人たち、この辺に住んでるんですか?」

 店員のみならず他の常連たちも話に加わり、話について行けない室蘭の男性は困惑するばかりだった。

「そんな悪い人を嘉穂さんが好きになるとは思えません」

 犯罪者の家族どころか愛人扱いに憤慨して、貴美が真顔で言った。

「そうねぇ。嘉穂さん、結婚指輪もしてないし、服やアクセサリーも派手じゃないから、そういう世界の人とは思えないかなぁ」

 美月の援護射撃に、貴美は我が意を得たりとばかり眼鏡をクイッと押し上げて、

「実は警察関係者でそういう人たちの調査をしてるとかの方がまだ納得できます」

 と言い出した。

「ちょっとちょっと、じゃあ何、毎日のようにこの店に来てるのは誰かを監視するためってこと? うちのお客さんにも従業員にもそんな悪いヤツはいませんって」

 睦美の言葉に、店主を始め、従業員一同が大いにうなずく。

「いやいや、逆のパターンもあるって。あの子が犯罪者で、ここでこっそり暗殺の依頼を請け負ってたりしてるかもしれないだろ」

「仲間と符丁で盗みの計画を立ててたりとか、ありえそうだな」

「あーりーまーせーんーっ」

 貴美が常連たちの言葉をムキになって否定するが、その必死さが面白いのか、常連たちは、

「某国の諜報員の線もある」

「実は超能力者かも」

 などなど、どんどん話を盛っていく。

「だーかーらー!」

 ヒートアップする貴美に、睦美が、

「まあまあ。ほら、焼き鳥? っていうかお料理、できましたから」

 と苦笑しながら皿を持ってきた。

 一口大にカットされた豚肉と、同じサイズのタマネギが交互に串に打たれ、焼き鳥のタレに覆われている。そのタレ越しにも、こんがりとついた焼き色がハッキリとわかって食欲をそそる。その串焼きの皿に添えられていたのが、黄色い和がらしである。おでんにつけて食べるアレだ。

「ああ、これですこれです!」

 室蘭の男性は待ってましたとばかり、串を持ち、からしをつけてバクリと口に入れた。

 熱そうにしながら、しかし美味しそうに相好を崩して咀嚼する。

 その顔があまりに嬉しそうで、その様子を見ているだけで目の前の串焼きが本当に美味しそうに思えてきた。

 他のテーブルの常連たちからも、「それをこっちにもくれ」という注文の声が複数上がり始める。

「そりゃまあ、豚肉とタマネギにタレつけて焼いたら美味しいに決まってるわよねぇ」

 美月がくすくすと笑う。

「ですね。しかしこれは、ハイボール案件……いえ、脂というより味が濃い系なら、ええっと、純米酒案件?」

「お勉強熱心なのはいいけど、こういうとき、きっと嘉穂さんなら──」

 美月が言い終わる前に、お店の入り口が開いて、睦美の、

「いらっしゃい!」

 という声が重なった。

 一斉に、店中の視線が入り口に集まる。

「え、何……?」

 店内に入ってきた嘉穂が訝しげに眉をひそめた。

 が、すぐに貴美たちの前に置かれた皿を見て、

「あら、今日は『やきとん』なの? 珍しいわね」

 と目を輝かせながらカウンターへと歩み寄った。

「違いますよ、嘉穂さん。これは、室蘭の焼き鳥なんです」

「焼き鳥? 豚なのに?」

 その反応に、貴美と美月がイタズラっぽく笑った。いや、二人だけでなく、睦美や沙也香、他の店員や常連客たちも同じように笑っていた。

「まあ、その話はこれからゆっくりするとしてぇ、お弟子さんがこれに合わせるお酒に迷ってるわよ」

「そうなの? 別に、相性はあるっていっても、劇的に不味くなることなんて滅多にないんだから、気にせず飲みたいお酒を飲んだらいいのに」

 そう言いながらカウンターに座る嘉穂を見ながら、美月は、

「うん、そう言うと思った」

 と微笑んだ。

「ところで、嘉穂さんってお仕事は何をやっているんですか?」

 嘉穂としては唐突な質問だっただろうが、その貴美の質問に店中が耳をそばだてた気配が店内に強く満ちた。

「……何、この雰囲気。それ、答えなきゃダメ……?」

 嘉穂は店内を見回して、やれやれと肩をすくめた。

「別に、みんなが期待してるような面白いネタじゃないわよ。ただの個人事業主。それ以上は言わないわよ? だって──」

 今度は、嘉穂がイタズラっぽく笑う。

「仕事の話をお酒の席でしたって、愚痴にしかならないじゃない。私、お酒は楽しく飲む方が好きだもの」

 そして、嘉穂はいつものように日本酒を注文するのだった。

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