居酒屋がーる(1)(2)
おかざき登
第1話 イワシの丸干し
嘉穂は長い黒髪を手で押さえつつ、唇を目の前のグラスへと近づけた。
枡の中に置かれたそのグラスには、なみなみと枡に零れるまで日本酒が注がれ、表面張力を発揮している。
グラスを持つのではなく、置いたまま口を近づけて飲むなんて行儀悪い気がしてしまうが、枡の中にグラスを置いて零れるほど注ぐ盛り切り酒では、他に上手く飲む方法はない。
冷酒のひんやりとした温度が唇に心地良い。
「うん」
一口飲んで、嘉穂は満足げにうなずいた。
酒は『〆張鶴』の吟撰。クセがなく、とても口当たりがまろやかな地酒だ。香りも後味も良く、値段も高すぎずリーズナブルで、嘉穂のお気に入りの地酒の一つだった。
居酒屋はいい、とこの店に来るたびに嘉穂は思う。もっと安いチェーン居酒屋で仲間とわいわい騒ぐのも大学生の頃は楽しかったけれど、一人でふらりと来るならもう少しグレードを上げて、落ち着いた店がいい。
この『竜の泉』という居酒屋は、そんな嘉穂の理想通りの店だった。決して大きくはない、カウンター一二席と四人がけのテーブルが五つ程度の規模である。宴会用の座敷もあるそうだが、そこに嘉穂は入ったことがない。
カウンターの向こうではプロレスラーのような厳つい店主を中心に三人くらいの調理スタッフが忙しく動き回っている。カウンターに陣取って、厨房の焼き場で自分や他の客が頼んだ焼き魚や串焼きが焼かれるのを遠目に眺めながら飲むのもオツなモノだ。
ホール側では、席の間を気っ風の良い店員のお姉さん(年上の女性は年代にかかわらずそう呼ぶのが礼儀というものだ)たちが酒や料理を運び、注文を復唱していた。
仕事帰りのサラリーマンたちの愚痴や馬鹿笑いも、ときおり漂ってくる嫌いなタバコの臭いさえも、まとめて酒場の雰囲気という括りで許せてしまう。
「片菊さん、お待たせ。イワシの丸干しね」
顔なじみの店員さんが、背後から嘉穂の前に長方形のお皿を置いた。
そのお皿の上には、ししゃもより一回り大きな焼き魚が三匹に、大根おろしとレモンが添えられている。干してはあるが、腹を開かず、鱗を取って丸のまま干したイワシを焼きたてで出されたのがこの一皿である。
箸をつける前から、焼けた青魚特有の香りが鼻に届き、食欲を刺激する。ほどよい焼き色もたまらない。
「これこれ。やっぱり日本酒にはこういうのが合うのよね」
小さく呟いて、大根おろしにほんの少し醤油を垂らし、レモンを搾って果汁を身にかける。
「あっ、それ、美味しそう!」
不意に、嘉穂のとなりからそんな声が聞こえてきた。
ふと声の方を見やれば、隣の席に座っていた、ふわっとした栗色の髪の若い女性が嘉穂の丸干しを見つめていた。
「すみませーん、あたしもこれ、くださーい!」
栗色の髪の女性が、手を上げて店員を呼ぶ。
「……!」
そのとき、嘉穂は見てしまった。手を上げた弾みで、その女性の胸に付属している大きなそれが派手に揺れるのを。
──え、ちょ、大きくない?
服の上からでもその上下運動がハッキリと見て取れるのだから、相当なものだ。しかも、ウエストがちゃんとくびれているのだからすごい。まるでグラビアアイドルのようなプロポーションだった。
嘉穂とて決して小さいわけではない(自己申告)のだが、それでも「この服すごく素敵だけど、もう少し胸が大きい方が似合いそう」などと思うこともしばしばで、やはり眼差しには多少なり羨望が混ざってしまう。
「あ、じゃあ私も便乗させてください。同じモノを一つ」
反対側のとなりからも、そんな声が上がる。
そちらはというと、刈り揃えた前髪と眼鏡が特徴的な若い女性だった。栗色の髪の女性は嘉穂と同じ二〇代半ばくらいに見えるが、こちらはもう少し若そうである。着ているスーツが、似合っていないわけではないのだが、まだ馴染んでいないように見受けられる。
新社会人かな、と嘉穂は思ったが、それにしては一人でこうした居酒屋に飲みに来るとは、なかなか度胸がある。小柄でスリムだから幼く見えるだけなのだろうか。
「はい、丸干しですね。店長、追加で丸干し二つです!」
店員のその声に、プロレスラーのような厳つい男性が顔を上げて、申し訳なさそうに首を横に振った。
「ごめんなさい、丸干しはそれで最後だったみたいです」
店員もすまなそうに頭を下げた。
それは残念、と嘉穂の両隣の女性がため息をついた。
「ええと、もしよければ、一匹ずついかがですか?ちょうど三匹ありますし」
嘉穂の提案に、どちらの女性も顔をきょとんとさせた。
「え、いいんですか……?」
「そんな、見ず知らずの方にそこまでして頂くわけには……」
「遠慮しないで。となりに座ったのも何かの縁だし、こうなってしまったら私だけ食べるのもなんだか気まずいし。それに──」
苦笑しながら、嘉穂は、
「美味しいものは、みんなで食べた方がより美味しいでしょう?」
と二人に言った。
「あたし、七瀬美月です」
栗色の髪の女性はそう名乗った。プロポーションはいいし、優しそうな目が可愛らしくて、この人はモテるだろうなあ、と嘉穂に思わせるだけの美貌を備えていた。
着ているスカートもジャケットもそこそこ名の通ったブランド品で、イヤリングなどの小物も可愛らしく、身なりにも気を遣っているのが一目でわかる。こうした気取らない居酒屋では少し場違い感があるものの、センスの良さが随所に感じられた。
そんなことを観察する嘉穂の視線に、美月はとても柔らかい微笑みで応えた。
「私は新藤貴美と申します」
もう一人の女性が、眼鏡をクイッと押し上げながら言った。
発言や態度から、その真面目さが伝わってくる。
「あ、ええと、名刺は……」
真面目でしっかりしてそう、という印象を持った矢先、貴美はあたふたと名刺入れを探してあちこちのポケットを探り始めた。
「そんな、居酒屋でたまたま居合わせた程度なんだから、無理に名刺を頂かなくても。私も今は持ち合わせていませんし」
嘉穂はそう言ったが、貴美はスーツの内ポケットをまさぐりながら、
「いえ、私が使いたいんです。せっかく支給されたのに、営業職でもないからなかなか使う機会がなくて……。あ、あった!」
嬉しそうに名刺入れを取り出して、嘉穂に自身の名刺を差し出した。お手本のようなビジネスマンの仕草で。
「ご丁寧にどうも」
そう言われては、嘉穂も名刺を受け取るほかない。
その名刺には、かなりメジャーな企業名と庶務課という部署名が記されていた。嘉穂がそれを見ているうちに、貴美は美月にも名刺を渡していた。
「私は片菊嘉穂です。さあ、イワシの丸干し、冷めないうちにどうぞ。レモン、搾っちゃいましたけど」
嘉穂も自己紹介をして、丸干しの頭に大根おろしを載せ、率先して頭から囓った。
バリバリと頭も骨も丸ごと食べられるのが、この丸干しの良さだと嘉穂は思っている。背骨を外し、小骨を避けながら食べる焼き魚で飲むのも悪くはないが、面倒くさくないのはやはりメリットだ。
嚙むほどに、ワタのほろ苦さと青魚の香りが口いっぱいに広がる。それを、レモンの果汁と大根おろしがさっぱりと食べさせてくれる。焼きたての熱さと大根おろしの冷たさのコントラストも面白い。
そして、枡からグラスを持ち上げて、雫が垂れないよう気をつけながらお酒を一口。
食べ方も、味や香りのクセも、決して上品ではないかもしれない。しかし、それがいい。それが日本酒には堪らなく合う。
そんな嘉穂の様子に美月はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「すみませーん、あたしにも嘉穂さんと同じお酒、くださーい!」
いきなり下の名前で自分のことを言われ、嘉穂は少し戸惑ったが、イヤな馴れ馴れしさはない。そう感じさせないのは美月の人徳なのだろうか。
美月の注文に応えて、慣れた店員が伝票の確認もせずに一升瓶と枡とグラスを運んできた。
「確認しなくてもどのお酒かわかるんですか?」
貴美の問いに、三〇代もそろそろ終わるかどうかという歳の店員は笑って、
「そりゃわかるわよ。それ注いだのあたしだもの。それに、片菊さんは毎日のように顔出す常連さんだし、よく飲むお酒の銘柄くらい覚えてますって」
そう言いながら、グラスに日本酒を注いでいく。透明の液体はグラスから溢れ、下の枡までたっぷりと満たした。
「えへへ、あたし、となりの人とか近くの人が飲んだり食べたりしてるものが羨ましくなっちゃうんですよねえ」
美月はそう言って注がれたばかりの日本酒に顔を寄せて一口すすり、嘉穂に「遠慮なく頂きます」と礼をして、嘉穂同様にイワシの丸干しを頭から囓った。
「あーもう、お魚も日本酒も美味しー! 嘉穂さんの真似してよかったぁ」
満面の笑みでそんなふうに言われれば、嘉穂としても嬉しくないわけがない。
「気に入ってもらえてよかったわ。……美月さん」
七瀬と呼ぶか美月と呼ぶか二秒ほど悩んで、嘉穂は言った。向こうが下の名前でこちらのことを言っているのだから、嘉穂もそう呼ばないとバランスが取れないような気がしてしまったのだ。
「そんなぁ、こっちこそ一匹分けて貰っちゃって、ありがとうございます」
頬に右手を添えて、美月はうふふと微笑む。
──こういう仕草や態度をされると、男の人は嬉しいのかもしれないなあ……。
自分はそんなに器用には振る舞えそうにないけど、と自嘲しながら、嘉穂は、
「いえいえ」
と笑みを返した。
「えっと……嘉穂さんも美月さんも、日本酒とかすごいですね。なんか大人って感じで」
貴美が少し言い淀んだのは、おそらく嘉穂同様、下の名前で呼ぶことに迷いがあったからだろう。
「私、今年からお酒が飲めるようになったので、そういうの全然わからなくて、どうしてもこういうジュースみたいな甘いお酒になってしまうんですよね」
見やれば、貴美が飲んでいるのはグレープサワーだった。
「日本酒も先日、会社の先輩に勧められたんですけど、あんまり美味しいと思えなくて」
「別に、いいんじゃない? あたしは、美味しいと思うものを好きに飲むのがお酒の楽しみ方だと思うけどなぁ」
美月の言葉に、嘉穂も「同感」とうなずいた。
「食べ物との相性はあると思うけれど、結局はそれも好みの問題だから」
ふむふむ、と貴美は生真面目にうなずきつつ、
「でも、それって、これには日本酒の相性がいいってことですよね」
と、自分の皿へと移動させたイワシの丸干しをマジマジと見つめた。
「私のお酒でよければ、一口試してみる?」
そう言って、嘉穂は自分のお酒を貴美の方にスッと移動させた。
「えっ、いいんですか?」
「一口くらいならね。私の独断と偏見でよければ、初心者にオススメの日本酒も教えてあげられるけれど」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、勉強させて頂きます」
どこまでも生真面目に、貴美は頭を下げてから、その挙動で少しずり落ちた眼鏡の位置を指で直した。
どうぞ、と嘉穂は自分の日本酒をさらに貴美の方へと押しやった。
「失礼します」
律儀にそう断って、貴美は日本酒のグラスを手に取り、おそるおそる口に運んだ。
「え、これ、水──あっ、あとから味が……。でも、日本酒のイヤな感じがほとんどないっていうか……」
「日本酒にもいろいろあるのよ。それこそ、ピンからキリまでね。きっと、不味いと思ったお酒はあんまりいいお酒じゃなかったのかも。でも、こういうお店で一定以上のお値段の地酒は、どれも美味しいと思うわ。もちろん、銘柄や種類によって味の好みは分かれると思うけれど」
「勉強になります……」
深くうなずいて、貴美は今度はイワシの丸干しを囓った。
「あっ、なるほど……」
何をなるほどと思ったのか、と嘉穂が疑問を抱くと同時に、
「あの、厚かましいんですけど、もう一口、いいですか……?」
貴美は遠慮がちに、上目遣いで嘉穂を見て、日本酒を指さした。
「どうぞ」
笑って、嘉穂がうなずく。
貴美はもう一口日本酒を飲んで、
「嘉穂さんが言う相性って、なんだかわかる気がします。サワーを飲みながら食べるより美味しく感じるっていうか……」
と、日本酒を嘉穂の方へと返した。
「別にサワーが悪いわけじゃないのよ。私もビールやカクテルを飲みたい日だってあるし、ハイボールで通すときもあるわ。要は、気分や料理に合わせて使い分けられたら、お酒もより楽しくなるってことね。お値段だって違うわけだし」
「はい」
「あと、サワーとまではいかないけれど、よく『果物のような香りがする』と表現される日本酒もあるのよ」
「え、でも、日本酒の原料ってお米ですよね? 果物は使ってないんじゃ……」
「吟醸香っていってね、発酵の過程で果物の香りの成分と同じモノが発生するらしいの。不思議よね。吟醸酒とか大吟醸って銘打っているお酒の特徴よ。もちろん、銘柄によって香りの質も強さも違うけれど」
貴美は興味津々という顔で嘉穂の説明に聞き入っている。
そんな二人の様子を温かく見守っていた美月が、突然ポロポロと涙を零して泣き出してしまった。
「え、ちょ、何!? 美月さん、どうしたの?」
嘉穂と貴美はわけもわからないまま、オロオロとするしかない。美月の泣き声に、店内中の視線が集まる。
「うえっう、ふええ、だって、だって、嘉穂さん、優しい、なあって……」
しゃくりあげながら、涙を拭いながら、美月は切れ切れに話す。
「それは私もそう思いますけど、どうしてそれで美月さんが泣き出すんですか……?」
貴美のその問いは、その場にいる全員の気持ちを代弁していたに違いない。
「ご、ごめ、んなさい……。でも、あたしの彼も、嘉穂さんくらい、優しかったら、よかったのになあ、って思ったら……」
──あ、これ、もしかしたら重くて面倒くさい話だ……。
一瞬、嘉穂の脳裏にそんな直感がよぎる。とはいえ、こうして縁ができてしまった以上は、さすがに知らぬふりもできない。
「もう、その彼とは、別れ、たんですけどぉ……次の、彼はもっと酷くてぇ……」
美月の言葉は止まらない。
「まあまあ」
嘉穂は美月の背中を優しくさすった。
「そんなに次々と彼氏って出来るものなんでしょうか……」
そう呟いた貴美の意見には心底同意の嘉穂だったが、美月のこの男好きする感じならありえなくはないだろうな、とも思ってしまうのだった。
それはそれですごいことだし羨ましくもあるが、こうして泣き出してしまうところをみると、モテすぎるのもいいことばかりではないのかもしれない。
「とにかく、せっかくだから飲みましょう? こうして隣り合って知り合ったのも何かの縁だし、愚痴くらいなら付き合うわよ」
「私も、明日の仕事に差し障らないくらいまでなら……。もう少し日本酒の勉強もしたいですし」
「うん……二人とも優しい……。大好き……」
「嘉穂さん、告白されてしまいました」
困惑気味に、貴美がずれてもいない眼鏡の位置を直す。
「そうね」
「もう、二人と結婚したいよう……」
「プロポーズまで」
「貴美さん、酔っ払いの戯言は真に受けちゃダメよ」
「あ、はい」
嘉穂になだめられて、美月の感情もだいぶ落ち着いてきたようで、カウンターの向こうの厳つい店長もホッとした顔をする。注目していた他のお客さんたちも、すでに自分たちの会話やお酒を楽しむことに戻っている。
嘉穂も、店長につられるように苦笑した。
こんなふうに、たまたま居合わせた常連客とひょんなことから仲良くなったり、知り合ったり、盛り上がったりすることがあるのも居酒屋の面白さなのかもしれない。
とにもかくにも、他愛のない肴のシェアから、この三人は知り合うことになった。
あるいは、嘉穂が美月と貴美に懐かれただけ、とも言えるかもしれない。ただそれだけの、ありふれた、けれども少しだけ素敵な出会いがあった夜のひとときだった。
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