第16話

 オールドローズの始まりは白い寝室だった。神聖でもなければ、ローマ的でもなく、ましてや帝国ですらないと、どこぞの思想家に酷評されたとある国の、諸侯の娘。

 オールドローズが、ただのローズであった頃、言ってしまえば彼女は貴族の令嬢だった。

 当時の彼女にとって国は環境でしかなかった。

 だが……オールドローズには朧気な記憶だけれど、ローズは納得していなかったのだ。

 貴族の娘であり、いつか家のために結婚する。自己の存在に違和感を覚えて仕方なかった。

 結婚してもおかしくない年齢で……と言っても現代の価値観と比べれば充分に少女だった……ローズは引きこもって暮らしていた。

 納得できなかった。納得できなかった。言葉にできないけれど納得できなかった。そして納得できないまま、何もせずに一人閉じこもって暮らすことがローズにはできた。

 わざわざ政略的な婚姻が必要な時世ではなかったことも関係しているだろう。腰入れした先に不和しか起こさないと両親に判断されたのかもしれない。家の問題児を幽閉するなど、当時にはありふれたことで。

 ローズは、その時一人、寝室にいた。家族も、女中もいない。白い寝室。ローズは人を従えることがとにかく嫌で、家人すらも遠ざけて暮らしていた。


 その白い寝室でふと夜が覚めた時、窓枠に一人の幼女が座っていることにローズは気づいた。

 年齢一桁代の、本物の幼子だった。真っ黒な絹の服を来た少女は穏やかに名乗った。


「こんばんは」

「―――」


 声が出せなかった。ローズの常識ではありえない出来事だった。けれど、叫ぶという発想すら頭に過らなかった。それぐらいローズは幼女に魅了されていた。


「わたし、カーミラよ。あなたはだぁれ?」

「……ローズ」

「ローズ、ローズ、素敵な名前ね。フフフ」


 幼子は――カーミラは嗤う。未だにオールドローズは名乗ってしまったことを、カーミラを受け入れてしまったことを後悔していた。

 だが数十年先の、八百年先の後悔など知るよしもなく、ローズはカーミラの言葉へ一心に聞き入っていた。


「ねぇローズ。すぐ舐めれば味が濃く、次に舐めれば絶妙で、最後に舐めれば匂いが開く。コーヒーよりも味わい深く、水よりもなお絶妙で、お茶よりも香り高い。そんな飲み物、なんだと思う?」


 なぞかけような、酔ったような内容に、ローズは混乱した。


「……コーヒーって何? お茶って何?」


 ローズの聞いたこともない飲み物だった。当時の、閉じた家の、閉じこもった娘には知りえない嗜好品だ。ただぼんやりと、世界中をカーミラが放浪しているイメージだけがローズの中にはあった。

 カーミラはコーヒーやお茶について言及せず、言いたいことだけを述べた。


「それはね、血よ」

「血?」


 恐ろしい話だ。おぞましい話だ。輸血という概念さえない時代である。生理的な嫌悪感で叫んでもおかしくない。

 だがローズはぼんやりと夢うつつに、カーミラの狂気に耳を傾け続けてしまう。現在のオールドローズは思い返すたびに、過去の自分とカーミラ両方を縊り殺したい。


「血の新鮮さ。味わい深さ。ホロ苦さ。その温かみ。錆びる工程。ああ、私は、この紅い液体を愛している―――。全身に浴びるほどの絶頂を、この紅さは私にくれる」


 未来の、つまり現代の言葉で解釈すれば、ヴァンパイアフィリアの変能、カーミラとはこのような女だった。幼女ではない。女だ。オールドローズを超えて長く生きていることは、この時点で確約している。だが、世界最古の吸血鬼はオールドローズだ。


「だからねぇ、ローズ。私、あなたの血が吸いたいわ」


 どれほど血を吸うのだとしても。


「…………」

「ねぇローズ、永遠が欲しくはなぁい?」


 吸った相手に、永遠を押し付けるのだとしても。


「えい、えん?」

「私にあなたの血を吸わせてくれたら、血を吸う限りの永遠をあげる」


 血を吸う性質を、永遠の生きる鬼に押し付けるのだとしても。カーミラは吸血鬼ではない。変能とは、そういうものではない。永い時を生き、気に入った人の血を啜り、吸血鬼に変える【人間の女】。ひどく幼く、妖艶で、有害な源流へんのう。それがカーミラだ。

 そしてただのローズは。


「だから、ちょうだい」

「うん」


 カーミラの誘惑に屈した。かくして源流にもっとも近い化け物が生まれ出でた。

 それから先は語るべくもない。長く長く時が過ぎ、ローズはオールドローズとなった。

 彼女の前の吸血鬼は一匹残らずいなくなり、彼女の後の吸血鬼はせいぜい英雄気質の一般人に狩られるような雑魚がちょろちょろと現れるだけになった。殺しつくしたのは吸血鬼狩りの変能だった。老いた姿で、容赦なく、喜悦に顔を歪ませながら、有害な吸血鬼を殺して殺して殺して殺して殺しつくして、興奮する。どうしようもない変能だった。

 オールドローズはその吸血鬼狩りの死に目に立ち会った。骨と皮ばかりの老人は、オールドローズを笑った。俺が殺すのは、どうしようもない化け物だけだと。有害で、永遠で、プライドの高い夜の貴族だけだと。

 殺してほしそうな顔をしているが、俺はお前を殺さない。お前の前で、惨めなドラキュリーナの前で、ただの人間として死ねるなんて―――絶頂モノだ。そんな最悪な言葉を残して、吸血鬼を殺すことを好む異常性癖の狩人は死んだ。

 伝説の吸血鬼ハンターが変能だったということを知っているのは、オールドローズだけだった。世界の真実を知っているのは、古い古い化け物だけだった。

 吸血鬼という存在は最初から終わりまで、変能に振り回される哀れな幻想だった。いや吸血鬼だけではない。鬼も神も妖精も妖怪も何もかも。始まりと終わりはそうなのだ。吸血鬼は変能から生まれるのが早く、変能に滅ぼされるのがもっと早かっただけだ。

 死にぞこないの戦場の亡霊、屍喰らいのオールドローズ。恥じ入るほどに赤くなる世界で一番古い薔薇。

 暇をつぶす、それが全ての吸血鬼。

 オールドローズは哀れで、哀れで、哀れで―――。


「哀れなドラキュリーナだ」


 オールドローズの自虐に、聡は首を振った。


「それが駄目なら僕だって駄目さ。頭の良さに加えて、女の子に優しいイケメンだからね。お前にとって、僕は駄目な人間か?」


 聡の奇妙な言葉をオールドローズは否定する。


「いいや? 断じて違う。お前は素晴らしい、私の主だ」


 怯えている。竦んでいる。調子に乗って、失敗して、心が折れて、でも応援すれば立ち上がる。人間だ。あまりにも人間だ。怯えも竦みもできず、調子に乗ることすらできず、失敗を生む挑戦すらできず、最初から心が折れていて、応援されても哂うだけ。オールドローズなどよりも、何百倍もマシな人間だ。

 だがその人間はオールドローズの嘘くさい、それでも本心の言葉にはにかんだ。


「ならそれが答えなんだろ、僕にとってもお前は素晴らしい従僕だ」

「―――………」


 そう言われるとは思っていなかった。極めて暴力的に、一方的に今夜の騒ぎに巻き込んだ化け物に、聡が素朴な肯定をするとは、思っていなかった。お前の暇を潰してやると、オールドローズに生存本能から叫んだ男は、断言した。


「お前が謗ってるのはお前の長所だ。人を殺さない。それは良いことだ。彷徨うだけ? そりゃ自由ってことだ。自由は間違いなく良いことだ。世界で一番古い薔薇。イカしてるじゃゃないか。死にぞこないの、屍喰らいのオールドローズ。吸血鬼。カッコイイじゃないか!!」

 

 聡はオールドローズの負い目一つ一つを潰していく。


「理由なんかどうでもいい。来歴? 知ったことじゃないね。変能? オリジナル? なんだよそれ、どーでもいいね。前は、そんな悪いもんじゃないよ。少なくとも、僕のモノに相応しいさ!」


 オールドローズは……オールドローズの声を発していた真っ赤な蝙蝠は聡の胸にひしりと捕まった。頭を聡の胸にこすりつけて、オールドローズの声は再び発せられる。


「……ならば、どうする。お前は、私に、何を命じる。ありふれた、典型的な吸血鬼に」


 いっぱいいっぱいの声だった。聡は歪んだ笑みを浮かべた。


「あの執事、今度という今度こそとっ捕まえろ。そんでもって、縛り上げてこの女の子の前に跪かせろ。それが僕の命令だ」


 常盤しずねとオールドローズ、そして聡は、みな道化だ。道化には道化の意地がある。

 それにオールドローズが、変能オリジナルを打ち倒し、変能に振り回された道化を救うことができたなら、それはオールドローズにとっても救いになりえる。

 無敵の赤い夜は、心の奥底から返答した。


「ヤヴォール! くくっ……戯れにはじめた主従関係だったが、これは――――――あ?」


 オールドローズの言葉が止まる。ぞわりと悪寒がその場にいる彼らに襲い掛かったのだ。それと同時に赤蝙蝠の球体の天井部分が弾け飛んだ。


「……悲しみに暮れる妹の気配を感じる!!」


 それと同時に飛び込んだのは異国人の美男子だった。銀縁眼鏡を冷たく光らせ、バサリとマントを広げる。王子様ルックだった。


「う、あ、え? な、なんかすげぇ意味不明な登場なんだけど……また厄ネタか……?」


 聡の怯えはさておいて、目を白黒させるのは常盤しずねだ。ただでさえ自らの忠実な従者だと思っていた男に裏切られ、敵だと思った化け物女とその男はこちらに同情してくる。さらに飛び込んできた異常に、彼女は呆けたような声を出すしかできない。


「う、うん……?」

「常盤の令嬢……いや、しずねさん。話は全て聞かせてもらった。痛ましい話だ。俺もまた、その執事を捕まえる手伝いをしよう」


 王子様ルックの異常者は優雅な一礼をしずねに行った。


「…いや、まずあなた誰です?」


 当然の疑問に、冷たい美貌の男は誠実に答えた。


「俺の名前はルカジャン・ゲイリー。君の兄と思ってくれて構わない」

「……私は一人っ子なのですが……?」


 しずねは自分の顔に触れてみる。妙におかしい。異常者の奇矯な物言いを受けて、意味もなくしずねは赤面している。心は式神と会話していた時と違い、まったくときめいていないのだが。

 ルカ・ジャンゲイリーは、赤蝙蝠で満ち満ちた不気味な空間で、一切の気負いなく優雅に座った。あまりに大胆不敵である。しかし、それが様になり、自然だった。


「なるほど、恋をしていたというのは本当のようだね 兄よりも恋しいと思わせておきながら、妹を悲しませるとは。万死に値し死屍累々、許し難い」


 兄を愛さぬというのなら、他に愛するものがあるということだ。ルカジャンはしずねという妹に同情する。

 ルカジャンの異能は妹の強化だ。支配ではない。言い換えればルカジャンが強化した妹は、ルカジャンの味方になるとは限らないのだ。

 兄よりも大切なものがある場合、ほぼ確実に妹は、そちらの方に味方する。しずねの反応は、魅力的な兄よりも大切な誰かがいるという証だった。

 だがそんなとち狂った兄弟の因果関係などルカジャン以外にはわからない。さしずねが聡だけではなく、オールドローズも雰囲気というよりも世界観ごとぶち壊してくるようなこの妙な男に鼻白んでいた。彼女にしては幾分珍しく、言葉に窮するという事態に陥っている。


「……お前……変能か?」

「当然、まさしく、




「……………………あ?」


 ドカン! と赤い蝙蝠で構成されていた球体が庭園に落ちた。


「うわっ!」

「きゃっ!」


 聡としずねの叫び。そして真っ赤な蝙蝠たちは散開し、再び一か所に集まって、オールドローズの形を作った。


「………ルカジャン、撤回しろ。不愉快だ。私を、変能と同じにするな」

「同じにするなと言われてもな……」


 しずねと話していた時とは打って変わって、無関心な様子だった。鬼気迫るオールドローズに、冷淡に告げる。


「この人形ミクロコスモスの参加資格は変能・・であることだぞ? お前にパーツが届けられたということは、そういうことなのだろう」

「嘘だ。嘘だ。嘘だ」

「そもそも変能同士は、しっかりと相対すれば変能どうるいがわかるしな。オールドローズもわかったんじゃないか?」

「――――」


 わかる。オールドローズには変能かどうかが理解できる。固さという、うまく言語化できない感覚で、彼女は変能を見抜いていた。しっかり相対して、はじめて変能だと理解できるという特徴も共通だった。


「嘘、だろう!?」

「兄を嘘吐き呼ばわりすべきではない。妹の手本である兄は妹だけには誠実なのだから。いや貴様のような八百十四年と三カ月三日目経ってるような奴は妹ではないが、嘘は吐いていない」


 この期に及んでとち狂った言動をするルカジャンだった。だがオールドローズはそれどころではない。足元から自我が崩れていくような、絶望的な真実に狂いそうだった。


「おい! オールドローズ! 落ち着け!!」

「ああああああぁぁぁぁぁ……ぁ……あ、ああ、大丈夫、だ。落ち着いた。お前の命令で、落ち着いたぞ。私は。私はお前の従僕だからな……」


 オールドローズは弱弱しく聡を見る。聡は険しい表情でルカジャンを睨みつけた。


「おい、お前、詳しく―――!!」

「その時間はない!」


 ルカジャンは聡の言を力強く遮った。そして庭園の向こう側を指差す。


「……さぁて、来るぞ、罪人が、いや、全部のパーツが揃うぞ。全部の参加者が揃うぞ」

「……式神ッ!!」


 包帯まみれの執事が、先導するようにして、みなが突っ込んでくるのがルカジャン達には見えた。彼らが着地したのはパーティ会場として使われていた庭園部分だった。

 しずねは……裏切られたはずの彼女は、式神の傷だらけの姿を見て、悲痛な声をあげた。


「行ってこいしずねさん、言いたいことがあるのだろう。そしてできれば俺のところに戻ってきて俺を兄と呼んでくれ、強制はしないが」

「う……うん」


 しずねはこわごわと、巨大な狼と多種多様な動物の銅像に追いかけられている式神たちの方向へ向かう。

 聡は唇を震わせているオールドローズの肩を叩きながら、思考を巡らせる。ルカジャンに、オールドローズの変能とは? と尋問する時間はない。迫ってくるのはクソ執事含め一筋縄ではいかなさそうな奴ら、そもそもルカジャンと味方というわけでもない。

 複雑で面倒な盤面を俯瞰して、ついでに自分を従僕の当然の仕事として鼓舞し続けていたオールドローズを思い返し、聡は口を開いた。


「ルカジャンとあいつらでパーツが揃ってるってことだよな? あの執事に借りを返すことはもちろんだが……もしかしてこれ、ワンチャンある?」

「んむ……」


 オールドローズは心ここにあらずと言った様子で同意する。聡はルカジャンへ話を振った。


「……おい、狂人。あの執事と愉快な奴らを倒すところまで協力してやる。んでもって最後はお前が僕に人形ミクロコスモスのパーツを献上しろ。それができなきゃ一騎打ちでオールドローズに殺されに来い。乗るか?」

「乗る」


 ルカジャンは即答した。悪い取引ではない。戦力比一:四はルカジャンにとっても面倒だ。妹たちに無理をさせ続けるよりもオールドローズに暴れまわってもらった方か心情としても得だった。


「聡?」


 オールドローズは傍らに立つ聡を見上げた。


「……さっきも言ったけどな。変能なんてどーでもいいんだよ。カッコイイのは吸血鬼、オールドローズだ。お前は使える。僕はそれを知っている。それでいい」

「………んむ」


 オールドローズはこくりと頷いた。不敵で無敵な赤い夜らしからぬ純朴さに聡は調子を狂わせる。オールドローズの主は勢い任せで喋った。


「だから、あのクソ執事に意趣返しするのもできないほど無能なんて絶対にない。執事潰れるのを待つなんて悪手うってられるか。全部潰して勝利してこい」

「……」

「鬱憤溜まってんだろ? ……全部ぶっ放してこい。二度は言わんぞ」


 結局のところ、鬱憤だ。オールドローズは八百年前から鬱憤が溜まり続けている。


「……ハ」


 オールドローズは、哂った。


「ハハハハハッハハハハハ―――アーッハッハッハ!! 良いぞ良いぞ最高だ! 主の命令受け取った!! 嗚呼、こんなに昂ぶるのはハジメテだ――」


 狂乱する。古き薔薇は乱舞する。乱れ花の吸血鬼は傅くこうべから湧き上がる己の性のままに叫んだ。


「愛のままに! 我が主の意のままに!!」


 そうして、赤い魔性は跳び出した。行く先は決まっている。乱痴気騒ぎの庭園の、追われる彼らを迎え撃つのだ。

 パーティ会場の庭園に残されたのは黒幕と聡。


「「……愛?」」


 聡とルカジャンは勢いで吸血鬼が漏らした一言を再生するように呟き、不思議そうに首を傾げたのであった。

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