17:最愛の人
「ジュジ」
体が揺さぶられる感覚と、愛しい人が私の名前を呼ぶ声。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。少し癖のある金色の髪と、紅い瞳の彼が私の顔を心配そうに覗き込んでいた。腕を伸ばすと、彼が首を下げてくれるから、私はそのまま彼の首に腕を巻き付けて顔を引き寄せて頬ずりをする。
僅かに見える景色だけでも、さっきと様子が違うので戸惑いながら辺りを見回した。
真っ黒に塗りつぶされていた円形の広間は、今では床を押しのけて生えた木々が天井や壁を貫いたり押し上げていて、ところどころから明るい朝焼けに似た色の空が覗いている。
「スサーナちゃんは?」
口の中が乾いていて、上手く声が出ない。私の質問に答える代わりに、彼が顎で示した先には、第三塔さんに抱きかかえられているスサーナちゃんがいた。目を丸くして、きょとんとした表情を浮かべた彼女は、私と同じように周りを見て驚いているようだった。
「ラームスさんはどうなったんでしょう?」
「それに……ヴァニタスも見当たらないです……」
私たちは見つめ合ってお互いの無事を確認してから、疑問を述べる。
あの不思議な空間にいる間に、ここでは一体何が起きていたのだろう。
カティーアと第三塔さんがお互いに視線を交わして、何かを言おうとした時、橙色の光がゆっくりと天井から落ちてきた。
大人二人分くらいの大きさの光は、床に触れると泡が溶けるようにじわじわと消えていく。
光の中から現れたのは、上半身がヒトで下半身が鹿の男性と、黒髪の女の子。昼月色の腰まである長い髪と、象牙色のトナカイに似た角の男性は、髪と同じ色の瞳で目の前に佇む女の子を見つめている。
一方で、引きずるほど長い黒髪の女の子は、まぶたを持ち上げて菫色の瞳を見開くなり、右腕を大きく振り上げた。
さっきみた二人にそっくり! そう口に出す前に、菫色の目をした女の子が口を開く。
「
「会いたかったよ、
ヴァニタス……確かにそう呼ばれた彼女は、振り下ろした右手をラームスの胸に押しつけた。巨大で歪な異形の姿ではなく、私たちと同じような……ヒトに近い姿をしている女の子は眉をつり上げて、ふーふーと肩を上下させながら、じろりと上目遣いでラームスを見上げた。
子鹿の姿だった時と変わらない声色で、穏やかな表情を浮かべたままのラームスは両腕を彼女に向かって伸ばす。
「ずっと、君と話をしたかったんだ」
「どの口が……」
ぎりりと歯ぎしりをしたヴァニタスの髪が一束持ち上がり、槍の様な形になった。慌てて止めに入ろうとしたけれど、カティーアは私の肩に手を乗せて首を横に振る。
小さな声で「大丈夫ですか?」とスサーナちゃんの心配そうな声が聞こえてきた。あっちも似たようなやりとりを交わしているみたい。
持ち上げられている髪の先端が、ラームスの喉元に突きつけられた。すごい剣幕のヴァニタスにも、ラームスは怯んだり、怯えたりする様子はない。彼は嬉しそうに微笑みながら差し出した両腕を自分の胸に当てると、彼女をまっすぐ見つめたまま言葉を続けた。
「君がわたしのことを忘れても良いのかと尋ねたとき、わたしは大丈夫だと、そう言ったのを覚えているかい?」
「ああ! ああ、覚えているとも! だからあたしは……あんたを」
ラームスの透き通るように白い肌に、髪槍の先端が僅かに刺さる。赤い血が一筋流れているにも関わらず、ラームスは彼女から目を逸らさない。
「謝れば満足か? それとも、自分と似た境遇の少女を食って守ろうとした挙げ句に自我を失ったことを嘲笑うつもりか?」
「いいや、そうじゃない」
まっすぐな視線で、自分から目を逸らすことの無いラームスの言葉を聞いて、ヴァニタスの瞳が揺れる。
彼女が首元に突きつけた髪槍にゆっくりと触れた彼は、そのまま一歩前に進み出た。
驚いた表情を浮かべたヴァニタスは、すぐに眉を寄せて彼との距離を保つように一歩後ろへ下がる。
「わたしの言葉が足らなかったんだ。だから、君を傷つけた」
両腕を広げたままの無防備な姿でラームスは、もう一歩ヴァニタスの方へ歩み寄る。
「君がわたしのことを忘れたって、そんなことはどうでもいいんだ……今から、ちゃんと理由も話すから、聞いて欲しい」
大きな溜息が私の髪を揺らした。見て見るとカティーアが苦笑いを浮かべながら二人を見つめている。
私にも、どういうことなのかなんとなくわかった。少し安心したような、くすぐったいような気持ちになりながら、私は彼の肩に頭をもたれ掛からせて、ヴァニタスとラームスへ視線を戻す。
「そんな」
かぶりを振ったヴァニタスが、両腕で耳を塞ごうとする。
異形の姿とはちがう、ただの女の子に戻ったヴァニタスの、枯れ枝みたいに細い腕をラームスはそっと掴む。
「君がわたしを忘れたとしても、わたしはずっと君を覚えている。だから、何度君との別れを向かえても、必ずわたしは君の目覚めを待つよ」
腕を引いて、ラームスは彼女を自分の方へ引き寄せた。
足をもつれさせたヴァニタスが、そのままラームスの胸にもたれ掛かる。
「そして、何度でも君を幸せにしてみせる」
「だって……」
顔をくしゃっと歪ませて両目から大粒の涙を流しはじめたヴァニタスが、腕で涙を拭う。
それでも、次から次へと溢れ出てくる涙をラームスが長い指でそっと掬って、顔を彼女の近くへ寄せた。
「わたしに君の呪いを解くことは出来ない。それでも、わたしは呪いごと君を愛してしまったんだ」
背中に手を回して、二人は抱きしめ合う。
嗚咽がなかなか止まらずに言葉が出てこないヴァニタスが顔を彼の胸に埋めた。ラームスは、彼女の伸びっぱなしになっている髪を指で梳きながら、前髪で隠れたままの額に口付けを落とす。
「君が嫌がらない限り、ずっとずっと何度でも君の死を見守るし、君の誕生を祝いたいんだ」
「……ばか。……ばかは、あたしだけどさ……もう……なんなんだよ」
涙でべしゃべしゃになった顔を持ち上げて、ヴァニタスは微笑んだ。黒い砂が舞っていることに気が付いて、私は彼女の足へ目を向ける。
「あ……体が……」
スサーナちゃんも、私と同じことに気が付いたみたい。
小さな声が響いて、ヴァニタスがこちらを見る。さっきまで確かに存在していた彼女の体はどんどん崩れていって、落ちた砂は床の上に積もって小山を作っている。
「……あんたたちも、ありがとう」
菫色の強気な瞳が、私たちへ向けられた。
その間にも彼女の体は砂に戻り続けている。
「じゃあ、またね……
肩から上だけになったヴァニタスが腕を伸ばす。伸ばした腕はすぐに崩れ落ちて、ラームスが首だけになった彼女を両手でそっと持ち上げた。
口付けをした後に、消え入りそうなか細い声だけ残して、彼女は床の上に降り積もる。
ヴァニタスだった黒い砂の上に、しばらく立ち尽くしていたラームスに、私はなんて声をかければ良いのかわからなかった。
カティーアが乱暴に髪を掻きながら、腰を上げた。
「壮大な痴話喧嘩だったな」
カティーアの言葉を聞いて、力なく笑ったラームスが前脚を折って背筋を曲げた。
彼は砂の中から紫色に光る菱形の石を取り出すと大切そうに胸に抱えて、立ち上がって私たちの方を見る。
「ありがとう。わたしも本来の力を取り戻した上に、
長い昼月色の髪が、突風に揺らされて煌めきながら靡いた。黒い砂は少しずつ風に運ばれて、床に積もっていた砂の山はどんどん小さくなっていく。
「あの……誤解が解けて、よかったです」
「君が、悲しんでいる彼女を絶望から引き剥がしてくれたお陰だよ、ありがとう」
タタタ……と小さな足音を立ててスサーナちゃんはラームスへ近付いてくる。彼は指の長い綺麗な手で彼女の髪を優しく撫でてから、顔を上げた。
「手を伸ばした呪いと憤怒を退けてくれた君も、よくやってくれたと思う。本当に、ありがとう」
それはとても優しくて、柔らかな笑顔だった。頷いた私を見て、ラームスは満足そうな表情を浮かべてふと視線をスサーナちゃんへ戻す。
「君は」
背後から近付いて来た第三塔さんに、声をかけられながら持ち上げられたスサーナちゃんが「ぴゃ」と小さな悲鳴を上げて首を竦めた。
第三塔さんは眉間に深い皺を寄せたまま、目を細めて彼女の顔を見る。
「護符は君を護るためのものだが……君に無茶をさせるためのものではない」
ああ、大変そう。がんばってスサーナちゃん……そんなことを思っていた私の肩にカティーアが手を置いた。
少し力の籠もった彼の手から不穏な気配を感じて目を逸らすと、彼の右手が私の顎を掴む。
「ジュジ」
「は、はい」
名前を呼ばれながら、半ば無理矢理目を合わせられた。
うう……無茶をした自覚があるだけに、彼の目を見るのが怖い。
「……やましいと思う気持ちはあるみたいだな」
額をコツンとぶつけられる。困ったような表情で笑った彼と目が合って、胸が痛む。
「あまり心配させるな。もう、一人になるのは嫌なんだ」
背中に腕を回されて、少し強めに抱きしめられた。
彼を一人にしたいわけじゃ無い。ただ、私だってもっと頼られたいし、私だってもっと彼のために傷付きたい。
守られているだけなのが嫌だし、私は元々彼に使われるために生まれたのだから……そう思っても口にしないでおく。これは私が抱えておくべき気持ちだから。
「ごめんなさい。気をつけます」
素直に謝ってから、彼の背中に回して、私もぎゅうと力を込める。肩に顔を埋めるようにしていると、隣からもスサーナちゃんの「ごめんなさい」という声が聞こえてきた。
溜息を吐きながらスサーナちゃんを下ろした第三塔さんは、何かに気が付いたように視線を宙へ泳がせた。
よく見ると、風に吹かれて広間の壁や床から黒い皮みたいなものが剥がされて、ところどころに開いている穴から飛んでいく。真っ白な壁になっていく室内に見とれていると、ラームスが私たちの方へ進み出てきた。
「さあ、この虚ろと夢の合間に出来た迷宮も崩れる頃合いだ。わたしたちも元の世界へ戻るとするよ」
ラームスは握っていた紫の宝石の表面をもう片方の指で優しく撫でて、そう言った。
それから優雅な動きで右の掌を左胸に当てながら、腰を折り曲げる。
戯曲を演じた役者みたいに洗練された動きでお辞儀をしたラームスは、顔を上げて私たちを銀色の瞳で見つめて、やわらかく笑った。
「本当にありがとう。わたしから君たちに
彼の足元から噴き出してきた白くて小さな花弁と、若葉色の小さくて柔らかい葉が私たちの周りを踊るように舞って包んでいく。
ぎゅうと強く抱きしめられながら、私は目を閉じた。
体がふわりと浮き上がる感じがして、力が抜ける。そのままぐるぐると頭の中がかき混ぜられる感覚に襲われながら、私は意識を手放した。
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