16:澱みに沈む
「わかってる!」
カティーアに名前を呼ばれた第三塔さんは、騎像獣の背を蹴って高く跳ぶと、ローブの内側から剣を取りだした。
赤みを帯びた褐色の表面に、暗褐色の縞模様が美しい木剣は実態の有無に関わらず魔力を発する存在を切ることに長けていると、以前カティーアが話してくれたのを覚えている。
ヴァニタスの両肘くらいの高さに到達した第三塔さんは、上半身を大きく捻って剣を横に振り抜いた。まるで踊りの一節みたいに綺麗な動き。
横に長く深緑の光が閃く。ヴァニタスが耳まで裂けた口を限界まで開いて、衝き上げるような鋭い悲鳴が響いた。そして、体に対してやけに大きな彼女の両腕がゆっくりと地面に落ちていく。
「これを頼む」
そう言って、スサーナちゃんの手に手綱を握らせたカティーアが空中に躍り出る。離れているのに声ははっきりと聞こえるのは、多分ラームスと
カティーアにも話していないこの感覚は、時々訪れるので最初は戸惑ったけれど,今では少し慣れてしまった。
第三塔さんの背後に浮いている騎像獣の背中を強く踏んでもう一歩前へ跳んだカティーアは、ヴァニタスの鳩尾部分に炎を纏った両腕を叩き込んだ。
体を大きく仰け反らせたヴァニタスが獣の様に咆哮すると、彼女の振り乱した髪の毛が一斉に逆立ってカティーアの方へ集まっていく。
第三塔さんが騎像獣にふたたびまたがってスサーナちゃんを見守りながらヴァニタスの周囲を飛び回っているのが見える。ああ、いかないと……。思い立つままに、私は足元に茨のツルを呼び出した。
さっき
安心して、カティーアへ視線を移すと、彼はヴァニタスの鳩尾にめり込ませた両腕を引き抜いていた。両手の先には、黒い塊が握られている。丸くて黒い塊には、黒髪が幾重にも巻き付いてぐねぐねと動いている。ヴァニタスの胎内に失った一部を取り戻すように強く引っ張る髪の毛を、カティーアは舌打ちをしながら腕に纏った炎で焼き払おうとする。
キリが無いと思ったのか、カティーアは上半身を大きく捻った。捻った身体を元に戻す反動の力を利用しながら、彼女の体を思い切り両足で蹴り出す。
カティーアの体が無防備に空中へ投げ出されるのと同時に、黒い塊の表面がべろりと剥げ落ちる。すると、こめかみの上に象牙色の美しい枝分かれした角を生やした美しい男の頭が姿を現わした。水に濡れた銀色の髪がバサリと広がりながら、カティーアの腕に落ちる。
ヴァニタスの胎内から引きずり出したラームスの頭を投げるために、カティーアが大きく腕を振り上げた。でも、それを許さないとでも言わんばかりにヴァニタスの髪槍が伸びてきて、カティーアの胸や腹を思い切り貫いた。少し不快そうに表情を歪める彼の両手両足に、伸びてきた髪の束が絡みついて拘束する。
「第三塔! 俺ごと斬れ」
「言われなくとも……」
ヴァニタスの体内に引きずり込まれそうなカティーアの目の前に、騎像獣にまたがったままの第三塔さんが滑るようにして現れる。
声をかけられるよりも早く
あっと言う間に腕を再生させたカティーアは、第三塔さんに斬られた足も即座に生やしながら、騎像獣の後部へまたがった。
投げられたラームスの首が、弧を描いて落ちていく。足元から茨のツルを伸ばして移動をしているけれど、間に合うか分からない。
スサーナちゃんを背に乗せたラームスが首に向かって走って行った。
「ラームスさん! 足に……」
振り落とされないように必死に手綱を握っているスサーナちゃんが、異変に気が付いて声を上げる。
ラームスの後ろ足に床から伸びてきた髪が巻き付いた。それと同時に、カティーアたちの前には髪の壁が現れる。
下方向から急に現れた壁に、第三塔さんが
「また無茶を……」
第三塔さんの焦った声が聞こえた。
いらついたように舌打ちをしたカティーアが、すぐに呪文の詠唱を始めたのが耳に入ってくる。多分、ヴァニタスはカティーアに任せて大丈夫。だから、私は私がすべきことをしよう。
バチバチと青白い閃光と共に乾いた音が響いて、スサーナちゃんへ視線を戻す。あれはラームスの首を狙って飛んできた髪の束を、スサーナちゃんの護符が焼き切った音だ。
予想通り、彼女は光の膜みたいなものに包まれて落ちてくる。ツルを伸ばして彼女の落下地点に自分の体を滑り込ませる。それと同時に、右手を前に突き出しながら大きな薔薇の花を進行方向に出現させた。
爆発を起こす巨大な火柱から放たれた赤い光が部屋を包んで、熱風が肌を撫でていく。カティーアの魔法で焼かれるヴァニタスは、咽喉を締め付けられているかのような悲鳴を響かせて横に倒れて動かなくなった。
「もう、大丈夫ですから」
薔薇の花に乗って跳ね返ってきたラームスの首へ、ツルを巻き付けて自分の方へ引き寄せながら、落ちてきたスサーナちゃんを抱き留める。
極度の緊張のためかハッハと浅い呼吸を繰り返しながら、顔を上げたスサーナちゃんに微笑んだ。
激しく動いたからか、熱く感じる彼女の額に自分の額をくっつけて、それから小さな体を抱きしめる。
「よかったぁ……」
今にも泣き出しそうなスサーナちゃんの安堵の声を聞いて、抱きしめる腕に力を入れた。
「一緒に、行きましょう」
「……はい、大丈夫です」
私とスサーナちゃんの間にラームスの首を挟むようにして置いて、手を繋いだ。
黒い砂と紫の煙がラームスの首の断面からゆっくりと染み出してきて、私たちを包んでいく。低い呻き声を上げて動かなくなったヴァニタスを視界の隅で捉えながら、私とスサーナちゃんは額をくっつけ合わせて目を閉じた。
音が遠くなる。そのまま眠りに落ちる時みたいに段々と体が重くなって、どこか底の無い暗闇に吸い込まれていくような感覚。スサーナちゃんと触れあっているところだけがやけに温かい。
すぐのような気もするし、長い間じっとしていた気もする。
頬を生ぬるい風が通り過ぎていく感覚がして、目を開いた。鈍色の雲が空を覆っている空の下に真っ黒い水が溜まった沼が見える。
いつのまにか、スサーナちゃんの姿も体温も感じられない。自分の体の感覚もなくて不思議な気持ちになる。
こうして世界を俯瞰して見るのは、なんだか透明な容れ物に入っているものを観察しているのに近い気がする。
二度目の風が、腐敗臭を運んできた。嫌な気持ちになりながら、黒い水が満ちている沼の中央へ目を向ける。
いつのまにか、そこには一人の女の子が立っていた。
スサーナちゃんと同じ位……10歳前後に見える小さな女の子は、自分の背丈よりも長く伸ばした黒髪を引きずりながら沼の中を歩いている。
虚ろな表情で、両手を前に出しながら進む様子は、なんだかとても疲れているように思えた。
彼女が歩く度、沼が浅くなる。そう思っていたけれどそれはすぐに間違いだとわかる。彼女は黒い水を吸い上げながら進んでいるのだ。
歩いているうちに、彼女の進行方向上には白い石像が現れた。上半身が人間の男性、下半身は鹿の体をしているその像は、こめかみの上にトナカイに似た枝分かれした角が生えている。腰まである長い髪も相まってラームスの頭にそっくりだと思った。でも、その石像には顔が無い。何故かたたき壊されたように激しく抉れて欠けている。
どんどんと水を吸い込んで水たまりくらいの大きさまで小さくなった沼の代わりに、彼女の髪は随分と長くなっていた。足を取られながらも石像に辿り着いた少女が、脱力して泥に両方の膝を付ける。
両目を擦りながら泣く彼女の髪が、まるで別の生き物のように蠢きながら石像のあちこちに絡みついていった。
薄らと灰色がかっている女の子の、二本の細い腕が持ち上げられる。指先がサラサラと黒くなって崩れていく。よく見ると、彼女の崩壊は足先からも始まっているようで、ふくらはぎ辺りから下は砂になって泥の上に小山を作っている。
石像に伸ばした両腕が、ぼろりと崩れ落ちて、代わりにどこからか放り投げられた石が彼女の額を穿つ。
髪の毛が立ち上がり、それぞれがヒトのような形に変わっていき、女の子を囲んで次々と石を投げつけはじめた。
横たわり、割れた額からどろどろとした黒い血を流す彼女が、緩慢な動作で人を模した自らの髪から、石像へと目線を移す。肘上から腰までしかない体を泣きながら這いずって石像の方へ進む彼女の周辺には再び黒い沼が広がっていた。
石像がどんどん沈んでいくのをみながら、女の子は二の腕の半分まで崩壊した両腕を持ち上げた。
そのまま、彼女の体もゆっくりと黒い水に飲み込まれていく。
水面が立たれるような音がして、持ち上げられた女の子の腕が見えなくなる。
黒い沼地と、鈍色の空だけが広がる静寂の中で、澄み渡った綺麗な音が響いた。
「くるしそう」
ぽつりと呟かれたその声は、波紋みたいに徐々に広がって私の耳にも届く。
私はそれで、やっと自分がなんのためにここにいるのかを思いだした。
息を吸って、自分の体の形を思い出す。
スサーナちゃんに声をかけたら、きっと彼女も姿を取り戻せるはず。そうしたら、あの少女を二人で助けよう。
そう思って、声を出そうとした。
「まだ、まにあう」
スサーナちゃんの声が、もう一度響く。静かで、しっかりとした声。それから、鈍色の空を割って大きな手が二つ現れた。白くて華奢な手は見覚えがある。
真っ黒な水の中に入った両手が、水を滴らせながら持ち上げられる。
彼女が掬い上げたのは、生まれたままの姿でいる灰色がかった肌の女の子だった。
黒い水面から幾つもの触手のようなものが現れて、スサーナちゃんの手に触れようと水面から伸びてくる。
触れられたらいけない。そう思った。
前に使った魔法。ヒトから悪いものを遠ざけるための私の魔法。
「
薔薇の花弁が風に舞いながら、水面の上を撫でるように通り過ぎる。
黒い触手たちが花弁から逃げるように水面の中へ戻っていく間に、スサーナちゃんの手は、少女を乗せたまま雲の中へと消えていく。
鈍色の雲が割れて、真っ白な温かい光が私の視界を奪った。そのまま体が軽くなって、私は目が開けていられなくなる。
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