もう一人の

 


 ぷるるると、着信音が耳元で鳴る。スマホを持つ手が冷たい。心臓が脈打っているのが身体中に響く。多分僕は今、ひどく緊張しているのだろう。


「もしもし。久しぶりだな。元気にしてたか?」


 電話に出たのは父親で、そのことに少しほっとしてしまった自分が情けなかった。


「えっと、なんとなく気になったことがあってさ。あのさ。中学生の時のことなんだけど、あの時ってなんで引っ越したの? 結局僕、聞いてないなと思ってさ」

「あー、あの時、おまえがその、ちょっとあれだっただろう。学校でうまくいかなかったというかなんというか」

「うん。実はあの時期さ、学校でいじめられてたんだ」


 父さんが濁していた部分、当時は絶対に言えなかった言葉がするりと出てきた。


「……ああ、知ってたよ。……母さんがな。様子がおかしいって」

「母さんが?」


 もしかしたら、転校はいじめのことがバレていたからかもしれないとは思っていたけど、それを言い出したのが母さんとは思わず、僕は息が止まるほど驚いた。


「ああ。直接聴けばおまえが傷つくかもしれないから、自然な形でばれないように転校させてあげたいって。でも、俺だって仕事があるだろ? だからちょっと待ってくれって言ったんだ。そしたら、自分の子供のために動けないでなにが親だって母さんがブチギレてな」


 その時のことを思い出したのか、父さんはハハハと乾いた笑いをあげた。


「……それって本当?」

「マジだマジ」


 僕にはあのいつも無口で、冷たい人だと思っていた母が僕のために切れるだなんて想像がつかなかった。


 そういえばと、転校してすぐの頃のことを思い出す。


「じゃあ、転校してから母さんがパートやり始めたのって……」

「ちょっと金がな。今だから話せるが、ありゃあ大変な時期だった」


 父さんがワハハと大きな声で笑うもんだから、僕はスマホから耳を遠ざけた。



 転校の理由は、僕がいじめられていたから。そのことを、心のどこかでは当時の僕も分かっていたのだと思う。でも、認めたくなかったのだ。だってそれは両親にいじめられていたということがバレているということを意味していた。少なくとも当時の僕にとって、それはとても恥ずかしくてみじめなことだったから。


 父さんが当時が辛かったことを今だから教えてくれたように、僕も今だから当時いじめられたことを言えるのだと思う。



「そっか。いろいろと迷惑かけちゃってごめん」

「気にすんなよ。母さんの言う通り、あそこでおまえのために動けなかったら父親としても男としても俺は廃れてたよ。だから気にすんな」


「ありがとう父さん。……あのさ、いま母さんいる?」

「母さんか? ちょっと待ってろ、今替わるから」


 そう言うや否や「かあさーん」と父さんが遠くへ呼びかける声が響いてきた。それから少ししてガチャガチャという雑音が静まって、


「もしもし、替わったけど」


 母さんの声がした。


 母さんの声を聴くのはすごく久しぶりな気がした。やっぱり、この人の声は氷みたいだ。僕はそう思った。


「うん。えっとさ」


 僕は、そこで言葉を切って、声を拾う部分に手を当て、こわばった体をほぐすように長い息を吐いた。


「僕が中学生の時、転校しようって言ってくれたの、母さんだったって聴いてさ」

「そうね」


 ごく当たり前のことのように母さんは認めた。


「……あのさ、母さん。ありがとう。あの時さ、すごく救われたんだ。今僕がこうしてちゃんとしていられるのはきっと母さんのおかげだから」


 こんなことを突拍子もなく言ってしまったからか、母はしばらく無言だった。


「……そう。今度、ちゃんと帰って来なさい」


 どちらも無言の時間がしばらく続いたあと、返って来たのはいつものように感情が伺えない短い返事と、要件だけ述べる短い文章だった。でも何故か今の僕には母の声が、どこか嬉しそうに感じた。


「うん。そうする」


 僕がそういうと、少ししてから通話が切れた。


 側から見れば、親子としては淡泊な会話だったかもしれない。それでも僕の胸はじんわりと暖かくなったのだ。


 いじめられていた僕を救ってくれたヒーローは一人ではなかった。そのことに僕は数年経ってようやく気づくことができた。

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