冷夏
Natsumi
冷夏
帰り道に蝉が鳴くのを聞いたから、一年ぶりにスイカ味のアイスを買って帰った。
家に入るなり居間のテレビをつける。少しの静寂の後、画面の向こうでアナウンサーが喋り始めた。
「全世界で爆発的な感染の拡大がみられた新型ウイルスの影響により、例年より遅れた8/12の今日、全国各地の高等学校で終業式が行われました」
肩に掛けていた重いショルダーバッグを床に降ろし、机の前に腰掛ける。頬に伝う汗が、扇風機の送るぬるま風に乾かされて少し心地よい。コップに注いだ冷たい麦茶を一気に飲み干して、僕は再びテレビの方に目をやる。
「続いてのニュースです。今日、岐阜県の多治見市で38.7℃を観測し、全国で今年最も高い気温となりました」
そういえば、数か月前。夏になれば今流行ってる例のウイルスも熱にやられて衰退していくだろう、と風の便りに聞いていた。だけどもその予想は大いに外れ、感染は収まるどころか最初の波より格段に勢いを増している。単なるうわさだ、などともとからあまり期待してはいなかったのだけれど、高校生活最後の夏を自粛ムードで迎えるのだと思うと、やっぱりちょっと残念だ。
本当は友達と海やら山やらに行って、思いっきりの「夏」を謳歌したかった。浜辺の奥に佇む大海原を見渡しながら、ブルーハワイ味のかき氷をみんなで食べている。そんな光景が、頭に浮かんでは消えた。
ふいに居間の中を強めの風が吹き抜ける。遅れて、縁側に掛けられた風鈴がちりんちりん、と鳴いた。
この音を聞くとやたらにそうめんが食べたくなってくる。そうめんを冷やしているこおり水から麺を取り出すとき、ガラスのボウルと氷がぶつかって鳴るあの音に、風鈴の
風鈴が再び動きを落ち着かせたとき、今度は蝉の喧騒が僕の耳を煩わし始めた。蝉の鳴き声って、何かに集中しているときはあまり気にならないものだけど、ひとたびその集中が途切れると途端に鬱陶しく感じるのだ。
『閑さや岩にしみ入る蝉の声』
国語の教科書を読んでいたときに見つけた俳句だ。どうやらあのやかましい蝉の声の中に閑さを詠んだ有名な俳句らしいが、僕はこの
気が付かぬ間にニュース番組は終わっていた。テレビは今日の役目を終え、なすすべもなく僕に電源を落とされる。心做しか、
受験生という意識を持ち始めてからは、俄然テレビを見ている時間が減った。いや、テレビだけではない。ネットサーフィンをしたり、音楽を聴いたり、映画館に行ったり、小説を読んだり――思えば、受験に無駄と思われるようなことはほとんどしなくなっていた。
『無駄なことは極力しない。それは、一見するととても合理的に思われる。しかし、そういったミニマルで消極的な人生観こそが、彼らの生活を寂しく、退屈なものにしてしまっているのではないだろうか……』
国語の試験中にこの言葉を目にしてから、ずっとそれが脳裏に焼き付いて離れない。僕は今、何のために勉強しているのだろう。儚い青春時代を犠牲にしてまで大学に受かったからと言って、そこに残るものは、一体何なのか。
*
陽が傾いて、向こうの空が
床に寝そべりながら英単語帳をぼんやりと眺めていたとき、庭の方から「お~い!」と、僕を呼ぶらしき声がした。
縁側から覗いてみると、玄関のあたりで制服姿の少女が立っていた。玲香だ。
玲香は、同じ高校に通う唯一の幼馴染である。昔は別にそこまで仲が良かったわけではないが、家が近いからということで入学当初から一緒に登下校し始め、今ではかなり親しい仲となっていた。
「どうしたの、こんな時間に」
もう十八時を回っている。今まで玲香がこの時間に僕の家を訪れたことはあまり無かったはずだ。
遠くからでは会話もしづらいから、庭にあったサンダルを履いて玄関へと向かった。
「あのさ、ちょっと付き合ってもらえない?」
「何に?」
「私のお母さんのこと、憶えてる? 今からお墓参りに行くの。本当はお父さんと一緒に行く予定だったんだけど、急に仕事が入って行けなくなったみたいで」
わずかに表情を曇らせて、また続けた。
「一人だけじゃ虚しいから、君もどうかなって」
少し、沈黙してしまった。
それからすぐに、慌てて「いいよ。少し待ってて」とだけ返した。そして、出掛ける用意をするため再び家の中に戻った。
玲香のお母さん。忘れるはずがない。だって、あの人が重い病で亡くなるその直前まで、玲香と共に僕も足繁くお見舞いに行っていたのだから。
玲香のお母さんが死んだ夏は、今年のそれと違ってとても賑やかだった。
八月初旬の大規模な夏祭りに始まり、文化祭、体育祭と続き、最後には玲香の誕生日祝いに、玲香、僕、そして僕の父親の三人で日帰りの京都観光をした。
毎日が最高の日だった。楽しいことがあまりに多くて、何かについて思い悩む暇もなかった。
玲香のお母さんの病状も、次第に回復していくだろうと当然のように思っていた。
八月三十日。玲香と僕が京都観光をしていた日。
それが、玲香のお母さんの命日となった。
今でも信じられない。実感が湧かない。身近だった人が死ぬのを、その日初めて、経験した。
*
雄大なひまわり畑の中にぽつんと墓場をつくるなんて、余っ程ここの管理者はロマンチストなのだろうと思う。
目の前には、玲香のお母さんの本名だけが書かれた墓が、ひっそりと佇んでいる。
掃除を終えピカピカになった墓石は、夕焼けの赤とひまわりの黄色をまだらに反射していた。
「じゃあ、お祈りしよっか」
「そうだね」
深呼吸をする。澄んだ空気は、自然豊かな大地の香りがした。
合掌。そして、目を瞑る。
辺りがあまりにも閑かだから、まるでその間だけ、時間が止まっているかのように感じた。
――ひょっとしたら、死ぬってこんな感じなのかもしれない。
何も見えなくて、何も聞こえない。時間の経過も分からない。でも、意識だけが、確かにそこに存在する。もしそれが本当の「死」なのだとしたら、一体どれだけ虚しくて、寂しくて、そして切ないだろう。
数秒、あるいは数時間が経った気もする。
目を開けると、眩しい陽の光が見えると同時に、蝉の鳴き声が耳に飛び込んできた。いつから聞こえていたのか知らない。でもきっと、うるさくはなかった。
隣を見ると、玲香の姿は見当たらない。だから一瞬、不安になった。もしかしたら本当に、相当長いことお祈りをしていたのかもしれない、と。
だが、その心配は杞憂に終わった。後ろを振り向くと、玲香がしゃがみ込んでひまわりを眺めていたからだ。
「私、疑問だったんだよね」
顔はひまわりを見つめたまま、玲香はそう言った。
「人間って、なんで生きてんだろうって」
風が吹き通って、彼女の綺麗な髪がふわりと揺れる。光沢のある黒が、夕焼けに染まっていくのを見た。
「でも、最近やっと気づいたんだ」
そう言うと、やっと彼女はすっと立ち上がり、僕の方へ振り返った。
「人間は、この綺麗な世界を『綺麗だ』と感じるために、生まれたんじゃないかな」
その言葉を聞いたとき、僕の心にひしめく何かが一瞬、すっと静かになった気がした。
「例えば誰かが素晴らしい物語を作り上げたとしてもさ」
言葉の続きを探すかのように、彼女は目線を斜め上に向ける。そして再び、僕を見た。
「それを読んでくれる誰かがいなければ、その素晴らしい物語は全く存在する意味がないじゃない?」
「……そうかな。僕は、自分で作った作品を自分が鑑賞できればそれで満足だけど」
「でも、自分だけしかその作品を味わえないよりは、他の誰かにも見てもらえた方が、私は嬉しいよ」
「それはまあ、僕もそうかな」
確かに、そうかもしれない。
もしこの世界に生命がひとりも存在しなかったら、きっとそれは美しくて、そして寂しい世界なのだろう。
そうして、気が付いた。
僕は、玲香のお母さんが死んでからずっと、生きる意味を見失っていたんだ。どうせいつか死んでしまうのだから、生きていても意味が無い。多分、心のどこかでそう思っていた。
ひまわりがそよ風と楽しそうに踊っている。
今になってやっと、蝉の声を『閑か』だと思えた気がした。
冷夏 Natsumi @Haapy
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます