第9話 夷陵

「関羽が孫権に討たれた」

劉備は書簡を地に叩きつけて絞り出すように言った。関羽は益州攻略時と変わらず荊州を守っていたが、魯粛と論議の末南郡の二郡を譲渡する、孫権が持ちかけた婚姻を独断で断るなど、孫権との摩擦が続いていた。また荊州を同じく守備している麋芳と士仁しじんを兵站の失敗を理由に恫喝するなど諸将との仲も悪かった。同輩を軽視しがちなのが関羽の欠点である。そんな中関羽は樊城はんじょうにいる曹仁を攻撃し、援軍の于禁を降し、龐徳ほうとくを斬るなど優勢に戦いを進めていた。漢中王となった劉備から荊州の全権を委任された形の関羽は最初こそ孫権への警戒を怠らなかったものの、呂蒙りょもう陸遜りくそんの策に油断させられ、北伐に全戦力を投入してしまった。上庸に駐屯している劉封と孟達もうたつに援軍を要請したがこれは断られている。天候までも利用した関羽の攻撃に樊城も陥ちるかと思われたが、関羽の後方を呂蒙と陸遜が襲い形勢が変わった。更に援軍として現れた徐晃じょこうが関羽を破り、また孫権が曹操と和議を結んだと告げて回ったため、関羽軍の指揮は低下し輜重も襲われたため撤退せざるをえなくなった。呂蒙と陸遜は公安にいた士仁を降伏させると、南郡を死守する構えを見せていた麋芳を説得させた。また荊州の行政全般に関わっていた潘濬はんしゅんを降伏させると関羽の逃げ場は無くなった。麦城という小城に逃げ込んだ関羽は降伏する振りをして益州へ逃げ込もうとしたが追撃されて斬られた。関平と他に趙累ちょうるいという者も追従していたが関羽と共に討たれた。荊州は陥落した。関羽の首は曹操の元へ送られ、諸侯の礼をもって葬られた。孫権も関羽の遺体を諸侯の礼をもって葬った。

すぐに劉備は報復に出るかと思われ実際軍備を整え始めたのだが、そんな折に上庸で孟達が叛乱を起こして魏の曹操に寝返り、劉封が成都に逃げ帰ってきた。劉備と諸葛亮は、劉封が関羽に援軍を送らなかったことと、次代の劉禅りゅうぜん(阿斗)では劉封を御せないといった理由から死罪とした。劉封の子の劉林りゅうりんは死を免れた。

翌年、魏王であった曹操が死んだという情報が流れてきた。趙雲は曹操と直接の面識は無いものの、一代の英雄であろうと認識しており複雑な気持ちであった。

曹操の跡を継いだ曹丕そうひが漢王朝の皇帝から禅譲を受けて魏を帝国とすると、群臣が漢の皇帝に劉備を推したため劉備は皇帝に即位した。趙雲はやはり複雑であったが、後漢の光武帝のような事業を劉備が成し遂げてくれれば良いと思い直した。その為には魏を敵として倒す必要がある。趙雲は、

「賊は魏であって、孫権ではありません。どうか東征をご再考ください」

と珍しく劉備の方針に口を出した。が、諸葛亮の諫止を既に退けている劉備である。

「済まぬ。大義のためには魏を倒すのが先決であると朕も承知している。だが、関羽の仇はどうしても許しておけぬのだ」

趙雲は退こうとしたが、その時急使が入ってきた。使者は江州の督である。劉備は天を仰いで、

「張飛が死んだ」

と言った。まさしくその通りであった。

張飛は鞭打った部下を身近に置くなど油断があり、よく部下を殺すので憎まれることが多かった。張飛は部下に寝首を掻かれ、犯人は呉へ逃亡した。

劉備の東征を止められる者はいない。趙雲は張飛に代わって江州に入ることとなり、劉備に従うことはできなかった。劉備が意図的に避けたのかもしれない。軍勢は劉備自身が総指揮を取り、黄権、馮習ふうしゅう張南ちょうなん呉班ごはん陳式ちんしょく尚寵しょうちょうなどが従った。趙雲は関羽や張飛ほどの戦歴ある将がいないことを不安に思った。元々劉備軍は劉備か関羽、張飛が指揮を取ることが多かったので、戦歴はあっても指揮下にあった経験しかない将が多いのは確かである。趙雲とて益州の攻略以前は一部隊を率いる隊長と言ってもいい立場であった。例外ではない。

劉備に従った将の中には軍略に明るく、漢中でも功績を上げた黄権がいたが、劉備は彼を魏への備えとして北側へやってしまった。劉備は戦歴は豊富だが曹操や曹仁に負けたことがあるように軍略については遅れを取ることがある。夷陵までの道中は軽快に孫権軍を撃破した劉備軍だが、陸遜の固めた防御に当たって滞陣を余儀なくされた。更に兵の緩みと陣の長さにつけ込まれて火計を仕掛けられ、劉備軍は潰走し、あわや劉備が討ち取られる寸前であった。馮習、張南らは殿軍として劉備を逃すために戦って戦死し、呉班、陳式らは敗残兵と共に永安城へ入った。劉備も孫桓に追われながら永安に逃げ込み事なきを得た。敗報に接する前に趙雲は、

「出る」

と言って兵を集めて江州を出ていた。嫌な予感がしたからであるが、諸葛亮にもいつでも出陣できるようにしてくれと言われていたからである。

夷陵まで行くつもりだった趙雲は道中で敗報に接し、

「永安へ向かうぞ。急げ」

と言って自身は騎兵を率いて駆け出した。佐将の陳到は慌てて歩兵を駆けさせた。趙雲軍は永安の東に陣取り敗残兵の収容と、追撃してくる孫権軍に備えた。

孫桓は新手の敵がいると見るや撤退し、陸遜も、

「趙子龍か」

と言うや撤退を指示した。この軍以外にも孤篤という将が兵を率いて永安に入った。趙雲と陳到は劉備に謁見し、

「陛下が無事で何よりでした」

と敗戦には触れずに言葉を述べた。

「汝らの意見を聞かなかったばかりにこの敗戦だ。死した者達に会わせる顔がない」

劉備はさすがに気落ちしており、ほどなく病になった。諸葛亮や劉備の子達が永安に到着し劉備を見舞った。諸葛亮は、

「法正が生きていれば止められたであろうし、戦っても負けはしなかったはずだ」

と溜息をついた。諸葛亮は漢の丞相であり、政治の最高責任者と言っていい。その諸葛亮がこれまであまり関わりがなかった趙雲の近くで言葉を零したので趙雲は、

「丞相、いなくなった者は仕方ありません。我らは我らにできることをするまででしょう」

と言葉を返した。諸葛亮は苦笑し、

「そうですね。それが私の仕事でした」

と言って歩き去っていった。

変わらず永安に居る劉備は、一年を過ぎた頃に容態が悪化した。枕頭に諸葛亮、劉禅、劉永りゅうえい劉理りゅうりを呼んだ劉備は、丞相を父と思って仕えよと訓示を与え、諸葛亮には劉禅の補佐を頼むと同時に、劉禅が非才であれば諸葛亮が皇帝となれと言い残した。

劉備は永安城で死去した。諡号は昭烈である。蜀漢昭烈皇帝と呼ばれる。

漢は劉禅が新たに皇帝に即位し、丞相である諸葛亮が補佐する体制になった。なんと劉禅は諸葛亮にほぼ全権を委任する形を取った。これには趙雲も楽朋も驚いた。国政においてそうそうあり得ることではない。諸葛亮は劉備の時代にはあまり活躍出来なかった人材を引き上げ、人事を新しくした。諸葛亮は蜀科と言われる法の制定も主に行なっていた。法はきちんと機能している。

孫権との外交は鄧芝とうしを使いとして復交し、漢と孫権は再び同盟関係となった。

「次は南中ですね。丞相は誰をやるのでしょうか」

楽朋が言った。趙雲は成都へ移っていたが自分ではないだろうと思った。

諸葛亮は自ら南征を指揮し、孟獲もうかくらを降して南中を平定して帰還した。

「丞相は軍事にも精通しておられるのでしょうか」

とまた楽朋が声を上げた。趙雲は、

「様々なことを器用にこなす方だな。だが万能というわけではなかろう。丞相が軍事で功績を上げたことはあまりない。北伐に際しては私や魏文長ぎぶんちょう殿に声がかかるのではないかな」

趙雲は既に老将と呼ばれる歳である。楽朋も趙雲より僅かに若いだけである。二人は兵の調練をしながらその時を待った。

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