25。白い部屋から斬新な展開
白い部屋。初めてそこを訪れた時の印象はただそれだけだった。
洋司さんは好きに使えばいいとだけ言い残して出て行ってしまい、私はぽつんと取り残された。
白い部屋。大きさは8畳くらいだろうか、正方形で、キッチンもなければトイレもない。コンセントを挿すやつが一箇所だけにあって、天井には灯りの一つもついていなかった。窓から差し込む光のみがここを明るくしているが、夕方になれば何も見えなくなるだろう。塗られたばかりの白は眩しいけれど、窓は近づいて見ると汚れていた。洋司さんがここを使っていたのだろうか。彼も私と同じように、誰かにこの部屋を与えられたのだろうか。
とりあえず荷物を置いて、先ほど渡された鍵と財布だけを手に買い出しに出かけた。金は十分にあるが、贅沢に使えるほどではない。カセットコンロと多少の食材をカゴに入れ、迷いに迷って水彩絵の具は買わなかった。
ただいまと言うかどうか、悩んだ挙句何も言わずに扉を開けて、買った物や洋司さんにもらったもの、自分の荷物をせっせと解体する。洋司さんは、小さい冷蔵庫と50センチ四方の折りたたみ文机、毛布を一枚くれていた。これだけで今晩は過ごせるだろう。一通り物を並べてから、ようやく電灯を買い忘れたことに気づいた。失敗した。しかしもう外出する気力はない。日はもうすぐ沈むだろうが、今日はこれで我慢しよう。
1日目。最初の朝だ。昨晩はトイレの位置を確認するのを忘れていて、トイレを求めて公園まで走流こととなったため、起きてすぐに便所探しをした。小汚いのがあった。
また、洋司さんから渡された子供ケータイには何の連絡もなかった。仕方がないので、朝からスケッチブックに絵を描いていた。白い部屋の絵を、何枚も何枚も。
2日目。金が心配になったので洋司さんにメールを送ると、稼げと帰ってきた。仕方ないので近所でバイト募集中の店を探して明日から入ることになった。クリーニングショップだそうだ。個人的に世話になる機会も増えるだろう。
昨晩の飯は雑炊で、なかなか美味しかったので今日も一日それを食べては絵を描いた。今度は部屋以外のものも描いた。
5日目。今日は昨日の下書きに色をつけていった。鞄のシワシワの赤が徐々に立体的になっていく様を見るのは面白い。絵を描いている間は、自分が自分でないような気がする。まるで筆を持った神様が、俺の手を通じて絵を作っているみたいだ。最後に多少の影をつけて鞄の絵は完成した。心地が良かった。
8日目。昨日食べた雑炊が悪かったのだろう。腹が痛い。これ以上言うことは何もない。今も床に転がったまま記録している。
10日目。スケッチブックに絵を描くのに飽きてきた。最近は特に外出もせずにずっと同じことをしていた。あまりに暇だったので、白い壁にガを描いてみた。小学生の頃は、この真っ白なガが好きだった。我ながら良い出来のガになった。
14日目。もう嫌だ。スケッチブックを見るのはしんどい。絵を描かずに、一日中寝そべっていた。バイトには遅刻した。
15日目。朝目覚めると目にガが飛び込んできて、バッタのように跳ね起きた。よく見ればこの間自分が壁に描いたガだった。俺はその時の閃きにまかせて、壁一面に白いガを描いた。鉛筆をカリカリとなすりつけて、壁の半面だけ完成した。
19日目。描き疲れて眠っていたらしい。気づくと部屋の半分はガで埋まっていた。あとは扉周りと天井と床だけだ。飯を食って多少休憩したら、また作業を始めたい。
23日目。やった!ようやく全ての壁をガで埋め尽くした!このために鉛筆が何本おじゃんになったかわからない。消しゴムもかなりの量を消費した。達成感で満たされていて、幸福な気持ちで眠りについた。
30日目。バイト先で美術館のチケットを貰ったので行ったところ、洋司さんに次ぐ一生に一度の出会いを果たした。ある画家の作品だった。俺はその絵に強い憎しみを覚えた。それが嫉妬だと気づくと、俺は隠しカメラでその絵を写真に収め、美術館を出てしまった。帰ってからはそれの模写ばかりしていた。
40日目。あの人の絵ばかり描いている俺を、バイト先の店長が案じてくれた。彼には絵に心を乱されておかしくなった弟がいるらしい。俺はそのクリーニング屋のバイトを辞めた。新しいところはまた今度見つけよう。
49日目。金がそこをついて、もう数日何も食べていない。それでも描くことをやめられない。焦りが指先から筆先へ、指先から心臓へと広がるのだ。獣のように手を動かし続ける。もう誰にも止められない。
53日目。医者は言った。「腱鞘炎ですね」数週間は何も描いてはいけないらしい。ギプスの巻き方だけ上手くなっていく。
72日目。また散歩に出かけた。新しいバイト先はようやく慣れてきた。前のところとそんなには変わらない。もしかしたらそこにも、絵を描いて頭がおかしくなった弟がいる店員がいるのかもしれない。
75日目。包帯を取った。絵を描きたいとは思わなかった。依然洋司さんからの連絡はない。俺は本当にあの人に師事しているのだろうか?厄介払いされているわけではないのか?床に寝転がったら虫たちと目が合ってゾッとした。これを描いたのが俺だと思うと嫌気がさす。
79日目。最近はとにかく暇だからバイト漬けの日々を送っている。どうして俺はこんな白い部屋に生きているのかわからない。この生活をいつまで続けるのか、どうしてこんなことをしているのか。ずっと買っていなかった電灯を、今日ようやく購入した。
81日目。バイト先が潰れた。バイトがなくて暇だった。新しいバイト先を探す気力は、その時の俺にはなかった。ただただ疲れて、一日中毛布にくるまっていた。まだ買っていない敷布団や枕も、そろそろ購入したいと思ったが、金がない。書き溜めた絵が売れないかと画策した。
89日目。絵は売れなかった。単純に、興味を持ってもらえなかった。
96日目。バイトに疲れて帰って、偶然壁のガと目が合った。悪戯心で黒く染めてみた。イマイチだった。彫刻刀でそこを削ると、赤い絵具が見えた。薄く層状になっているようだった。この部屋は、画家を志す者たちが描いては白く塗り重ねてきた白い部屋なのだと、この時初めて理解した。
100日目。今日も壁に色を載せた。今度はいろんな画材を使う。下書きもせずに、水彩絵の具を乗せた。味噌汁を溢して汚くなった。今度は味噌で絵を描いた。いい感じだった。
131日目。先日黒く染めた部屋を、今日は真っ白に塗り直した。最近はこればかりしている。あとは雑炊を作るくらいだ。バイト先では肖像画を描いてほしいと頼まれ、納品は日曜日。今ならなんでも描ける気がする。
157日目。まただ。あの日初めて足を踏み入れた時と同じ白い部屋。何度も繰り返す白壁。もっと新しいものが見たい。
188日目。財布を叩いて作った作品「部屋」が完成し、思った以上に人が見にきた。立体造形をするのは初めてだったが、その割には評判がいいように思う。嬉しかった。
223日目。面白くない、と受け入れられなかった。収入源が途絶えた。俺は画家にはなれなかった。久々にバイト募集のチラシを漁った。
365日目。壁は元どおりの白に塗り直された。俺はスケッチブックと多少の画材と荷物を持って、部屋を出た。
225日目。見渡す限り白壁。鉛筆を滑らせてガを描いた。俺の原点だったものだ。そうだ。小学生だった俺は、楽しいから絵を描いていた。金のためや生活のためではなかった。
226日目。白壁をガで埋め尽くして2日目。誰にも見せる気のない絵を描くことが、こんなに気楽だとは思わなかった。壁はどんどん線が増えていき、俺の腕は黒くなっていく。腱鞘炎にだけ気をつけながら、ひたすらに手を動かした。
239日目。ガの住まう森にいるような気分だ。ラップをマジックで緑に塗って壁に貼り、森っぽくして遊んでみた。子供の頃に戻ったみたいだ。
246日目。食事も芸術であることに気づいた。今日は人参をハート型にでも切ってやろうとして、下手なハートが2つだけできた。小学生の頃、絵日記に銅像と黒円を描いてゴキブリだと言い張った時のことを思い出した。
285日目。部屋をアレンジしてアレンジしてアレンジして、その度ごとに部屋をスケッチしたのをある人に見せたところ、とても喜んでもらえた。これを展示しないかと提案してもらい、迷ったが展示してもらうことにした。
297日目。あの人から連絡が来た。俺の絵はそれといって評価されていないようだ。しかし電話越しに聞こえる彼の声は、本心から俺の絵を好いてくれているようだった。これだけでも心が暖かくなった。
340日目。ようやく決心がついて、俺は洋司さんに自分から電話を入れた。洋司さんは俺の頼みを聞き、驚くことなく承諾してくれた。長いことお世話になったお礼を言うと、こちらこそと言われた。もしかしたら彼は俺のことをひっそりと、芸術的観点から観察していたのかもしれない。そういえば子供携帯を持っているから居場所はバレバレだったことに、今更気づいた。でも、悪い気はしなかった。
360日目。長く書いた日記をどうしようかと考え、悩んだ末に次の持ち主に渡すことにした。場所は白壁の中がいい。彫刻刀でくり抜いて、ノートを入れられるスペースを設けた。最終日にここにノートを埋め込んで、適当に塗って壁に擬態させよう。この虫だらけの白壁を塗って、部屋を真っ白なキャンバスに戻そう。塗り重ねても塗り重ねても、過去の行いが消えることはない。俺の日々もその前の誰かの日々も全部、壁の下に積み上げられているのだから。
0日目。僕が白い部屋に来て3日目になる。誰かが書いた日記を見つけた。これからは僕が続きを書こうと思う。
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