第2話 谷中生姜の豚巻き焼き
「あっ、嘉穂さん、美月さん!」
店員の「いらっしゃいませ」や案内を待たずに、貴美は店に入るなり目聡くカウンターで並んで座る二人を見つけて歩み寄ってきた。
イワシの丸干しをシェアした日から一週間ほどあとのことである。何度か『竜の泉』で二人が顔を合わせることはあっても、三人が揃うのはあの日以来だった。
「貴美さん、こっちこっち。お疲れ様ですぅ」
美月がそう言いながら、貴美を手招きする。
貴美が座るなり、
「いらっしゃい。今日は師匠の片菊さん、ずっとハイボール飲んでるけど、新藤さんは日本酒にする?」
と、店員がおしぼりとお通しのポテトサラダの小さなお皿を運んできた。
「もう、二ノ宮さん、師匠って何よ」
苦笑しながら、嘉穂が店員にツッコミを入れる。
確かに貴美と会うたびに、嘉穂はオススメの日本酒を教えたりしながら一緒に飲んではいたが、そんなふうに見えていたのだろうか、と思うと妙な気分になる。そして、常連の好みを恐ろしいほど把握しているこのベテラン店員の観察眼にも敬服してしまう。
「ねえ、睦美ちゃーん、注文いい?」
他の席から、ベテラン店員の二ノ宮睦美にお呼びがかかった。
「はいはい、ちょっと待ってねー!」
大きな声でそっちに返事をしつつ、二ノ宮は貴美の返事を待っている。
「えっと、じゃあ、嘉穂さんと同じモノを」
「はい、ハイボールね」
睦美は伝票にそれを書き込んで、先ほど呼ばれたテーブルへと去っていった。
「あの、ハイボールって美味しいんですか?」
貴美が訊いた。どうやら、よく知りもせずに頼んだらしい。
「さっぱりしてて美味しいわよ。ウイスキーをソーダ水で割ったお酒なのよね。ここのは輪切りのレモンも入れてるけど。あたしは好きだなぁ」
美月はそう言って、自身のハイボールを美味しそうに飲んだ。
「日本ではウイスキーソーダを指す場合がほとんどね。ここのも当然それよ。本当はもっと幅が広くて、スピリッツやリキュールを使うこともあるみたい」
「なるほど……」
貴美が真顔でうなずいた。
「さすが嘉穂さん、お師匠様っぽいわぁ」
そんな冗談を言って、美月が笑う。
「もう、師匠はやめてってば。今日はね、美月さんと最初から串物を頼んでたからこっちにしたのよ」
「串物っていうと、焼き鳥とかですか?」
貴美は嘉穂たちの前にある皿を見た。そこにもう焼き鳥は残っていないが、その名残として数本の串がある。
「ってことは、焼き鳥には日本酒よりハイボールの方が合う、ということでしょうか?」
「そうねえ……。貴美さんが好きな吟醸酒だと、肉料理には負けてしまうかもしれないわね。個人的には、吟醸酒には白身魚のお刺身のような『淡泊な素材の持ち味を活かしたお料理』が合うと思っているわ。焼き鳥も塩だと素材の味を活かしているけど、脂が強い肉料理なら旨みやコクが強い純米酒の方がいいかもしれないわね」
「なんだかワインみたいねぇ。肉は赤で魚は白だったかしら?」
「ワインも日本酒も、それだけ種類や銘柄によって味わいが違うってことよね。もちろん、ワインも日本酒も、セオリーに縛られすぎる必要はないと思うけれど」
嘉穂がそう言った直後に、貴美が頼んだハイボールが運ばれてきた。
嘉穂は、ハイボールを運んできた睦美より……というよりは、貴美と同じくらいの歳に見える若い女性店員に、
「あ、『谷中生姜の豚巻き焼き』を頼みたいんですけど、一皿って二本ですよね?三人なので、人数分にしてもらうことってできます?」
と訊いた。
こういうちょっとしたお願いを気軽に言えるのも、チェーンではない小さな居酒屋のいいところである。もちろん、必ず聞き入れてもらえるとも限らないし、度が過ぎれば迷惑な客になってしまうが、多めに頼んで食べきれないよりはマシだろうと嘉穂は考えている。
言うまでもなく、量を減らしたから安くして、とか、量を増やしても値段を据え置きにしてくれ、と主張する気は嘉穂にはない。
「はい、わかりました」
愛想よく返事をして、若い店員は忙しそうに去っていく。いつしか客の数は増え、ほぼ満席に近い。店員は全員フル稼働状態だった。
「これをね、頼もうと思っていたからハイボールにしてたのよ。脂が強いお料理には、やっぱりビールかハイボールの清涼感が合うから」
ビール、と聞いて貴美が眉を顰ませた。
「さっぱり感はわかるんですけど、ビールも苦くてあんまり……」
おそるおそる、貴美がハイボールに口をつけた。
「……なんか木の味がしません?」
「そうね。ウイスキーは木の樽で熟成されるから、その香りでしょうね」
「でも、ビールほど苦手な味じゃないです。私、レモンの香りも炭酸のシュワシュワも好きですし。それに……」
貴美はお通しのポテトサラダを一口食べて、そのあとにもう一度ハイボールを飲んだ。
「うん、やっぱり。日本酒はお酒の味と香りをじっくり楽しむ感じでしたけど、これは味が濃かったり脂っこいお料理の後味を洗い流す感じなんだと理解しました」
「そうそう。それに、もう一つ、決定的なメリットがあるのよ。それはね、カロリーが低くて糖質も少ないっていうこと」
「あ、あたしも聞いたことあるー! 確か、カロリーがビールの三分の一なんだよぉ」
「本当ですか」
カロリーの話に貴美が食いついた。女子たるもの、常に気になるワードである。
「ええ。これは蒸留酒の特徴だから、ラム酒とかウォッカとか焼酎も同じね。あとは、元々度数が強いから、割っても酔うのが早くてお酒の量が減る、ってこともあるのかも」
「なるほど……。じゃあ、焼酎が使われているサワーもカロリー的には悪くないのでは」
貴美の呟きに嘉穂はくすくすと笑った。
「ヒント。サワーはハイボールに比べて甘い」
「あっ」
どうやら貴美は、お酒のカロリーが低くても割るものにカロリーがあれば帳消しになってしまうことに気がついたらしい。
「あら、師匠も優秀なら、お弟子さんも勘がいいわねぇ」
「もう、美月さんまで……」
困り顔で、嘉穂は美月を睨む。
そんなところで、店員の睦美が人数分の谷中生姜の豚巻き焼きの皿を運んできて、
「はい、お待ちどおさま」
と、それぞれの前に一皿ずつ置いた。
「あれ、二ノ宮さん、私、一皿を三本にしてもらえないかって頼んだつもりだったんですけど、伝わってませんでした?」
「え、ホントに?」
嘉穂の言葉に、睦美が慌てて伝票を確認する。
「あ、この字は沙也香ちゃんだ。ごめんね、あの子、元気でやる気はあるんだけど、ちょっとおっちょこちょいで。じゃあ、半分下げますね」
「あ、いいですよぉ」
睦美が下げようと皿に伸ばした手を、美月が優しく掴んだ。
「思ってた以上に美味しそうだし、みんな二本くらいいけちゃうよね?」
美月にそう言われて、嘉穂も、
「そうね。私も一応確認しただけで、いちゃもんをつけたいわけではないので」
と笑って見せた。うんうん、と貴美もうなずいている。
思い返してみれば、明確に「一皿を三本にしてもらえないか」と言ったわけではない。この忙しさでは行き違いがあってもおかしくはないだろう、と嘉穂も納得した。
「いいんですか? すみません。ちょっと店長に言って、何かおまけしてもらえるようにしますから」
申し訳なさそうに睦美が頭を下げる。
「あ、いえ、別にそういうつもりでは……」
逆に嘉穂も申し訳なくなって、睦美と謝罪合戦を繰り広げることになってしまった。
それはともあれ、料理である。
谷中生姜は生姜の品種の一つで、葉生姜として出荷される。葉生姜とは、まだ根茎が小さく柔らかいうちに葉ごと若取りした生姜のことだ。根茎の部分の皮をき、そこに豚バラ肉を巻いて、塩コショウで味付けして焼き鳥のように焼いた料理、それが『谷中生姜の豚巻き焼き』である。
「すっごく生姜の匂いがいいわねぇ。豚の脂の匂いも混じって、生姜焼きみたい」
「まあ、豚と生姜ですから」
美月の言葉に貴美が苦笑する。
「ある意味、豚の生姜焼きと言っても過言ではないわよね。しかも、この料理のいいところは、こうやって」
嘉穂は生姜の緑色の茎をつまんで持ち上げて見せた。
「片手で手軽につまんで食べられることよ。茎の部分は固くて食べられないけどね」
そのまま、湯気を立てる谷中生姜の豚巻き焼きを囓る。
豚肉の旨みと塩コショウの味がまずやってきて、次いで焼かれたことでホクホクになった生姜の噛み応え、そして最後に漂ってきていた以上の怒濤の生姜の香りが口の中になだれ込んでくる。それが咀嚼するたびに混ざり合い、生姜焼きの香りは鼻へと抜けていく。
まさに生姜焼きだ。新感覚の豚の生姜焼き。
そして、生姜の香りと豚の脂、塩気を存分に楽しんだのちに、ハイボールを流し込む。
冷たい炭酸の弾ける感覚と、木とレモンの香りがそれらを綺麗に洗い流していく。
グラスを置いて、嘉穂は「ふう」と満足げに息を吐いた。
「美味しー! これ、大発明よねぇ。手軽な生姜焼きって」
「これは最高です。食べて飲んでまた食べて飲む、のサイクルが止まりません……!」
三人とも、各自二本の谷中生姜の豚巻き焼きをぺろりと平らげてしまった。
「結果的に、一人一皿で問題ありませんでした」
貴美のその意見には、嘉穂も同意見だった。おそらく美月も。
「そういえば、似たようなことが最近会社であったんです」
ぐっとハイボールをあおってお代わりを注文しつつ、貴美は言った。
「三本を三皿くらいならともかく、発注の数を本来の一〇倍に間違うって信じられます?」
「ゼロを一つ多く入力してしまったのかしら」
「たまにSNSとかで聞くよねぇ。発注し過ぎちゃってピンチだから助けて!みんな買いにきて! みたいな」
嘉穂もそんな書き込みを見たことは一度ならずあった。
「あれってネタかやらせだと思っていたんだけれど。普通はそんなに頻発するようなミスじゃないでしょう?」
何気ない嘉穂の一言に、「うぐっ」となぜか貴美の顔が引きつった。
「あれ、でもぉ、貴美さんの会社って店舗をやってたり食品を扱ったりしてるところじゃなかったわよねぇ?」
「あ、はい。なので、材料を多く仕入れたとしても腐ったりすることはないです。でも、保管する場所だって必要ですし、運び込むのだって大変ですし、思わず上司に『なんてことしてくれたんですかっ』って怒鳴ってしまいました」
必要以上に眼鏡の位置を直しながら、貴美は運ばれてきたお代わりのハイボールをごくごくと喉に流し込む。
「ちょっと、貴美さん、そんなハイペースで大丈夫!? いくら割ってても元は強いお酒なんだから……」
「もちろん大丈夫です!」
酔いが回ってきたのか、それとも話に熱が入ってきたのか、貴美の頬がいつもより赤い。そして、さらにハイボールを飲む。
「いっぱい飲みたい日だってあるんです! 一〇〇倍の発注ってなんなんですか!」
そう言う貴美の眼鏡の奥の目には、うっすらと涙が滲んでいるように見えた。
──あれ、一〇倍って言ってたはずなのに……。あ、もしかして、これって上司のミスじゃなくて貴美さんの……。
それに気づいた嘉穂の肩を、美月がぽん、と叩いた。そして、そっと自分の唇の前で人差し指を立てて、
「それは言わないであげましょ」
と囁いた。
そして、美月は席を立ち、貴美の背後から両肩にそっと手を置いた。
「仕事をしていればミスをすることだってあるわよ。ね、その上司さんも、きっとどこかでお酒でも飲んで憂さを晴らして、明日からまた挽回するために頑張ろう、って思ってるに違いないもの。大変だったかもしれないけど、許してあげましょ?」
優しく、とても優しく、美月は貴美の耳元に顔を寄せて、諭すように言った。
「うう……」
ポロポロと貴美の目から涙がこぼれ落ちる。
「二ノ宮さん、お冷やをもらえますか」
嘉穂は貴美のためにそう頼んで、一緒に飲んでいた二人を見やった。
仕事でヘマをして凹むことなんて、誰にでもある。その憂さをお酒で晴らすのは一つの有効なやり方ではあろうけれども、嘉穂はあまり感心はしない。お酒だけに頼れば、どうしても深く悪いお酒になってしまうからだ。
どうせなら、お酒よりも飲みながらの会話で発散した方がいい。そういう意味では、今日、貴美がこうして嘉穂や美月と一緒になったのは幸運だったのかもしれない。
──それにしても……。
貴美に優しい言葉をかけ続けている美月を見て、嘉穂は思う。
──前回は私たちのことを優しいなんて言っていたけれど、美月さんの方がずっと慈愛に満ちてるじゃない。この容姿でそれなら、そりゃモテるわよ……。
そんな敗北感にも似た何かに打ちのめされながらも、嘉穂は、この一見クールなくせに案外ドジっぽいことが判明した新社会人をどう元気づけてあげるべきだろうか、と思案を巡らせ始めた。
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