影、再び

「どうして私の名前を知ってるの?」

「ああ、やっぱりそうなのですね! 私、ユンの姉なのです。ユンは――ええと覚えてらっしゃると思いますけど、この城に落っこちた竜で――」

「覚えてるわ! もちろん覚えてる! あなた、ユンのお姉さんなのね。名前はなんというの?」

「シーラですわ」

「かわいい名前ね。こんな素敵なお姉さんがいたなんて、会えて嬉しいわ」


 ルチアが笑顔になり、はしゃいでいる。ベルが不愉快そうに、椅子から立ち上がった。


「姫さま。あなたが、我が息子を助けてくださったのですね。お礼を申し上げますわ。わたくしはユンの母親で、名前をベルと申します。わたくしたちは今日、あなたのお父さまにお会いしに来たのです。お父さまとはいつ頃面会できるのでしょう」

「少し時間がかかるわ。お父さまはお忙しいから。でもその間、私が何か相手にならないかしらと思って。突然の竜のお客さまなんてとても珍しいから、話をきいてたちまちここにすっとんできたの」


 シーラはくすくす笑った。明るく、こちらの心をなごませてくれるお姫さまだわ、と好感を持ったのだ。ベルがシーラを睨み、シーラは慌てて笑いを引っ込めた。


 ルチアはベルの表情を気にせず、話を続けた。


「ご用件はなんなのかしら。ずいぶん、急な来訪だけれど」

「息子がいなくなったのですわ。行方不明なのです」

「ユンが!?」


 ルチアが驚いた声を出した。表情が真面目なものになる。ベルはルチアに近づき、言った。


「昨夜から帰ってこないのです。こんなことは初めてなのですよ。そして、ここ最近この城で起きた不審な事件を思い出したのです。塔に近づいて人間の姿になったこと、そしてパーティで謎の影に竜たちが襲われたこと。何か――何かそういったことに、息子も巻き込まれたのではないかと思って」

「それは心配だわね」


 ルチアの表情はより深刻なものとなった。


「ユンはこの城に来ているのではありませんか?」


 ベルが尋ねた。ルチアは首を横に振った。


「いいえ。来ていないわ。というよりも、少なくとも私はユンがここにいるという話を知らない。ひょっとしたら、こっそりと城内にいるのかもしれないけれど、でも――」

「こんなにこの城で異常な出来事が起こっているのに」


 神経質に笑いながら、ベルはさらにルチアに近づいた。ベルは背が高い。ルチアを圧するように、上から見下ろした。


「お姫さまはまだお若いから、城内で何が起きているのかご存じないのでしょう。やっぱり国王陛下にお会いしないと。さあ、父上を呼んできてくださいな、姫さま」

「お母さま……」


 ベルが苛立っているのがわかる。ルチアを困らせたくなくて、シーラはなんとかベルの気持ちを静めたかった。と、その時、外で何やら悲鳴のようなものが聞こえた。そして慌てふためく人間の声。それらが複数になっていく。


「何かあったのかしら」


 ルチアが窓から外を見た。シーラとベルもそれに続いた。窓からは庭が見える。建物の向かいの壁に、何人かの人間が追い詰められているのが見える。彼らを追い詰めているものは何なのか、シーラは目を凝らした。そこには不思議なものがあった。黒い小さな固まり、影のようなもの。それがじわじわと人間たちににじり寄っている。


「――あれは……! パーティに現れた謎の影だわ!」

「あれがそうなのですか?」


 シーラはさらにその黒い固まりをよく見ようとした。生き物とはあまり思えない。けれども動いているから生きているのだろうか。人間の内の一人が、勇気を出して、それを追い払う仕草をした。悲鳴が聞こえたせいか、どこからかこん棒を持った人間が現れ、その影に向かっていくと、影は怯えたように逃げた。


「見て! ここにも!」


 突然、近くでルチアの声がして、シーラは慌ててルチアを見た。ルチアが部屋の一隅を指差している。床と壁の間だ。最初はしみか何かかとシーラは思った。そこには黒い汚れのようなものがあったのだ。けれどもしみではなかった。それは動いていた。窓の外にいた、あの黒い固まりと同じように。


 床と壁の間から、それはもぞもぞとあふれ出し、一つの意思ある丸い影となって、ゆっくりとシーラたちのほうへ這ってきた。シーラは恐ろしく、身体を動かすことができなかった。ルチアも同じように、黙ってただ立っているだけだった。けれどもベルは違った。ベルはつかつかと影へ歩み寄ると、それを思い切り蹴飛ばした。鳴き声のようなものが聞こえて、影は再び、床と壁の間に戻っていった。そして吸い込まれるように、消えた。


 誰も、何も言わなかった。ベルが戻ってくる。その顔は奇妙に落ち着いていた。ようやく、身を動かせるようになったシーラは、不安になってベルを見た。お母さまは何を考えているのだろう。そしてあれはなんなの。あの謎の影は。


 ベルは十分近くまで来て、そしていったん目を伏せた。けれどもすぐに目を上げる。ルビーのように輝く赤い目が、ルチアを見た。


「――そう。これが人間のやり方ですのね」


 ベルは静かにルチアに言った。声は非常に穏やかだが、ルチアを見つめる目はぎらぎらと燃えている。シーラは自分の不安が的中していることを悟った。

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