花瓶
戯男
花瓶
「先輩の汗を舐めたら寿命が伸びるって、本当ですか」
「だとしたら舐めたい?」
「いや、舐めませんけど」
そう言うと、アオイは枕元の水割りを飲んだ。
そんなのを飲むくらいなら……と僕は思うが、どう考えても変態っぽいので何も言わない。
「それって汗じゃなきゃ駄目なんですか?」
「どういうこと?」
「体液ならなんでもいいのかってことです」
「なんだったらいいの?」
「なんだって嫌ですけど」
アオイは僕とキスをしない。汗も唾液も、元々は全部血液なんじゃなかったっけ?と僕は思う。しかし実際のところはわからない。
でも、もし本当にそうなのだとすると、程度の違いこそあれ、結局全ては血液の交換なのだろう。血がいいなら他の何だっていいんだろうし、他が嫌なら血液ももちろん駄目ってことだ。
「僕のこと嫌い?」
「嫌いですよ」
「……そういうんじゃなくて。真剣な話」
「嫌いです。死なない人なんて」
「死なないようにしてあげられるんだけど」
「そういうところが嫌いなんです」
……どうにかしてアオイに僕の汗を飲ませられないだろうか?と思う。涎でも涙でもなんでも良いから、どうかしてアオイに僕の体液を飲んでもらうことはできないだろうか。
どうすればアオイは僕の血を受け入れてくれるんだろう?
アオイが水差しを傾けるのを見て、僕は妙なことを考える。できないことはないだろうが……アオイは注意深い性格だし、そうしたところで限度はある。いつまでも続けられることじゃないし、結局はその場しのぎに過ぎない。
こんなことを思うのは別にアオイが初めてじゃない。名前も忘れた何人にも同じようなことを考えたが、しかし結局その全員が僕の血を受け入れてはくれなかった。彼女たちはみんなそれなりに長生きだったが――自分で命を縮めたものを除けば――最後にはやはりみんな死んでいった。
アオイは長生きしなかった方の女の子だった。僕は時代遅れの喪服を着て彼女の葬列に加わった。棺の中の死に顔はとても綺麗で、僕はちょっと涙が出そうになったけれど、どうせ今さら飲んでもらうこともできないんだと思うと、やっぱり何も出なかった。
「おじいさん、人じゃないんでしょう」
日差しが暖かい内庭でサツキが言った。
「なんだって?」
僕は耳が遠いふりをする。サツキに合わせて見た目を変えて、傍から見れば今の僕はしわくちゃの好々爺だ。多少耳が遠くても何らおかしくない。
しかしサツキは繰り返さず、
「吸血鬼か何かなんですか?」
皺の奥の目は若い頃と同じように綺麗で、僕は諦めて紅茶のカップをソーサーに戻した。
「……誰から聞いたの?」
「一緒に暮らしてればわかります。何年になると思ってるの」
サツキは昔から勘がよかったが……いや、そんなことはあまり関係ないのかもしれない。
振り返ると窓ガラス越しに老人たちが見える。サツキと同じ、白くて軽い毛と皺に覆われた人間たちで、遅かれ早かれ死んでいく。もちろんサツキも同じように。
「じゃあ今のあなたの姿は、本当じゃないんですね」
僕は自分の皺だらけの頬を擦る。「まあね」
「実際はどうなんです」
「実際?」
「あなたの本当の姿ってどんななの?」
「どうだったかな。わかんない。忘れちゃった」
そんなものは最初からなかったのかもしれない。
サツキの指が肘掛けの上で微かに動いた。僕はそこに掌を重ねる。
「姿は自由に変えられるんですか」
「まあね。基本的には」
「だったらなんで、そんなおじいさんみたいな格好してるんです?」
「だってお前……」
僕は両手でサツキの左手を包む。同じように皺だらけの手だったが、サツキの方がずっと柔らかい。「一緒に歳を取りたかったからだよ」。少なくともそんな気分を味わいたかったからだ。
「お前、今いくつだっけ」
「女房の歳も覚えてないんですか。まあ仕方ないんでしょうけど」とサツキは悪戯っぽく笑って、「今年で百四十九。秘密ですよ」
「そんなになるか」
「これってあなたのせいなんです?」
「……まあ、ある程度は仕方ない」
僕とサツキに子供はない。僕が何か妙なことをしたわけでもない。それでも、長く一緒にいれば、少しはそういうことだってあるものだ。
「ねえ。僕の」
と言いかけたところで、サツキが先を遮って言う。
「最後にお願いがあるんだけど」
僕は言葉の続きを飲み込んで尋ねる。
「何?」
「私たちが出会った頃、覚えてます?」
「うん。きみが十九の時だ」
「ちょっと戻ってみてくれない?」
僕は老人たちの方を振り返る。
「……まずいよ。みんな見てる」
「大丈夫。いい年だし、そんな事もあるかって思うだけですよ」
僕はしばらく考え込む。もし見られたら――まあ間違いなく見られるんだけど――もうここにはいられなくなるだろう。サツキと一緒に、サツキの最後を迎えることができなくなる。
でも、それも全部わかった上で、彼女はそう言っているのだ。
目を上げると、サツキは少し照れたように笑いながら、
「ね。お願い」
思わず笑ってしまった僕は、すでに老人ではなくなっている。十九の頃――というか、サツキが十九だった頃——僕らが始めて出会った頃の見た目に戻っている。
「あらまあ。まあ」
言いながら、サツキが両手を持ち上げた。僕はその手を取って自分の頬にあてる。手の柔らかさがより一層感じられる。
サツキは皺のなくなった僕の頬を撫で、耳たぶを触って、顎のあたりで指を止めた。
「こんなところにほくろなんてあったかしら」
「あったよ。何も変わってないはずだから」
「そう。じゃあ忘れてたのね」
愛おしそうにほくろに触るサツキを、僕はそっと抱きしめる。サツキからは老人の匂いがしたが、微かに少女のような匂いも混じっている気がした。サツキも僕に腕を回した。それは老人の手つきだった。
ガラス越しの室内で老人たちが騒いでいる気配がした。
「じゃあ行くよ」
僕はサツキから体を離す。サツキは車椅子に座ったまま微笑んで、
「ええ。じゃあね」
僕は庭から道へ出て、そのまま戻らなかった。
死ぬところに立ち会わなかったのも、別にサツキが初めてではない。
僕が剥いたリンゴに、ユリは少しも口をつけなかった。それでも僕は黙ってリンゴを剥き続けた。リンゴがなくなると梨を剥いて、梨がなくなったら桃を剥いた。リンゴは早くも茶色に変色しかかっていた。
指についた桃の汁を舐めて、軽くリンゴに触れてから、僕は皿をユリの前に置く。だがユリは軽く首を横に振っただけでやはり手は出さなかった。僕は諦めてベッド脇のテーブルに皿を置き、洗面台で手を洗った。
丸椅子をベッドの近くに寄せて、僕は窓の方を向いたユリの髪に触る。しばらく洗っていない、しっとりした髪には、消毒の匂いが染み込んでいるようだった。
「切ろうかな。最後に。ばっさり」
窓を向いたままユリが言った。
「もったいないよ。せっかくここまで伸ばしたのに」
「もったいなくないよ。どうせ何にもならないんだし」
そんなことない――と言おうと思ったが、続く言葉はどれも独りよがりなもののような気がして、結局僕は何も言わない。
僕は髪の間にのぞくユリの耳を見る。異様に白い首筋を見る。そこに繋がったチューブを辿って、ぶら下がった液体の袋を見る。
……別に、必ずしも飲ませたり舐めさせたりしなければならないわけじゃない。
どうかして体に入れられさえすれば。
「変なこと考えないでよね」
見透かしたようにユリが言った。
「……しないよ」
僕は口ごもりながら言う。でも、それって変なことなのだろうか?
「今までにそういう子っていたの?」
振り返ってユリが尋ねた。
「そういう子って?」
「あなたの……あなたとずっと一緒にいたいって言った子」
「いたかな。まあ結局みんないなくなったけどね」
「どうして?」
「どうしてかな。嫌になったのかも」
「何に?あなたに?」
「どうだろう」
僕はユリを見つめ返す。目の奥には強い光が点っているみたいで、とてもじゃないが、それはもうすぐ消えるようには思えない。
色々考えた挙げ句、僕は言う。
「キスしていい?」
「……どうして?嫌。変なことする気でしょ」
「別に変じゃないだろ。何もしないよ」
「……いいよ。でも私がするから、あなたは動かないで」
僕が頷くと、ユリはベッドの上で体を起こした。僕は目を瞑るかどうか少し考えるが、ユリは別に気にしていないようだった。
ユリの瞳がすぐ近くに見える。
唇の先を軽く触れ合わせただけで、ユリは顔を引っ込めてしまった。
「……なんで?」
僕が言うと、
「ほら。やっぱり変なことする気だったんでしょう」
「……違うよ」
言って、僕は唾を飲み込んだ。
「生きたくないの?」
「そんなことないけど、死にたくないのとはまた違うの」
「よくわかんないよ」
「あなたは何もわかってないんだよ」
「……少なくとも君の何十倍も生きてはいるんだけどな」
「死なないとわからないことだってあるのよ」
そう言われると僕には返す言葉がない。
窓の外がだんだん暗くなってきた。廊下に食べ物の匂いが漂い始めて、遠くからワゴンを押す職員の足音が聞こえてくる。僕は上着を取って立ち上がった。
「ねえ」
病室を出る寸前で呼び止められて、僕は振り返る。
「私と一緒に死にたいとか、思ったりしない?」
……そういうことを言った子は、あまりいなかったような気がする。
通りを挟んで向かいの部屋からは、銀杏の枝が邪魔になってユリの病室は見通せない。僕は脱いだ上着を床に投げて、流しの下から包丁を取り出す。
今度も死に目には会わないつもりだ。たぶん葬式にも出ないだろう。このところはずっとそうしている。昔はそんなこともなかったのだけれど、僕はだんだん耐久性が落ちてきているのかもしれない。
体は相変わらず死なないのに。
包丁で手首に傷をつけて、流れ出した血をガラスのコップに溜める。傷はすぐに塞がるからそのたびに刃を入れる。そのたびにまた薄い痛みが走る。何度か繰り返してコップの半分ほど溜めて、僕は包丁を机に置いた。
これを欲しがる人はそれなりにたくさんいるだろう。でも僕がこれを飲んで欲しいと思う人はあまり多くなくて、そういう人に限ってこれを飲んでくれない。
血はいつまでも鮮やかなままで、リンゴのように変色したりはしない。
僕はコップに口につけて、自分の血を一息に飲み干した。でも元々不死である僕は特に何が変わるわけでもなく、ただ少し気分が悪くなっただけのことだ。
花瓶 戯男 @tawareo
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