第5話 兄の死

平原の城には公孫瓚によって青州刺史に任じられた田楷が居り、劉備と関羽、張飛は田楷と面会するために宮城へ向かった。平原には漢王朝の系譜の王が封じられており、相が任じられて行政を担当しているはずだが、今実権を握っているのは刺史である田楷将軍であろうと言うのは、どこからか知識を得てくる簡雍である。袁紹が漢王室を軽視しているため現皇帝とは別に皇帝を立てようとしており、その候補が幽州牧の劉虞であったのだが、劉虞本人に拒絶され頓挫した。公孫瓚はというと漢王室にはあまり関心が無いようだが劉虞と諍いがあり、また劉虞と結んでいる袁紹とは結べないため、袁紹と敵対する構えの袁公路こと袁術と結んで対抗している状態だという。実際の内情は劉虞の子の劉和が袁術に捕らえられるなどもっと複雑であったのだが、簡雍も趙雲も田豫もそこまでは探知できなかった。

実は劉備達が青州に入る前に袁紹と袁術の抗争は始まっており、青州より南にある豫州よしゅうにおいて、袁紹派の周昴しゅうこうと袁術麾下の孫堅が豫州の支配権を巡って戦い、そこに公孫瓚は従兄弟の公孫越こうそんえつの軍勢を派遣していた。しかし孫堅は勝てず、公孫越は流れ矢に当たって戦死した。劉備を青州へ派遣した後、公孫瓚は報復戦として冀州を実効支配しつつある袁紹へ界僑かいきょうにおいて戦いを挑み、厳綱将軍を捕虜にされるほどの大敗を喫していた。

この話を田楷との面会から戻った劉備から聞かされた趙雲達はあれほど勢いのあった公孫瓚の大敗に驚いた。公孫瓚の騎兵隊は白馬義従と呼ばれて精強を誇っていた。その騎兵隊が壊滅的な打撃を受けたという。袁紹軍は今、故安という城を囲んでおり田楷は救援に赴くことになっているという。もちろん劉備軍も付随することになる。

一日を置いて田楷と劉備は出陣した。田楷は出陣準備をほぼ完了しており、劉備はもちろん行軍してきたばかりであったから出陣は早かった。この軍は、一度薊へ敗走した公孫瓚と従兄弟の公孫範こうそんはんが立て直した軍勢と合流して歩騎三万余の軍となり、故安を陥せず撤退していた袁紹軍一万を壊走させた。主に戦ったのは田楷だが、劉備軍も一翼を担って袁紹軍を強烈に叩いた。趙雲率いる義勇兵は初めての戦場となったが、追撃戦であり敵の数も味方より少なかったため容易に敵を撃破し、五百騎余は数人の死者と僅かな負傷者を出したものの戦勝を飾って帰還した。公孫瓚軍は戦死者を弔った後に諸将を賞し、編成を分けた。田楷と劉備は青州に戻る事となり、公孫瓚と公孫範が主となって冀州へ進撃するという。

「玄徳を平原の令にすると言ったのを忘れてはおらぬ。ひとまずだが仮の令として赴任してくれるか。追って正式に沙汰があるはずだ」

公孫瓚は軍議で劉備に改めてそう伝えたようであり、劉備は印綬を持って平原へ戻ることになった。一方で趙雲は楽朋と共に戦死者を悼み、負傷者を見舞っていた。勝戦とはいえ犠牲を出したのは痛いことである。戦である以上犠牲が出るのはやむを得ないという認識は趙雲にはあるが、なるべく犠牲を出さないように戦い方を工夫するのが長や将の務めだと思った。趙雲は孫子の兵法などを読んだわけではないが、戦わずに済めばそれが良いと思っている。しかし兵を率いて戦いに身を投じた自分もいるので気分が暗くなった。似たような気配を発していた楽朋は、

「私は覚悟が足りていなかったと思います」

と吐露した。

「私も同じだな。それに私は部隊の長だ。もっと工夫して戦えば死者を出さずに済んだかも知れないと思っているよ」

と趙雲も言葉にした。

この二人に田豫が近づいてきて

「心中お察しします。しかしこの乱世はまだまだ続きましょう。我々は兵を率いて立ち上がった以上は志を持って乱世を終わらせるしかありません。子龍殿も私も兵を預かる身ですから、如何に兵を活かし無駄死にさせないようにするか考えなければなりません。それが乱世における力であり、力ある者の責務でもありましょう」

と慰めつつ励ましてくれた。

「国讓殿には教えられることが多い。感謝してもし足りないくらいです。今各地に立った群雄のいずれが乱世を終わらせるのかわからぬが、私は私にできることをしなければいけない。それが責任ですね」

「そうです。主である劉司馬は黄巾の乱に際して義勇兵を募り、黄巾党や各地の賊と戦い続けてきました。兵を無駄死にさせたことは一度や二度ではありません。主も雲長殿も益徳殿も何度も悔やんだでしょう。私も例外ではありません。しかし悔やんでも死者は戻ってきません。我々はどうやって死者を少なくできるかを考えて戦うことしかできないのです。戦わずして勝つ、ということができればそれが一番望ましいのですが、今の世にそれを成せる人物はまだいないとみています。戦わずして勝つには国が富み、兵が強くなければいけません。我々は誰もまだその域に達していない。そう考えたら如何に犠牲を減らして戦うか、勝てない戦を避けるか、敵を味方に変えるか、と色々なことを考えます。それが兵を預かる者の務めなのではないかと私は思います」

田豫は若いが踏んできた戦場は多い。趙雲と楽朋は頭を下げて

「良き教えをいただきました。これからも我らが至らぬところがあれば忌憚なく仰っていただきたい」

と礼を言った。

田豫は慌てて手を振り、

「若輩者が差し出がましい事を申しました。どうか頭を上げてください。今の私の話は忘れていただいてけっこうです」

と言ったが、趙雲は

「今の話は肝に銘じますよ。私は劉将軍の元で兵を率いて戦わねばなりません。それに戦だけが戦いでないこともわかりました。国讓殿、嫌でなければこれからも教えをいただきたい」

「私は若輩者ですので底が浅いかも知れません。それでもよろしければできる範囲でお力添えさせていただきます」

田豫は頭を掻きつつ応じた。

田豫はしっかりと学問をしたのだろうと趙雲は見ている。戦場にあって戦場以外のことにも目を配れる良将になる、とそう予感した。

とにかく勝ち戦をした田楷と劉備は青州へ帰還した。劉備は平原の令となり後に推挙されて平原の相となる。関羽と張飛は別部司馬となりそれぞれ一軍を率いるようになり、趙雲の部隊も兵を増やした。田豫の部隊も兵を増やしたようであり、調練や戦い方について話す機会も増えた。

関羽や張飛と話すと劉備の身の回りのことを知ることができる。

「刺客をもてなして帰したのですか」

趙雲が驚いたのは、劉備が暗殺目的で訪れた刺客をそうと知らずに手厚くもてなし、忍びなくなった刺客が暗殺者だったことを告げて去ったという話を聞いたからである。

「相となられてから多くの人々に恩徳を施してきたつもりではあったが、その分敵も増えるものかと嘆息なされていたな」

と語ったのは関羽である。怒った張飛を宥めたのも関羽であり、その点で劉備の評価を上げたと言っても過言ではないだろうと趙雲は思った。実際、劉備は平原の相として賊を防ぎ、経済面を立て直し、差別をしなかったので評判が良い。行政面で劉備に知恵をつけているのは関羽と簡雍であろうと趙雲は推測したが劉備の器が大きくなければできないとも思っている。趙雲は関羽、張飛、田豫らと共に主に賊と戦い続けている。一度劉備軍は高唐へ出陣し袁紹軍と戦ったが、その戦は大敗こそしなかったものの負け戦であった。

「敵将は張郃ではなかったでしょうか。前の冀州牧韓馥に仕えていた人です。黄巾の乱から戦っているはずですから難敵でしょう」

と後から教えてくれたのは田豫である。田豫も歴戦の将と言って良いが、田豫の言う張郃はそれ以上の将器なのだろうか。

田楷はしばらく平原にいたが、公孫瓚の指示で斉へと駐屯するようになった。斉はかつての国名であるからおそらく臨淄の辺りにいたかも知れない。

そんな中、平原に一人の使者が訪れた。急使である。内容は、

「北海の城が黄巾の残党に囲まれており、救援の兵を出して貰いたい」

というものである。北海は北海国と呼ばれ、今は孔融こうゆう、字を文挙ぶんきょという人物が相を務めている。有名な孔子の子孫の一人である。実は孔融と劉備は親交があり、孔融を北海国の相にするよう漢の朝廷に上表したのが劉備である。孔融は管亥という黄巾の残党に囲まれて危機に瀕しており、その重囲を単身で突破してきた使者は姓名を太史慈、字を子義という。

劉備は、

「孔文挙殿は私を覚えていてくださったか」と感激し、すぐに関羽の軍に出陣を命じた。

劉備が自ら出陣しなかったのは政務の他に、公孫瓚と田楷が袁紹軍と交戦中であったためではないだろうか。公孫瓚が援軍を求めてきたらそちらにも軍を出さなければいけないのである。劉備の立場はまだ公孫瓚の影響下にあると言ってもいいので、公孫瓚の指示は無視できない。太史慈が田楷ではなく劉備の元へ来たのはそもそも田楷が出陣中だったからではないだろうか。田楷が斉に駐屯していたのが本当であれば田楷の方が位置は近い事になる。

関羽は歩騎三千の精兵を選りすぐり、北海国へ向かって駆けさせた。その騎兵を趙雲は引き受け、

「援軍の到来を早く相へ伝えたい」

と言った太史慈を伴い先陣を切った。

この騎兵は北海を包囲している賊を容易く蹴散らして城内に入り太史慈を送ることに成功した。関羽の歩兵も賊兵を一蹴し、賊は散り散りとなって逃走した。関羽と趙雲はほぼ犠牲を出さずに賊を退散させ、孔融に手厚くもてなされて帰還した。こういう場合において劉備の代人が務まるのはやはり関羽である。劉備はそれも含めて関羽を向かわせたのだろう。

関羽と趙雲は帰路に着きほどなく平原へ帰還した。

復命を終えた趙雲に楽朋が近づいてきた。

「子龍殿にお会いしたいという者が来ているのです」

「私にか。身に覚えはないが…」

「それが、真定県から来たというのです。私が知っている人物ではありませんでしたので真偽のほどはわかりません」

「とにかく会ってみるしかあるまいよ。我も行こう」

口を挟んだのは一緒にいた関羽である。目に警戒の色があるが、関羽と一緒であれば仮に刺客でも何とかなりそうである。

「わかった。すぐに会おう。私のいえまで案内してきてくれるか」

「承知しました」

劉備に従っている者達は城内に宅がある。

趙雲と関羽は趙雲宅の客間で待つことにした。

ほどなく楽朋が一人の壮年の男を伴って来た。

相当に疲弊した様子の男に水を飲ませて落ち着かせ、

「私が趙子龍だ。私に何か用があるようだが如何なる御用かな」

と訊いた。

「子龍様ですね。御噂は道々お聞きしました。この度は急の使いで来ました。我が主、子龍様の兄君の事でございます」

趙雲は驚いた。確かに趙雲には兄がいる。兄は人を雇っており幾人かは面識があるが、趙雲はこの男とは面識が無い。

「兄上からの使いか。本当であるなら何の用件か」

「誤解を招きました。率直に申し上げます。我が主こと、子龍様の兄君が亡くなられました。私が経つ三日前でしたので一月ほど前の事になります」

「兄上が亡くなった…」

「何ということか」

趙雲と、共に聞いていた関羽は嘆息した。楽朋は何とも言えないという表情で黙っている。

「つきましては兄君の喪主を子龍様とされたいのです」

男はそう言って頭を下げた。

「趙雲、我が証人となる。相へ報告せねばなるまい。汝は常山に戻らなければならぬだろう」

関羽はそう言ったが、やるせないという風に首を振った。

「長旅の使いご苦労だった。今聞いた通り、私は相に報告に行かねばならぬ。しばしこの宅で休んでくれ。家人には言っておく。楽朋は軍に戻っていてくれ。後でそちらにも行く」

趙雲と関羽は慌てて劉備の元へ戻ることとなった。

「趙雲の兄君が亡くなられたか。服喪に入らなければなるまいな」

「任を果たせぬこと心苦しく思います。何卒お許しください」

「何を言う。家族が亡くなったのだ。喪に服すのは人として当然であろう。しかし、常山郡は今は袁本初の支配下だ」

趙雲ははっと顔を上げた。劉備は泣いていた。

「趙雲。もう二度と会えぬかもしれぬな。汝と共に大事を成せないことが残念だ」

趙雲もつられて涙ぐみつつも、

「必ず再会できましょう。それまでどうかご健勝で」

とどうにか声を絞り出した。

退出した趙雲に関羽が、

「汝が戻るのを待っている」

と肩を叩いた。

趙雲は一度帰宅してから軍へ向かい、楽朋と麾下の兵に常山へ戻って服喪へ入ることを伝え、楽朋に指揮官を引き継いだ。

それから張飛、田豫、簡雍らに会い、服喪のため離脱することを告げた。皆口々に再会を望む旨を口にしたが、この後田豫とは二度と会うことが出来なくなる。挨拶を終えて帰宅した趙雲を家人が待っていた。数人を雇っていたが共に常山へ行きたいと言う。趙雲は旅支度を整えさせ、使者の男に

「どうする」

と訊いた。

「お供いたします。申し遅れました、私は兄君の元で働かせていただいておりました耿祗こうしと申します。子龍様が家を出られた後に雇われたことになります」

「耿祗というのか。帰路は少しは楽ができるはずだ。疲れているだろう。無理はするなよ」

趙雲は耿祗の分も支度を整えさせて、家人と共に宅を出た。宅の前にいつの間にか馬車が止まっている。

「相より趙子龍様への贈り物です。常山への道中馬車も使うようにと申し使っております」

改めて趙雲は劉備の好意に感謝した。

馬車は広く荷物も多くないので耿祗を休ませられそうである。

使者に謝意を伝えると、家人の一人に馬車の御を任せて乗り込んだ。出発前に宮城の方を見ると人影がある。劉備、関羽、張飛、簡雍、田豫だろう。見送ってくれているらしい。一度手を上げてから趙雲は出発を命じた。日が落ちかかっているが近くに村がある。そこまでは行けるだろう。城を出ると騎馬隊が駆け寄って来た。

「どうかご無事で」

楽朋と兵たちが次々に声をかけてきて、やがて離れていった。

趙雲は落ちる日を見ながら今後の事を考えていた。

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