水面に揺れるは葦の影

 ……手を伸ばす。

 引出しを開き、一枚の写真を取り出す。

 そこには美しい湾岸が映っていた。

 "RED SEA, EGYPT"

 裏には父の筆跡、流麗たる筆記体でそう書かれている。

 思えば、僕が物を欲しがったのはこの写真が初めてだった、気がする。もちろん物心がついて以降で、生きる上で必要な物を除いた上での話ではあるが。四歳の頃の僕はおもちゃにも関心がなく、かといって貰ったものにはよく食いつくような、そんな不思議な子供だった、らしい。僕はよく覚えていないが、母が懐かしむようにそんなことを言っていた。ひとつきほど前の話である。

 そんな僕が唯一、手を伸ばしたのがこの写真だという。机の上に置かれていたそれを指差して、「きれい」と言って、それからしばらく手を離さなかったという。三日後、帰ってきた父にその話をしたら大層喜んだのだと。これも母の話である。

 手帳を開く。

 “卒業旅行”、三月二十九日の欄にそう書いてある。同行者は誰も居ないし、誰かに会いに行くでもない。ただ、父が僕にくれた一人分の航空券で、異邦の地へと赴くだけの旅。たったそれだけでも、僕にとっては計り知れない価値がある。それは人生を変える程大きなものではないが、僕を確かに前へと進めるのに重要なものだ。







 彼は窓際に腰掛け、月光に背を向ける。

 部屋の奥に向かって影が伸びゆく。

 小さく何かを呟いて、そして月へと翻る。

 彼は「私」を手に入れた。

 空虚な中身は希望に満ちた。

 その首元には、瑠璃唐草が二輪。


 嗚呼、君の往く先に、ただ幸あらんことを願う。

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