第8話 益州

劉備達は夏口に落ち着き、劉琦の庇護下に入った。と言っても真相は劉備が劉琦を担いでいるといったものだっただろう。劉琦は大人しく目立ちたがらないため、劉備任せになっているところがある。

趙雲は先の長坂での活躍で、牙門将軍に任命された。今までは騎兵を率いる隊長といった立場だったが正式に将軍職を拝命したのである。副官は勿論楽朋だが、率いる兵も増えるため佐将に陳到が付いた。騎兵ばかりでなく歩兵も率いるため、歩騎の連携や戦い方に関する調練が増えた。関羽や張飛、陳到、麋芳ら諸将と話す機会も増えた。劉備に近侍するのは相変わらずなので陳到に兵を任せられるのも頼もしい。陳到は勇猛ではあるが手堅さも持ち合わせており、趙雲は良将が加わったことを歓迎した。

趙雲は孫軟児のことも忘れてはいない。長男の趙統が生まれたのがいつ頃か定かではないが、長坂での戦いの前後であろうと思われる。耿祗はいわば家宰であり、趙家を取りまとめてくれている。趙雲があまり家のことを気にかけなくて済んでいるのは耿祗と孫軟児のおかげだろう。戦続きの中で生きてついて来てくれるだけでも有り難いのである。そんな趙雲宅に楽朋が訪問し、近況を報せてくれた。

「孫権は本格的に曹操と敵対するようですね。我が軍との同盟を結んで対抗すると宣言したようです」

楽朋は独自に情報を集めている。入る情報は早い。

「我らの軍勢は寡ないので主力は孫家の軍になるだろう。如何ほどかな」

「精鋭がおそらく三万程、多くても五万は超えますまい」

「曹操軍は八十万と聞いた。水戦で勝負をすれば勝てると踏んでいるのかな」

「そうかも知れませんが、あるいは何か策があるのではないでしょうか。帥将は周瑜しゅうゆ、字を公謹こうきんという若い将だと聞きました」

「主力は孫家の兵なら我らは遊軍か。曹操軍の脇腹を突かなければなるまい」

「そうですね。その時は子龍将軍が先鋒でしょう。調練を厳しくしておきますか」

楽朋はそう言って趙家を後にした。

劉備軍と孫権軍合わせて四万程は水陸から曹操軍に対し、周瑜は水戦で三倍以上の曹操軍を破り更に火計を用いて曹操軍の軍船を焼き曹操を敗走させた。関羽と趙雲が追撃したが、曹操には逃げられた。疫病にも悩まされていた曹操軍は江陵に曹仁を残して北方へ撤退し、周瑜率いる孫権軍と劉備軍の連合が曹仁と対峙することとなった。この戦いは一年にも及び、周瑜が矢傷を負うなど難航した。関羽と張飛の兵を周瑜に預けた劉備は江陵より南の長沙、桂陽、零陵、武陵の四郡を平定し、桂陽太守に趙雲を任ずる他、劉琦を荊州刺史として上表した。程なく劉琦が亡くなると諸葛亮らの進言で、劉備が荊州牧となった。

桂陽には元の太守の趙範がいる。この趙範は同姓の誼という理由で未亡人だった兄嫁の樊氏を趙雲に薦めてきた。縁談である。この時代側室を持つことは悪いことではなく、戦乱の中で家族が全滅することもありえるのであれば悪い話ではない。しかし趙雲は、趙範が心服していないので必ず悪さをすると劉備に言って縁談を断った。果たして趙範は程なくして桂陽から逃亡した。劉備が感心したのは言うまでもない。

少し話が遡るが、劉備が南郡を平定した頃甘夫人が死去した。阿斗を産んだ人で、長坂で趙雲が救出した人でもある。流浪による心労が祟ったのかも知れない。阿斗を産んですぐに乱戦に巻き込まれているので尚更である。

そんな劉備に孫権が縁談を持ちかけてきた。相手は孫権の妹であり、劉備とは三十歳程歳の差がある。甘夫人が亡くなったことを知った周瑜が手を回したようであるが、南郡を抑えた劉備に対する牽制でもある。劉備は縁談を受け、孫夫人と婚姻した。孫夫人は勇ましい性格で侍女も武装しており、連れてきた兵も荒々しい者ばかりである。劉備は辟易して、奥向きのことにもそつが無い趙雲に監督させることにした。

二年後、劉備は西の益州へ出兵することになった。益州牧の劉璋が漢中の張魯ちょうろへの備えとして援兵を依頼してきたのである。関羽、張飛、趙雲、諸葛亮らは荊州に残り、劉備は新たに参謀に加わった龐統ほうとうや将の黄忠こうちゅう魏延ぎえんらを率いて益州へ向かった。見送った趙雲は不吉さを覚えたが、まさか自分に降りかかってくるとは思わなかった。ある時孫夫人と侍女、兵、そして阿斗が消えたのである。劉備の益州出兵を快く思わない孫権が孫夫人を呼び返したのだが、その時孫夫人は阿斗を連れて行ったらしい。誘拐のような者である。趙雲は張飛に急使を出して慌てて追いかけた。陸路ならば騎兵の多い趙雲が早い。孫夫人が船に乗る寸前で追いつき、張飛と共に阿斗を取り返した。趙雲は二度、阿斗を抱いて駆ける事になった。冷や汗をかいた趙雲と張飛は劉備に使いを送りことの次第を報告したが、益州の劉備はそれどころではなかった。当初は葭房に霍峻かくしゅんを置いて守らせ、孫権からの援兵依頼を口実に見張の高沛こうはい楊懐ようかいを討って順調に益州の各地を攻略していたのだが、雒城で足止めをくらい、また参謀の龐統が戦死するという不運も重なって滞陣を余儀なくされていた。趙雲と張飛が阿斗を取り返した報せには安堵したものの、目の前の城が陥せない。ここに至って劉備は関羽を荊州の抑えに残し、張飛、諸葛亮、趙雲、劉封らに益州の攻略を命じた。この時趙雲は従者であり部隊も指揮した関平を関羽に返し、

「良き将になりますよ」

と言を添えた。

趙雲は楽朋と佐将の陳到に、

「益州へ向かうが、騎兵が展開しづらいことが予想される。歩兵を主力に進軍する」

と告げ、実際手堅く戦い各地を制して行った。

雒城をどうにか陥落させた劉備に合流して、益州の首都とも言える成都を包囲した時、趙雲は久しぶりに簡雍を見た。聞けば劉璋に気に入られたらしく、今回も使者として成都に赴くらしい。

「劉将軍に馬超ばちょうが降伏を申し入れてきた。それで大勢は決したよ」

と簡雍は軽く話したが、趙雲は馬超を知らない。独自に情報を集めている楽朋も、

「涼州、雍州で大規模な叛乱があったようで、馬孟起ばもうきはその首魁だったのではないでしょうか」

というくらいであった。孟起は馬超の字である。劉備は李恢りかいを派遣して馬超を迎えさせ、簡雍を城内に送り込んで劉璋を降伏させた。劉備は益州を手に入れたのである。趙雲は益州各地を攻略した功で翊軍将軍という肩書きを得た。

劉備は寄って立つ地を得たが、安心してもいられない。曹操軍が漢中に侵攻し張魯を降したため、益州から雍州へ向かう交通が遮断された。曹操は長安で諸将を督卒し、漢中には夏侯淵かこうえんと張郃を残して守りとした。前後して江州で張郃と対峙した張飛は間道を使って張郃の兵を壊滅させ退けた。一方武都では呉蘭ごらん雷同らいどうという二将が進軍していたが、こちらは曹洪そうこう曹休そうきゅう曹真そうしん、らに敗れ、別行動していた馬超と張飛は撤退を余儀なくされた。

その後、劉備は定軍山へ進出し新入りである黄権こうけん法正ほうせいの策を用いて夏侯淵を撃破し、漢中を抑えた。曹操軍は敗兵を張郃が取りまとめ、曹操自身も長安から出陣してきたが小競り合いはあっても大規模な戦闘にはならなかった。劉備が徹底して守りに入ったということも大きいだろう。豪を煮やした黄忠は敵の兵糧を焼くことを提案し夜中に出陣した。従軍していた趙雲は黄忠が中々戻らないので三十騎を率いて偵察に出たが、折悪く曹操軍に遭遇してしまった。趙雲は麾下を励まして突撃をかけ、十数人を討ち、速やかに陣へ引き返した。趙雲は楽朋に命じて陣の門を全て開けさせ、自らは門前に一人で立った。追いついてきた曹操軍の兵は何事かと訝しんで立ち止まり、それが悪手となった。合図と共に弓や弩から一斉に矢が放たれ曹操軍は多数の死者を出して逃げ帰った。それからようやく黄忠隊が戻り復命した。先の兵をが退路にいて戻れなかったらしい。はからずも黄忠を助けた趙雲は空城の計を演じたことと合わせて賞賛され、

「趙雲は一身これ全て胆だ」

と劉備に評された。

このような小競り合いを繰り返す内に疲弊した曹操軍は撤退し、劉備は漢中を完全に手中に収めた。漢中太守には魏延が抜擢され、劉備軍は成都に帰還した。

そして曹操が魏王を称していることを受けて、群臣から漢中王となるよう説得された劉備は漢中王を称した。朝廷からは大司馬の位を送られた。漢中王として君臨した劉備の元に驚愕の知らせが舞い込んでくるのは翌年の事である。

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