第11話

「あ?」


オールドローズのドスの利いた声もなんのその、式神は調子良く罵倒を並べ立てる。


「あれだけわたくしが戦えない理屈をドヤ顔で語っておいて! 全然違うっていうね!いやー、恥ずかしい! これは恥ずかしい!! あんだけこの吸血鬼に偉そうにしてて! それですか! ちゃんちゃらおかしいですね!! あ、もしかして職業道化さんですか? それとも芸人?」


津波のように浴びせかけられる悪意の洪水に聡は鼻白む。


「な、なんだよ……うるせぇよ! お前にそんなこと言われる筋合いな……ゴフッ……え……?」


聡の視界が歪み、真っ白に染まっていく。歯が自然にガチ……ガチ……とかみ合い、ぐらりと、彼はホテルの床に倒れた。


「……なっ!?」


吸血鬼はその現象に驚いた。なんの力も、動作も感じなかった。変能とはかくも非常識。吸血鬼の鋭利に研ぎ澄まされた感覚ですら、聡がただ倒れたとしか思えなかった。そしてこれで手を緩めるほど式神という執事は甘くない。


「わたくしのお嬢様への愛を侮辱した、罪人め。『主も守れぬ哀れなドラキュリーナ』のまま、《負けて、朽ちろ》」


まるで幽鬼のごとく、一瞬して吸血鬼の眼前に執事が――式神が現れた。白手袋に包まれた手には拳銃が握られている。

オールドローズは、その拳銃を払いのけ、愚かにも吸血鬼に近づいた執事を屈服させようとした。何をしたかは知らないが、変能とはいえただの人間。怪物であるオールドローズの膂力には千切れ飛ぶのみ――。

しかし、攻撃さえ不可能だった。彼女はかくりと、首を後ろに倒した。目はうつろになり、口は半開きになる。それは、額を自ら銃口に捧げるようで――、その一瞬だけで、式神が弾丸を撃つには十分だった。

乾いた衝撃音とともに、オールドローズの頭の後ろから血しぶきが飛び散る。ドサリと、真っ赤で小さな少女は倒れた。

執事はいたって平静に、少女の服を手早く検査した。すぐさま人形(ミクロコスモス)の右足パーツを奪い去ると、式神は内ポケットに小さなそれを入れる。これで左腕と右足が揃った。

式神はオールドローズが動き出す前に、踵を返してレストラン内に戻った。

急ぐ執事はテーブルを力任せにひっくり返す。テーブル下に仕込んでいたのは、いざという時の脱出手段。

それはバイクだった。式神はぼんやりとした顔で呆けているしずねを抱え上げてバイクの座席に座らせる。

そして彼はぴくっと眉を跳ね上げてレストラン奥のキッチンから表へ出てきた彼へ話しかけた。


「田中さん、一緒にお逃げになられますか?」


一人の男だった。老年の執事だった。裏方に回り、常盤しずねやSP達に給仕を行っていた田中は真顔で告げる。


「いいえ、老骨に二輪は堪えますからな。をお任せします………」


その表情は無念に満ちていた。恨みと諦観と悲しみを深い皺と共に混ぜ込んだような老執事へ、式神は優しく微笑む。


「任されました」


常盤しずねのの頼みに式神は頷いた。物腰柔らかな式神に田中は眉をひそめる。


「式神、一つだけ約束してください。決して、決してしずねお嬢様を傷つけることのないように――」

「約束します」


祈るような田中の言葉へ式神は即答すると老執事の目と鼻の先で思いっきり指を鳴らした。


「―――」

「《人形ミクロコスモスを忘れてください》」


茫然自失の老執事田中は何の変化もしない。そして田中が我を取り戻した時、式神は片手で田中の顔面を掴んだ。あまりの暴挙に再び田中は精神的ショックを受け、心を吹き飛ばされる。空白の意識に畳み掛けるように式神は田中へ命じた。


「《人形という概念を忘れてください》」


すると田中は目を開いて、手足指先から銅像と化していく。老執事は我を取り戻すがもう遅い。凄まじい速度で浸食する銅像化現象はごく短時間で彼の全身まで広がった。


「し、しき、がみ……あなたには、必ず……因果応報が……ああ、お嬢様が……お可哀想……」


田中は予想通り、銅像と化した。式神は恨み言を吐かれたことも忘れて、目の前で起きた現象を分析する。彼は非情な、サディストの、変能である。


「人形という概念を強く意識しているかどうかで銅像となるかならないかが決まってるんですね。ファジーなルールでございます……しまったな。オールドローズをこれで無力化できましたのに。つくづく運が悪い……」


あと少し時間があれば、この実験さえ済ませていればてオールドローズを銅像に変えられたというのに。だが仕方あるまい。もしも《人形ミクロコスモスを忘れろ》という命令をぶっつけ本番で下していれば、効かなかった。つまり、次の正しい命令を入れる前の、一瞬の正気の間に式神は始末されていた。化け物に、その時間の隙間は充分過ぎる。だから式神は間違えていない。知りえる範囲では、あの手順が最善だった。

ただ、ひたすらに式神にとっては巡り合わせが悪かっただけなのだ。

式神はぶつぶつ呟きながらバイクにまたがりエンジンを入れた。しずねを前面に置き、胸に抱えるようにハンドルを掴む。


「しずね様、しずね様、捕まってください」

「……は、はい。式神?」


しずねは寝起きに頼まれたような心もとない動作で、式神の腕を掴んだ。


「襲われたので、逃げます」

「……えっ!?」


しずねが状況を把握する前にバイクは猛スピードで発進し、レストランの扉を吹き飛ばす。ついでにオールドローズを盛大に轢きつつ、廊下を爆速で進む。


「あー、これはだいぶまずいと存じます……」

「しき、しきが、み? ひ、人を、人を殺して……っ!」


オールドローズを盛大にバイクで轢いたのを見て、しずねは声を詰まらせる。式神は風で髪をたなびかせながら微笑した。


「……死んでないですよ。木の杭も銀の弾丸も用意してないから逃げるしかないのです」

「なにを言ってるんですか? それじゃまるで……本当に吸血鬼を相手にしてるようじゃないですか……! 本当の化け物なんているわけがありません!」


しずねはオールドローズが暴れる場面も、SP達が一蹴される場面も見ていないため、吸血鬼の存在を未だ知らなかった。彼女はあくまで表社会の富豪の娘である。裏社会の、特に伝説的怪物のことなど当然のように把握していない。

そしてこれから知ることになる。


「ふーむ、でしたらしずね様、どうぞ後ろをご覧ください。論より証拠でございます」


後ろからブォーンという音が響いてきた。走り屋など目ではない重厚さは一種の殺意を伴って低く轟く。まるで廊下からホテル中を揺らしているような爆音だった。

しずねは恐ろしく嫌な予感がした。


時は少し戻り、式神に脳天を撃ち抜かれ、バイクに轢かれた吸血鬼は目を覚ました。覚醒した瞬間、治りが鈍くなっていた肉体は伝説的吸血鬼に相応しく即座に回復する。

彼女は床へ手をつくことなく、冗談のように一瞬で起き上がり、両足でしっかりと立つ。そして額から流れる血を撫でた。


「……あんのクソ従者サーヴァント……」


オールドローズは口をもごもごさせると、忌々しそうに金属の塊を吐き出した。それは銃弾だった。甲高い音を立てて銃弾はホテルの床に転がり、自然に止まる。吸血鬼は吐き出した銃弾を右足で粉砕し、踏みにじる。舐めた真似をしてくれる。

そして荒々しい歩みで横たわっている聡の傍へ近寄った。


「起きろ主、五秒で起きないと食い殺すぞ。はい五ォー一ィー……ゼ」

「やめろぉぉぉぉぉ!! 数えんの横着して殺すんじゃねぇ!!」


聡は勢いよく起き上がり、オールドローズへ向かって叫ぶ。大嫌いな変能にしてやられ、怒り心頭だったオールドローズは聡の愉快な言動によって少し気分が和らぐ。


「よし、大丈夫そうだな。……さて、どうする? パーツを奪われてしまった。しかもまさにあの執事は逃げている……。追うか? それとも態勢を立て直すか?」


吸血鬼が提示する選択肢に、聡は涙目になって吐き捨てる。


「……クソ! もう勝手にしろ! なんだよ全然僕のこと守れてねーじゃねーか!! わけわかんねーよ、あの変な男もお前もぉ!」


そのある意味幼稚な叫びに、オールドローズは茶化すように、されど決して馬鹿にすることなく笑った。


「なんだ聡、もしやあの執事の言うことを気にしているのか? だとしたら、実に見当違いだ……お前は決して無能などではない。むしろ、実に優秀だ」

「あ、ああ……?」


半狂乱な聡は戸惑う。相も変わらず化け物が吐くとは思えない、甘い言葉だ。ここまでいいように敵にやられておいて、なお暖かい言葉だ。

戸惑ったことで冷静さと正気が戻ってきた主にオールドローズは囁く。


「なんだ、疑っているのか? 私は本心から言っているぞ。お前は化け物わたしを振るうに値する。お前は間違ってなどいない――間違っているとしたら、致命的にあの執事だ」


「……ほん、とうか?」


縋るように、まるで幼子か壊れ物に手を伸ばすような、繊細な様子で聡はオールドローズへ聞き返す。本当に、聡はまだ終わっていないのか。オールドローズを信じていいのか。あの邪悪な執事を倒すことができるのか。

オールドローズは滑らかに答えた。


「本当だ。その上で考えろ我が主。さぁ、あの間違っている執事に――クソッタレのオリジナルに、変能に、この私を使ってどうやって一泡吹かす? お前なら、できるはずだ」


オールドローズは知っている。戯れに主にした聡という男は追い詰められた時に輝く男だと。ではそんな男の機嫌をとってとりまくり、調子に乗らせればどうなるのだろう? 式神の罵倒通り、無能になる? それとも……。


「は、はは……はははは! 僕が優秀なんてぇ! 言われなくてもわかってるさ!! そこまで言うんだったら、とびっきり屈辱的なことやってやろうか! いいか、よく聞けよ……!」




式神の後ろから迫るのはまさしくモンスターバイクだった。錆びついた血の色をした人外のパーツで構成された二輪車が、執事としずねを後ろから食い殺そうと猛然と走る。バイクには血肉で五体を作ったグロテスクな人型のナニカが跨っていた。

式神の脇下から後ろのモンスターバイクを見て、唖然とするしずね。意味がわからない。ホテルの中にバイクを持ち込むような常識外の考えをする奴が式神の他にいる? 冗談にもほどがある。

対して式神は冷静に述べた。


「ありゃりゃ……駐車場にあっただろうバイクを盗んで……ふむ、オールドローズが取り込んだのでしょうね」


ホテルの中にないのならば、外へ取ってくれば良いのだ。吸血鬼とその主は、ホテルの駐車場にあったバイクを奪った――。いや吸血鬼の能力を使ってバイクを強化・支配したのだろう。血肉を使って飾り付け、追いついて殺す。力任せだ。吸血鬼に相応しい。

気の抜けた分析と共に、拳銃の銃弾で後ろのバイクを打ち込む式神。一発、二発、三発……すぐにトリガーを引いてもカチリカチリと音が鳴るばかりで弾が出なくなった。


「……駄目ですね、当たりません、さすがにこんな動きまくってる状況じゃ無理です」


運転しながら片手を離し、拳銃で移動する物体を狙えるほど式神の狙撃技術は優れてはいない。人型のナニカにもバイクにもヒットしなかった。

絶体絶命をのほほんと告げる式神へ、しずねは半狂乱になる。


「いいんですか!? 弾がなくなってますよ! ねぇ! それでいいんですかぁ!?」

「予備の弾はなんであんまよくないですね。よいしょっと」


あははーと困ったように笑いながら、執事は拳銃を後方のバイクへ放り投げた。どうせ常盤の私兵からチョロまかした玩具だ。惜しくはない。

パシリとバイクに乗った人型の何かが拳銃をキャッチした。その姿は、あの女吸血鬼にも、傍にいた男にも似つかない。全身をバイクと同じ赤黒い血の色に染めた大柄なナニカが、手で拳銃を握りつぶした。哂っている。式神としずねは、顔すらないその生き物が哂っているのを直感的に理解した。


「し、式神! 全速前進です! 絶対捕まらないでください!」

「かしこまりました、しずね様」


式神は平静に答え、バイクをより加速させた。バイクのことはよくわからないしずねだが、その速度はまさにレーシングに匹敵するような風を切るようなものだった。


「やれやれ、追いかけられるよりかは追いかける派なんですがね」


式神はバイク側面に留め金で備え付けていた拡声器を手に取り、カチリとスイッチを入れた。曲芸じみた運転が続くが、想定内だ。問題ない。


「わたくしのお嬢様への愛を馬鹿にするだけでは飽き足らず、ついには主とまで離れますかー!! どこまで誇りがないんだ! はっ!わたくしが罰を下さずともとっくに魂が朽ちて腐ってるんですね!この『罪深い哀れな蚊』め!!」


精神的ショックを与えるための罵倒。だが、吸血鬼のバイクは止まらない。それどころか常識を超えてさらに加速し、式神たちに迫る。


(……まったく効かない? もう対策取られたのでしょうか? いや……あの同類とメンタル鋼女が例外であって、わたくしの変能はそう簡単にわかるものでも躱せるものでもな……)


「――どんな手品だろうと」


オールドローズの声がした。後ろからではなく、横から。


「……!?」


窓の外から、化け物が――真紅の吸血鬼が飛び込んできた。


「タネがわかれば児戯と同じだ」


ガラスが飛び散り、オールドローズが迫る。


「ちぃっ! 防御態勢!!」


 その叫びとともに真横から垂直に降ってきたオールドローズが、バイク側面に突き刺さった。バイクが吹き飛ぶ。式神はハンドルから手を離し、拡声器を放り投げる。そして両手でしずねを胸に抱きかかえると受け身を取りながら廊下へ落下。ゴロゴロと床を転がり、強かに背中から壁へ身体を打ち付けた。


「ぐっ……」


 衝撃で苦悶の声を漏らす式神は壁へ背を預けて、襲ってきた怪物を見据える。オールドローズが両手を広げて、心底愉快そうに哂っていた。


「声が……いや、”罵倒”がトリガーか。ハハハ、愉快な変能だ。面白いぞ」


 式神の視線の先、バイクをスクラップに変えた吸血鬼が近づいてくる。


「し、式神……」


 執事の腕の中で、常盤しずねは涙目で震えていた。目を回しているようだが、身体には傷一つつけていない。庇ったのだから当然だ。彼はしずねをちらりと見ながら、周囲を観察しはじめた。


(逃げ道は……ちょっと難しいですかね、態勢が悪い。すぐに動けそうもありません)


 背中から壁へ激突したせいで、かなり息が苦しい。保護すべきしずねもいる。階段からは距離が遠すぎる。身体能力のごり押しで逃走は不可能。


「あーあー、吸血鬼殿ー?」


 状況を変えるための式神の呼びかけにオールドローズは亀裂ような笑みを浮かべる。


「ああ、すまんな執事、耳は潰したからもうお前が何言ってるかわからん。―――だが会話など必要ないだろう? ん?」


 言葉の通りオールドローズの耳は痛々しく引きちぎられていた。彼女には式神が口をパクパク動かしているようにしか見えていない。


「―――そうだな」


 さらに、モンスターバイクに乗っていた人型のナニカも床に降り立っていた。ぼとり、ぼとりと身体についているグロテスクな塊が落ちていく。その下には……汗と涙と鼻水とよだれをだらだらと垂らし震えている聡がいた。ナニカの正体は聡だった。


「くっそ、はやすぎんだよ!こえぇぇよ!! 息し辛いしよぉ!!」


 袖口で乱暴に顔を拭い、涙声で文句を垂らしている。聡の耳の部分には赤黒い肉片がついたままだった。

 オールドローズと聡、二人ともが耳を塞いでいる。


「あっちゃぁ……そういうことですか」

「ぐすっ……何言ってるかわからんが! 残念だったなぁ! お前が罵倒してたのは僕だよ! ぼ、僕が気絶して脱落して、気を抜いた瞬間にオールドローズに襲わせるつもりだったけど。僕は天才だからな! それ以前に、お前のタネなんか見破ってやった! バーカバーカ!! お前の間抜け面を嗤いつつ、外にいるオールドローズに知らせるのは大変だったぜぇ!!」


 半分ヤケになりながら、自分の考えた作戦を自慢する聡。自分が気絶していないことを疑問に思い、執事の罵倒がトリガーということに気付いたのは偶然だったが、その幸運に感謝することはしない。だって自分が勝つのは当たり前で正しいのだから。

 バイクに乗って全身をオールドローズの血肉で覆い、口にオールドローズの“部分”である蝙蝠を備えて通信する。人間と協力する吸血鬼などという夢物語でなければ成し得ないような荒唐無稽な作戦だった。

 オールドローズは不敵に告げる。


「さてと……主の名誉を奪還したところで、パーツをよこせ、サーヴァント。そしてさっさと失せろ。になどなりたくないだろう?」


 オールドローズの意趣返しの台詞。式神は大げさに溜め息を吐いた。


「……はぁぁぁぁぁぁぁ」

「式神……も、もういいから……」

「なんです? しずね様」


 自身の腕の中にいる彼女に尋ねる式神。式神は弱弱しく投げやりな態度だった。


「もう人形ミクロコスモスなんて、いりません。あなたさえいれば私はいいから……ね? もうやめましょう?」


 しずねの瞳から涙が零れ落ちる。


「ふぅぅ……そうでございますか……」


 式神はそう言って諦めたように、口惜しいと身体全体で示しながら。

 袖口から手品のように出した玩具のような銃で、横っ面からしずねの頭を打ち抜いた。


「……はっ!? ――――」

「……あ? ――――」


 罵倒がトリガー? いいや違う勘違いだ。精神的ショックを与えられれば何でもいい。言葉責めは手段の一つに過ぎない。だから別のショック要員として常盤しずねを連れてきたのだ。かくして吸血鬼の青年の心を吹き飛ばし――。


(《人形ミクロコスモスについて忘れろ》――いや駄目ですね。オールドローズの耳は潰れていて彼の耳は塞がっている。となると)


 そのまま式神は滑るように腕を動かし、聡の耳についたオールドローズの血肉を銃で吹き飛ばした。これで聡には式神の声が聞こえる。


「《その吸血鬼に自分の首をねじ切れと言え、そしてそれから目を離すな》」


「……《自分の首をねじ切れ、オールドローズ》」

 

 それで勝負は決着したも同然だった。彼らはその言葉に従い、互いに精神的ショックを与える。自己破壊を命じられ実行したこと、血みどろでグロテスクな首切りを直視すること。強烈だ。しばらくは正気を取り戻せない。式神の変能は自身が与えた精神的ダメージなら、

 変能というものは埒外で、理不尽だ。茫然自失になるということは、理性を失うということである。何も考えられない人間は言われたままにしか行動できない。

 彼の変能の真価はここにある。心が吹き飛んだ人間は、我を取り戻すその短い間だけ、完全に彼の奴隷になる。

 それがただの人間であれば眼前で指を鳴らすだけで、彼の命令は絶対になる。サディスト極まったがゆえの変能。人間の尊厳を破壊し、お手軽にインスタントに洗脳する。

式神彩人は邪悪だった。


 式神は吸血鬼の主従の様子を最後まで見ることなく立ち上がって背を向けて歩き始めた。バイクのエンジン音を高らかに響かせながらホテル中を爆走したのだ。さっさと逃げないと参加者が集まってくる。

 止めを刺すことができないのは痛いが、それは他の誰かがやってくれることを祈ろう。影も踏ませぬように逃げるだけなら容易いのだけが救いだった。

 ただ、この場で最後にひとつだけ、彼は呟いた。


「我が【協力者】常盤しずねさん……お付き合いいただきありがとうございました。謝礼は後で払っておきます……」


 式神はその超人的な身体能力によって、廊下を駆けてその場を去っていった。

 しずねをその場に放置して。



「……オールドローズが、執事にやられましたね。パーツも、奪われました」


 監視カメラに映った一連の事象を見届けて、セキュリティルームのルカジャンは経緯を賢一たちへ伝えた。


「てーことがあの執事が二つパーツを持ってるってことだよな? どこだ? どこに向かってる?」


 賢一は扉越しのルカジャンへ、式神の位置を問い質す。賢一たちは式神と相性が良い。彼を倒してパーツを二つ奪えれば万々歳だ。

 ルカジャンは数々の映像を見回して、式神の現在地を確認する。


「階段を、上へ上へと昇っています……現在四階から五階」

「そうか。あんがとさん。フェリティシア、先回りするぞ!」


 賢一はさっと振り返るとずんずんと歩を進める。地下から地上へ向かう階段を上っていく賢一の果断さに、フェリティシアはやれやれ、と肩をすぼめた。それから彼女はセキュリティルームの扉に向かって別れの挨拶をした。


「それじゃあ、さよなら。ルカジャン。次に会った時は敵だから、よろしくね」

「好きにしろ」


 ルカジャンはにべもなく吐き捨てた。先ほどまでの、つっかえつっかえの敬語とは違う。本心からの言葉のようだった。ある種の傲慢さが滲み出ている、素の態度だった。


「うん、好きにするよ」


 フェリティシアは軽く答えると、階段を上って地下から去っていった。

 再びたった一人の拠点となったセキュリティルーム。ルカジャン・ゲイリーは独り言を何かへ向かって投げかける。


「時刻は十九時五十二分。後八分。幸いになるよう夜の帳を落とそうか。……見守ることが愛ならば、それは全て果たされた。――たちよ、後悔のなきように」


 誰がどのように動き、どれくらいの強さなのかだいたいわかった。変能が不明な物も存在するが、それは充分カバーできる範囲。賢一とフェリティシアに根城がバレてしまった以上、最後まで籠ることはむしろ悪手となった。

 以上の根拠に加えて、あるきっかけの元、彼が動き出すまで、後八分。



 賢一とフェリティシアは地下から一階に上がり、裏手を通り抜けて関係者用の扉の向こう。先頭の賢一が先んじて出たのは、フロントのカウンター裏だった。彼がいる場所は受付なのでホテル正面が一望できる。

 ガラス製の自動ドアに吹き抜けの天井。フロントとはホテルの顔である。パーティ会場と同等程度の華美さだった。

 そしてその華美なフロント、カウンターの向こう側には、彦星くんと、彼が引率する一人の少女、佐々木蛍がいた。

 賢一とフェリティシア、彦星くんと蛍、二組の時間が一瞬、止まる。

 カウンターにいる賢一と、裏手から彦星くんらを視認したフェリティシアは、ルカジャンがあえて彼らについて言及しなかったことを理解する。式神ではない他の参加者と潰し合いをさせるためなのか。それとも着ぐるみ男の変能について説明してやったのだから奴も倒せ、なのか。

 どちらにしても悪辣な行いだった。

 対して彦星くんと蛍は完全無欠に不意打ちだった。

 一階トイレ前の佐々木夫妻を保護しようと幾分か健闘したが、不可能だと結論づけて。ぐずる蛍を必死に宥めて彦星くんはホテルの外に出ようと出入口まで訪れた。ただそれだけで奇縁にも賢一とフェリティシアとばったり出会ってしまったのである。

 しかも地下から来たせいで人形ミクロコスモスパーツの共鳴が起こらず、互いを視界に入れて初めて気づいた体たらくだった。


「あ、あう、あひぉ!?」


 彦星くんは突然の異常事態に奇声をあげた。恐れていたことが起きてしまった。まだダメージも抜けてないのに、保護しなきゃいけない女の子もいるのに、あの執事とまともに二人組と出会ってしまうとは。


「ひ、彦星くん……」


 少女は震える声で彦星くんの手を握る。カバンを持った面長の男と青い目をした外国人の女に対して過剰な怯え方だった。仕方のない話だろう。両親が銅像と化し、他の大人たちも同じく固まってしまい、ひとりぼっちになってしまった少女なのだ。銅像にならず、信頼できるのは彦星くんだけ、という今夜の異常な状況が、彼女の恐怖を煽っている。


「あのお兄さんお姉さんは、怖い人なの?」


 もちろん彦星くんは、彼らは大丈夫、なんて妄言を告げるつもりはない。パーツの共鳴。賢一も、フェリティシアも敵である。オールドローズや式神と同じくどんな悪辣なことをするかわかったものではない。

 だから彦星くんは蛍へ素早く告げた。


「ぼくが突っ込むから外に逃げて、蛍ちゃん」


 ぐちゃぐちゃな口調をしている彦星くんらしからぬ明瞭な指示。その後、彦星くんは蛍から手を離した。茫然としている蛍を置いて、彦星くんはとてとてと賢一たちに向かって駆け足をする。着ぐるみで走るその様は鈍臭くて、コミカルだ。

 賢一は不思議に思う。着ぐるみのままでいることではない。彦星くんが変身能力の持ち主であることは、ルカジャンから聞いてわかっている。


「あ? 着ぐるみヤロー、その女の子――」


 賢一はこの争いの協力者には到底見えない、ただの少女に対して言及しようとして。


「うゆ、うゆ、うゆゆーーーッ!!」


 行動が早かったのは彦星くんだった。彼は身体に残ったダメージも恐怖も全て我慢して、変能を発動した。

 彦星とはわし座の首星アルタイルのことだ。そして、星には数々の名前がある。

 和名、彦星……。


「モォオオオオオオオオ!!!!!」

 中国名、牽牛星。

 彦星くんは全長三メートルほどの巨牛に変身した。


「変身ってそこまでできんのか!?」


 そんな物理的攻撃力の高い変身能力があるなら最初から使っていると思っていた賢一は不意を突かれて驚いた。だが、賢一を責めるのも酷だろう。彦星くんが、強い生き物の化けて戦う機会は、今の今まで一切なかったのだ。式神に奇襲でやられたり逃げたり蛍を怖がらせないために着ぐるみのままでいたり……。特に彦星くんは狙ったわけではないのだが、ある種の伏せ札がうまく嵌り、彼は賢一たちに一杯食わせることに成功した。

 漆黒の巨牛は猛スピードでホテルのカウンターへ体当たりをした。花火を打ち上げたような豪快な破砕。景気良く吹き飛ぶカウンター。


「賢一、引きなさい!」


 フェリティシアが後ろから呼びかける。賢一は目を白黒させて慌てて関係者用扉から裏手へ戻った。後ろへひっくり返りそうになるのをフェリティシアに受け止めてもらい、扉の向こう側にいる化け物じみた漆黒の巨大牛と目が合う。


「冗談だろ」

「冗談でしょ」


 賢一とフェリティシアは同時に呟いた。

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