ある日、ある少女のお食事風景

 早朝から昼過ぎに掛けて降り注いだ梅雨の置き土産は、夕暮れ前にはすっかり夏の太陽に吹き晴らされて、空は青く澄み渡っていた。ようやく舞台に上がれたことを喜んで、太陽は一日の終わり際であることも構わずにたっぷりの光と熱とを立ち並ぶ家々へと投げかける。落ちた屋根、折れた柱、抜けた壁、そういった悉くを濡らし凍えていた家たちは、気持ちよさそうに陽光の恵みに与っていた。

 城下町の一角、商家が軒を連ねる大通りに、少女の姿があった。彼女は石畳を敷いた通りの脇で、ある商家の崩れて通りに向かって倒れた壁の上にしゃがみ込み、足許に丸まっている猫を撫でていた。一人と一匹を、徐々に赤みを増す太陽が優しく照らしている。

 人の気配は、この少女を除いては他になかった。雨漏りで腐った床を鼠が這い回り、焼けて煤に塗れた石壁の陰で野犬が昼寝をし、枯れて幹と僅かの枝ばかりになった果樹の上で烏が鳴いたが、人の姿はどこにもなかった。大通りを風が緩やかに抜けて少女の髪や猫の毛を揺らす。そこには雨の残り香や煤の匂いの他に、微かな腐敗臭が混じっていた。

 少女の撫でていた猫が、不意に頭を上げた。少女もそれを追って顔を空へと向ける。立ち上る入道雲に夕日が当たり、天を炎が焼き焦がさんとするようだ。炎は次第に燃え広がって、空一面を赤く染めていく。

 その炎の中を、一羽の烏が真っ直ぐに少女へ向かって飛んでいた。やがて烏は少女の頭上で一度円を描き滑空すると、ゆっくりと降りてきた。過たず少女の肩へと留まる。少女は驚くことも怯えることもなく、ただ不服そうに細めた目を烏に向けた。

「痛いんですけど……」

 それが聞こえているのかいないのか、烏は頭を左右に振ったり瞬きしたりと忙しなく動いている。そのうちに、少女は烏が何を警戒しているのか気づいた。足許を見る。いつの間にか身を起こした猫が、ぢっと烏を見つめていた。視線を烏から決して外さず、静かに胴を縮める。機を計って尻を振る。

 矢をつがえた弓が引き絞られ、そして放たれるように、ついに猫は烏に飛びついた。しかしその寸前で烏は飛び上がり、背後、むき出しになった商家の二階部分の床にまで逃げ去る。そうして少女の肩に引っかかっている猫を見下ろして、一度鳴いた。猫はまだ烏を見つめていた。

 少女は猫を両手で支えると、よいせと立ち上がった。猫が不意を突かれてじたばたするが、すぐに少女の腕の中で落ち着いた。それを確かめてから、少女は後ろを振り返る。烏を見上げる。

「見つけたんですか?」

 少女の問いに、勿論烏は答えなかった。床の際から跳躍し、落下の最中に翼を広げて風を得ると、少女の頭を掠めて大通りの対岸まで飛んでいく。その先にはやはり大きな構えの商家があって、一階が崩れて傾いだ屋根の上に乗ると、飛び跳ねて体ごと少女を振り向いた。横合いから色の濃い赤を浴びて、烏の半身が血に濡れているようだった。

 烏を追って、少女は壁から石畳へと飛び降りた。烏が隣の屋根へ、また次の屋根へと移っていくのを、猫を抱いたままのんびり追いかけていく。

 大通りを真っ直ぐに抜け、城壁の基礎まで崩れた部分を跨ぎ越し、少女は王城へと足を踏み入れる。しかし見渡す限りに拡がるのは天高く聳える建造物ではなく、それらが跡形もなく崩れ落ち毀たれた、地を埋め尽くさんばかりの残骸だけだった。

 一抱えもある岩を避け、真っ黒に焼けた横倒しの柱を潜り、少女は足を進めていく。時折頭上に遣る視線が不満げなのは、先導を続ける烏がそれらの障害を意に介さず、悠々と飛び越えていくためだ。日は沈み行き、辺りは暗くなりつつある。烏に従うにも苦労が多くなっていた。

 しかし、それからしばらくもせず、彼らは目的地へと辿り着いた。既に太陽は役目を終えて舞台を降りていたが、入れ替わりに満月が現れて辺りを仄明るく照らしていた。その下、何もかもが本来の用を成さなくなった瓦礫の中で、ただ一つ、もとの形を保ったままの小さな建物がつい立っていた。

 それは、もとは城内の一室に過ぎなかったのだろう。しかし周りの構造物の一切が崩れ去ってしまった今、その部屋はまるで独立した一つの家のように振る舞っていた。烏がその屋根――もとは上階の床だったのだろう――に降り、一つ鳴いた。

 少女は立ち止まり、疲労を溜息とともに吐き出す。ちょうどそのとき、猫がもがいて少女の腕から抜け出した。危なげなく地面に降りた猫は、慎重に足を運び、興味のもとへと近づいていく。その先には、烏の死骸が一つ転がっていた。ほとんど傷もないのに両目をくりぬかれた、不気味な死骸だった。

 猫を放って、少女は目前の建物の正面、簡素な木戸に手を掛けた。圧倒的な破壊を耐え抜いただろう扉は、少女の非力な腕にも拘わらずあっさりとその封を解いた。それどころか、どうして今まで形を保っていたのかわからないほどぼろぼろと崩れ、最後には砂になり風に溶けてしまった。

 烏の死骸に夢中になっていた猫がはっと顔を上げた。不快そうに声を上げ、あっという間にどこかへ逃げ去ってしまう。その理由に少女も遅れて気がついた。今しも開かれた部屋の中から、鼻が曲がるほどの腐敗臭が溢れ出していたのだ。

 少女を導いた烏が部屋の中へと躍り込む。少女もまた、臭いを気にせず、それどころか知らず口の端に喜色を滲ませてそのあとに続いた。

 中は暗闇に満ちていたが、ほとんど何もない小さな部屋だ、目的のものはすぐに見つかった。それは部屋の中央で床に転がっていた。煌びやかな衣服を纏った、少女よりも一回り大きな塊だった。そしてこの部屋に満ちる腐敗臭の大本だった。先に部屋へ入った烏が塊の中程でその脇に立ち、既に嘴を使って器用にも衣服の一部をずらしていた。そしてその内側を、頭を煽ってつつき、引き裂いては喉へと流し込んでいる。

 少女も烏の隣に腰を下ろした。躊躇いなく両手を伸ばして塊に触れる。腐敗によって仄かに温みを帯びた肉へと指が沈み込む感触を確かめながら、手探りに目当てのものを探す。それはこの塊の――つまり人間の死骸の、眼球だった。頭部の左右から両手を当てて、死骸の顔を自分へと向かせると、親指を両の眼窩へ突き入れた。眼球はほとんど腐り果て、蛆に喰い尽されていたが、少女は無数に蠢く蛆ごと眼球を掴みだし、目の高さに掲げる。

「いただきます」

 そう静かに呟いて、少女は両手を口へと運んだ。

 とっぷりと更けてゆく夜闇の中で、一人と一羽の食事は静かに続いていた。

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