マダム・コンシェルジュ

 新年にはアパートの管理人に年賀を送るという慣習がある。大したものでなくていい、ちょっと小ぎれいなチョコレートの詰め合わせの箱を持って管理人室のベルを鳴らす。


「今年もよろしくお願いします」

 少し低頭気味に箱を差し出すと、管理人さんは「あらあ」という顔をしつつも、ごく当然のようにプレゼントを受け取る。

「どうもすいませんねえ、今年もよろしくお願いしますね」

 

 機嫌よくドアが閉まると、とりあえず今年は安泰だという気になる。


 管理人に年賀を贈るのは、住民からのボーナスのようなものだ。

 この職業は決して給料の高い仕事ではない。だから以前はチップのような意味で新年に現金を渡す習慣があり、それが今ではささやかなプレゼントに取って代わったという。

 だけどどうもそれだけではなく、管理人(Conciergeコンシェルジュ)という人間が昔から一目置かれる存在だったからのようである。



 鹿島茂先生の『職業別パリ風俗』によると、十九世紀のコンシェルジュはほとんどが年配の女性だった。若い頃は女優志願だったが、夢破れてとりあえず管理人をやってるものの、プライドだけは捨てきれず気位が妙に高い。旦那の方はそんな女房の尻に敷かれてコツコツと内職仕事なんかをやっている。という記述がある。


 今でこそ建物の門はデジタルコードで開くけれど、昔はベルを鳴らし、コンシェルジュが門の手綱を引いて開けてもらう仕組みだった。言ってみれば門番だ。だからこの人がへそを曲げて門を開けてくれないと締め出しを食らう。

 それから郵便物を各世帯に振り分けるのもコンシェルジュの仕事だった。出どころのあやしい恋文や督促状といった知られたくない手紙もこの人が目にすることになるし、機嫌を損ねたら手紙を渡してくれないなどもあったという。

 しかも各家庭の女中とツーカーだったので、家庭内の秘密はもろバレ、それに加えて井戸端会議の拡声器でもあるから、変な噂を立てられたらあっという間に界隈中の知れるところとなる。


 コンシェルジュは地味に住人の秘密を握る恐ろしい存在だったのだ。この人を敵に回したら非常に住みにくいことになったろう。


 そういうわけで新年には「どうか今年も穏便に、お口にチャックでお願いしますよ」という意味も込めて、コンシェルジュへ心づけを贈っていたのである。


 今ではそこまで管理人がプライベートに関与してくることはないが、ゴミ出し、郵便小包の預かり等、日常の中で常にお世話になっているのは確かだ。現代の場合は心づけと同時に日ごろのお礼という意味合いが強いと思う。


 最近ではコンシェルジュという呼び方が差別的であるとして、「ガルディアン(Gardien)」という言葉が使われている。個人的にはコンシェルジュという響きがそんなに差別的だとは思わないが、こういう時代的背景を踏まえて考えるとどうしても身分の低い職業のように聞こえるのだろう。そして実際いまだにそういう認識を持つ層もいると思う。


 前のアパートの管理人さんは未亡人だった。バケツを下げて螺旋階段をモップで黙々と掃除していた。「あなた日本人なの。へーえ」と親近感のある顔で見つめられた。この方はマグレブ系の移民だった。

 カギを忘れてドアを閉めてしまった時に開錠の裏技をこっそりと教えてくれた。母国から買ってきたのだと、とっておきのアラブ菓子を分けてくれた。ご主人が亡くなったときのことをしんみりと聞かせてくれた。

 好きでこの仕事やってる訳じゃないのよ、という疲れた顔の裏に、どこか情を感じる人だった。

 僕の中での絵に描いたようなコンシェルジュはこの女性だ。


 今のアパートの管理人ご夫婦は年齢も若く現代的で、てきぱきとお仕事をされる、ガルディアン、という感じだ。何か問題がある時はこちら相手の方が話がスムーズに進むけど、僕はどこかであの少し気怠そうにモップをかけていた管理人さんを懐かしく思っている。


 今頃は引退されて、お孫さんと遊んでおられるだろうか。


 管理人さんに年賀を持って行くたび、同じように「あらあ」という顔をして嬉しそうに受け取ってくれた、あの未亡人を思い出すのである。




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