炎症/延焼

「ごめんね」

 目を閉じる間際、母が震える声でそう言ったのを覚えている。


 次に目に飛び込んできたのは、火の海だった。

 どうしようもなくて、泣き叫んだ。

 そのとき、慌しい足音と、派手な破壊音が響いた。


 八凪早雲、十一歳。その日、帰る家と家族を失った。


 その日のことはよく覚えている。

 燃え盛る家と、降り頻る雨。雨足は強まっても、火は消えなかった。

 駆け付けた祖母が、僕を強く抱き締めて泣いていた。僕も泣いた。

 病院で手当を受けて、涙はすっかり枯れていた。屈強な消防士が抱えて逃げた僕以外、火の中で命を失ったらしい。親父は仕事で多大な借金を抱えてしまって、それで母と一緒に一家心中を図ったらしい。幸い周囲への延焼はなく、賠償云々は問題なかったらしい。

 僕はもう、何も考えられなくなっていた。愛し愛されていた家族に裏切られた。どうして? 死ぬことは無かっただろう。生きていればきっとなんとだってなっただろう。生活が全てじゃないだろう。生きていれば………………。

 …………もう、何も信じられなくなっていた。というより、何が信じられるものなのか見極められない己の目を、何より信じることができなくなった。自分を呪った。家族を呪った。世界を呪った。周りが全て真っ暗闇に思えた。


 櫛名璃久は僕の幼馴染だった。彼は僕に会いに来て、手を握って泣いた。家族ぐるみで仲が良かったからきっと僕の家族が亡くなったのもショックで、それでも「早雲が生きていて良かった」と泣きながら僕の傍でそう言った。

 けれども僕はその心配を信じられなかった。そんな自分がショックだった。大事な大事な友人の、その涙すらも疑う自分が、嫌で嫌で仕方なかった。僕は泣いた。そこでまた、ありったけ泣いた。怒りとやるせなさと苛立ちと、全ての負の感情がいっぺんに涙腺から溢れ出た。そしてふらふらと外へと飛び出した。何処へ向かうわけでもなかった。ただ、最低な自分の居場所は、もうそこにはないと思った。

 千鳥足で目を腫らしながら歩いていたら、燃え滓になった家の前に着いた。そこで、献花を前に手を合わせる人影がいた。その人は僕に気が付いて、会釈をした。その顔に、僕は朧気ながら見覚えがあった。彼は、あのときの消防士である。

「なんで僕だけ助けた」と、そう言って掴みかかったと思う。掴みかかって、自分が最低なことを口走っていることに気がついて、「ごめんなさい」と零した。彼は「本当に申し訳ない」と頭を下げた。最低なことを言った十一歳の僕に向かって。顔を上げた時、彼は涙を目に溜めていた。彼は全員救えなかったことを、本気で悔いていた。

 公園のベンチに座り、二人で話をしていた。彼は昔ヒーローになりたかったという。皆を救うスーパーヒーローに憧れて、けれど現実は非情で、全て救うのは不可能だと悟ったと。「それじゃあどうして」と、僕は聞いた。「どうして分かりきった理想を捨てないんですか」と。これもまた最低な質問だが、彼は堂々と言い切った。

「そこに救える命があるのなら、行かなきゃ後悔するのは俺だ」

「結局自己満じゃん」僕は本当に最低だった。

「そうだ」彼は否定することをしなかった。「自己満、だな」

 でも、と彼は更に言葉を紡いだ。

「でも、一つでも命を繋げば、それだけで救われる人間がいる。全ての人に、もちろん君にだってきっと、君の無事を喜ぶ人がいる」

 刹那、璃久の顔が想起された。

「でも」僕は零した。「分からない。誰の言葉が本当で、誰の涙が本物で、誰がッ、…………今泣いてる僕だって、これが正しい感情かすらも分か」言葉を継いでいる最中、彼は乱雑に僕の頭を撫でた。

「俺だって馬鹿だから、誰が嘘吐きで誰が正しいことを言ってるかなんて分からんよ。俺はお前さんと同じぐらいに亡くした親父のことなんか全然知らん、数十年共に生きてきた弟すらもその心の内は知っちゃいなかった。けど、だから人は話すんだろ。言葉は嘘を吐ける道具だが、ついでに見てくれだけじゃあ分からん心を伝える道具でもあるだろう。

 勿論、全部バカ正直に喋らなくたっていい。隠したいことは隠せばいい。馬鹿な俺みたいに、皆から必要とされるヒーローを目指さなくてもいい。世界全部が信じられないなら、無理に信じる必要はない。

 けど、信じたい人間がいるなら、」

 彼はにっと笑った。

「……手を差し伸べてくれる人がいるのなら、とりあえずその手を掴んでみるってのも、それはそれで悪かないと、俺は思うぜ」

 泣きじゃくる僕から、彼は目を逸らした。優しさが目に染みて、更に涙が出てしまった。


 璃久の家に行って、謝った。

 彼は、どうして謝るのさ、と笑った。

 世界を許せなくても、家族を許せなくても。

 どれだけクソみたいな理不尽の中でだって、一人ぐらい信じてみてもバチは当たらんだろう。

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