第9話…「魔王様の甘ったるい逃走」


 竜とは、強靭な肉体を持ち、底の知れぬ魔力の海を有する存在である。

 その強さは、生者の頂点に君臨するモノ。

 魔物も、魔人も、獣人も、亜人も、人間も、その君臨する力には敵わない。

 地上において、竜に対抗する力を持つとすれば、それは神の加護を受けた天使か…、同じく神の加護を受けし選ばれた人間のみだろう。

 時折、その枠に入っていないモノの中に、竜に匹敵する存在が産まれる時はあるが、それは極限の不確定要素であり、居る…と断定できるモノではない。

 それだけの存在と同等な力を持つ竜を、一部の人間はこう評する。

 天に住まうお方が神だとするなら、竜とは、地上を支配する神の名である…と。



 その一文を見れば、さぞ偉大な存在なのだろう…と思えるが、今の魔王にはそんな様子の欠片も無い。


「はぁはぁはぁ…」


 焦りによる過度な力の入りよう…、必死で動き回ったが故か…、城周辺の森の中、魔王は額から汗を垂れ流しながら、肩で息をし続ける。

 しゃがみ込み、大木に背中を預けながらも、出来る限り息を殺して耳を澄ませた。

 周囲の至る所から、何かが走り抜ける音が聞こえ、息の荒さも届く。

 発情期…、ソレは子孫を残す行為に留まらず、人間ではない魔を持つ故か、自身の血をより強く、より強靭な存在として、後世へ残す本能が強く出るモノ。

 このクレイドルで、最も強い存在と言えば、言わずもがな…竜をその身に持つ者…はたまた竜そのものたる魔王だ。

 本来、異種族同士の交配によって子を成せる確率は、全く無い…という訳ではないが、同種族との交配と比べて極端に少ない。

 しかし、竜種はそうではないのだとか。

 魔王の存在は、だからこその産物なのかもしれないが、竜はその強靭な体を、より強力にするため、あらゆる種の力を取り込めるようになっている…、ソレは交配の面でも例外ではない。

 魔王だって、男である。

 うら若き女性達に言い寄られて、悪い気がするはずもない…が、この場合、言い寄られるのではなく攻め寄られる…と言った方が正しい…、文字通り、相手を殺さんばかりに本気で攻め込まれるのだ。

 数える程しかないが、そう言った場面を逃げ切ってきた魔王は、その光景を思い出す度に、その身を震わせる。

 相手からは、まるで獲物を狩る飢えた獣そのもの…のようなそんな気迫すら感じるのだ。


「・・・まじこわい・・・」


 街で魔王を見ていたのは獣人の娘たち、獣人は、何種の獣人化によってその能力も大きく変化するが、獣人の多くは鼻が利く。

 下手な逃走では逃げる事は出来ないだろう。

 だからこそ、少し遠回りになるとわかっていても、魔王はこの森を通る事を選んだ。

 ここはつい最近まで魔獣が多く生息していた森であり、軍による討伐作戦が行われて数日が経っているにも関わらず、今だに獣の臭いが鼻をチラつく場所だ。

 ここならば、そんな獣の臭いのせいで魔王自身を追うのも困難と言うもの。



『魔王様』

「…~~~~~~ッ!?」


 周囲に注意を向けていたにも関わらず、その声は、すぐ耳元で囁かれ、驚きと恐怖と…、多くの感情が入り混じる叫びとなって、魔王の口からあふれ出す。

 咄嗟に口を手で塞ぎ、遠くまで声が響く事はなかったものの、心臓が破裂寸前までに強く高鳴って、叫びどころか、口から魂そのものが抜け出しそうな…そんな勢いであった。


「…め…メイド長?」


 魔王の横に立っていたのは、メイド長だ。

 昼に見た時と同じメイド服に身を包み、一糸乱れぬ姿で、スッと背を伸ばした姿勢で立っていた。


「なんでここに?」

「魔王様がお城を抜け出した後、城の者達であちこち探していた結果でございます」

「あ…あ…うん…すいません」


 城を抜け出したのは事実、街を出たのはもうすぐ日が傾き始めるであろう頃、そして今は光が消える…日が落ちる直前といった所だ。

 だいぶ長い事、娘達から逃げていたらしい。


「いろんな女子の匂いが周囲に溢れていますが、これは発情特有の匂いですね。魔王様は、発情期であるのをいい事に…こんな所で乙女たちの花を散らしたのですか?」

「そ、そんな事するかッ!」


 さっきの叫び声こそ隠す事ができたが、今度はその声を押さえる事ができずに、こちらに視線を向けているメイド長へと反射的に反論する。

 そんな魔王の様子に、コレと言って驚く様子の無いメイド長は、魔王から目を背けた。


「そうですよね。魔王様にそんな獣のような…本能任せな一面はありません」

「・・・ん~」


 自身を擁護してくれているのか…そうではないのか…、遠回しに馬鹿にされているようにすら感じるソレは、魔王を酷く混乱させた。


「…ッ!」


 魔王とメイド長、反応は同時だった。

 瞬きを許さない程の高速で接近する1つの影、魔王からしてみれば、どうという事はない対処ならいくらでもできるソレに対し、メイドであり、魔王の世話をする者としての仕事魂か…、メイド長は魔王を突き飛ばし、その場から一歩後ろへと動かす…、同時にそこ目掛けて飛んできていた一閃が、メイド長が肌身離さず着けているお面に触れた…が、そんな事気にせず、飛び込んて来た相手の顎目掛け、綺麗なカウンターアッパーカットを入れる。

 飛び込んできた勢いも相まって、ソレ…というか獣人の娘1人だが、地面を転がって気を失った。


「では魔王様、そろそろ帰りましょう」


 人が気絶させておきながら、何食わぬ顔で自身の目的を達成させようとするメイド長。


「い、いやしかしだな…」


 そんな彼女に対し、さすがの魔王も動揺を隠せなかった。

 帰れるものなら帰りたい魔王だが、周りが気になり過ぎるし、そこで倒れている娘も心配過ぎて、帰路へと足を出す事ができない。

 そんな彼の様子にメイド長はため息をつくように肩を落とす。


「大丈夫です。そこの娘は私が連れて行きますし、それに…もう周りに女の子たちはいませんから。もう日が消える頃です、皆家へと帰りましたよ」

「む…むぅ…」


 確かに、先ほどまであった誰かが動き回っている音や、気配はなくなっている。

 どうやら、今襲ってきた娘が最後まで残っていたようだ。


「そ、そうだな。確かに、もう周りに他の子達はいないようだ」


 帰ったと思いたいのが正直なところで、実際は別の場所を探している可能性もある。

 それでも、近くに居ない…という安心感と、気絶した娘を心配する必要がない安心感から、魔王は城への帰路に足を進めた…が、魔王の足が地面を踏み締めるその刹那、足払いを喰らい、勢いよくその体は背中から地面へと叩きつける事となった。


「ぐはッ!?」


 背中も痛いが、後頭部も強打してズキズキと痛みを走らせる。

 魔王が倒れたまま、痛みで頭を抱えた。

 その時、それは馬乗りのように魔王の体に乗った。


「…ッ!?」


 それは他の誰でもないメイド長であり、片手で着けていたお面に触れ、もう片方の手を魔王の胸板に這わせた。


「お…オイッ! な…なにをしてるッ!?」

「何をしているのかと問われれば、ナニをしようと思っていると返すほかありませんね」

「そんな返しは求めてないのだがッ!」

「すいません。この場の匂いに、少々当てられてしまったようで、自分を押さえられそうにありません」

「まじで…」


 そのお面には、いつもならあり得ない傷がついている事に、魔王は気付く。

 ソレが原因と分かったとて、メイド長は、そんな魔王の気も知れず、人前で外す事のないお面を外した。


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