雨女
軒から滴る雨垂れが滝のようだった。真下に出来た水溜まりに落ちてジャボジャボと音を立てている。白く煙った視界の先は、どこまでも低く黒い雲が続いていた。このまま何日だって降り続くんじゃないかと思うほどの雨だった。
土間に転がっていた桶をひっくり返して、その上に腰を下ろす。濡れた服が肌にまとわりついて気持ち悪いし冷たい。後ろからの視線が気になりはしたが、
「ちょっと」
後方、少し離れたところから声が上がる。まあ、これは予想できたことだ。肩越しに振り返った。
急な雨から逃れて転がり込んだのは古びた納屋だった。正面以外の三面を壁で塞ぎ瓦を葺いただけの簡単な造りで、使われなくなって久しいのか酷く傷んでいたけれど、雨をしのぐくらいの役には立つ。見渡す限り田畑と林しかない道を土砂降りの中走り続け、ようやくこの納屋を見つけたときには助かったと思った。運動不足気味の体にむち打ち駆け寄ったものだ。しかし目の前にして、入るのに躊躇いを覚えた。
誰のものとも知らぬ敷地であった、というのもある。だがそれは初めからわかっていたことだ。それよりも、いざ近くで見てみると、思っていたよりもずっと傷みがすすんでいることに気圧されたのだ。一階部分が斜めに傾いでいる。屋根瓦があちこち剥がれてなくなっていて、落ちた瓦は地面を覆う背の高い草に隠れて見えない。敷地を囲っていたのであろうブロック塀は、基礎を残してほとんどが崩れてしまっていた。柱や壁は虫食いや腐敗が散見され、正面で軒を支える柱に至っては、一本が地面から浮いているような始末である。不気味であったというのがひとつ、もうひとつは倒壊を怖れたためだった。
そのとき、薄暗い納屋の奥から人影が、まるで染み出すように現れてぎょっとした。あろうことかその人影はぼうっと立ち尽くしてこちらへ手招きしているのである。あまりに出来すぎた状況に心が追いつかず、恐怖も忘れてその人影を凝視した。もし冷静さを少しでも忘れずにいたならば、むしろすぐにでもこの場を離れていただろう。しかし今回に限った話ならば、立ち尽くしたことが正解だった。なんのことはない。手招きしているのは、ただの少女だったのである。
納屋の奥で、二階に渡る勾配のきつい階段が左から右へと続いている。その中程に腰掛けた少女は、壁に顔を向けながら言った。辺りの影に隠れてしまってその面差しは窺えなかったが、声音には感情が鮮やかにのっていた。
「わたしがいるの、忘れてない?」
「ちょっとの間、勘弁してくれ。パンツまでずぶ濡れなんだ。まっぱにならないだけマシだろう?」
「そうじゃないでしょう……」
溜息交じりに言って、少女は肩を落とした。その拍子、天井から落ちた影の下から、少女の左の頬と目元が露わになる。口以上にものを言いそうな大きな目が今は半分くらいに細められて、不機嫌を雄弁に語っているが、キツい印象を与えないのは少し垂れた目尻のせいか。彼女の身に着ける、手が袖に隠れるほどダブついたセーラー服が一層彼女を子どもじみて見せるのかも知れない。
壁を見つめていた瞳が、すいとこちらを向いた。
「なに?」
問われて、目が合ってしまって、理由なく少女を見つめていたことを自覚した。ああ、いや、と曖昧に答ながら言葉を探す。納屋の外へ顔を戻すと雨は相変わらず激しく降り続いていた。田んぼの表面を雨煙が流れている。
「こんなところで、何してたんだ?」
「何って、そっちと一緒。雨宿り」
「それもそうか」
この雨だもんなあ。そうぼやくと、少女が思いの外勢い込んで頷く気配があった。ちらっと横目に窺えば、彼女は膝に両腕で頬杖突いて、むっすと唇を尖らせている。
あんまり幼い仕草に笑いがこぼれ、少女の厳しい視線をもらった。
「笑い事じゃないの。出掛けようと思うと、いっつも雨」
「そりゃ難儀なことで。雨女なんだな」
「……そう、雨女なの」
冗談めかしたつもりが、思いがけず少女は寂しげに肯う。よほど雨天に悪縁があるらしい。慰めるべき言葉も見つからず、「そうか」と薄っぺらい声を返す他なかった。なんとなく気まずい思いがして顔を逸らそうとしたが、その直前で少女がぱっとこちらを向く。ぎこちない笑みを浮かべているのは、彼女も重たい雰囲気を嫌ったからか。
少女は無理した明るい声で言う。
「あんた、見ない顔だけど」
「ん? ああ、久しぶりの帰省だ」
「そうなんだ。……って、どうしたの?」
話して思い出した。今は壁際に放り出してある、ここまで背負ってきた荷の中に着替えが一揃い入っているじゃないか。濡れた下着の不快感に耐えながら荷の所まで行って、服を引っ張り出す。多少湿ってはいたが、今着ているものなどより大分マシだ。
少女を振り返る。彼女も事情を察したようで、座ったままもうこちらに背を向けていた。
「すまんね」
「外からは丸見えなんですけど……」
「この雨じゃ、誰も見ちゃいないさ」
「そうかも知れないけどさっ」
などと言い合いながら、ちゃっちゃと服を脱いでいく。彼女へは気楽に返したが、なるべく外からは陰になるよう、壁際の柱に隠れて済ませた。濡れた服は、乾かすのを諦めて荷の底に突っ込んでしまう。
ひと心地ついて溜息がこぼれた。
「もういいぞ」
声を掛けたが、少女はすぐには振り返らない。
「そんなこと言って、まだ裸だったりしないでしょうね」
「バレたか」
「っ……」
「いや、冗談だよ、安心しろって」
ははは、と笑ってみせたが、振り返った少女の視線は冷ややかだった。初対面の、それも年頃の娘へ口にするには度が過ぎていたらしい。平たく笑い返されるよりはいいかも知れないが。何はともあれ両手を合わせ、謝罪した。
「すまん。気を悪くさせるつもりはなかったんだ」
しかしそれでは収まりがつかないらしく、少女は尚もむっつり口を噤んでいて、その上こちらがいっぽ歩み寄ると、怯えるみたいに身を縮めるではないか。怒らせたと言うよりも、警戒させてしまったらしい。束の間生まれた重たい沈黙を、大粒の雨がうるさいくらいに激しく叩く。風のせいか、雨量によるものか、納屋のどこかがぎしぎしと軋みを上げた。
雨に閉ざされた、こんな薄暗い場所で、見知らぬ男と二人きり。心細くて当たり前か。むしろ今まで無理して気丈に振る舞っていたのかも知れない。これ以上の詫びの言葉はむしろ軽薄に聞こえそうで、代わりに、着替えと一緒に取り出していた小袋のクッキーを一つ、少女に向けて放り投げた。手渡すのが礼儀だろうが、行き場がないのはお互い様なのだ、これ以上警戒されたら敵わない。
少女はぱっと手を挙げて受け止め、手にあるものを見て首を傾げる。
「なにこれ」
「電車の中で食べていた余り。やるよ」
「……。ありがと」
少女もその意味は気づいているのだろう。不承ぶしょうと礼の言葉を口にした。肩をすくめて返事とする。
彼女に背を向け、桶に座り直した。景色はまるで代わり映えしないが、水溜まりを無数の雫が打ち、同じだけの波紋が広がり重なって、綾織りみたいな複雑な模様を描く、それはいつまででも見ていられる気がした。背後から外装のビニルを破く音が、雨音に混じって届く。悟られぬよう、内心だけで胸を撫で下ろした。
少女はやや低い声で言った。不明瞭な発音は、クッキーが口の中にあるせいだろう。
「なんで、久しぶりなの?」
「あ?」
「家に帰るの」
「ああ。大した理由なんかないよ。仕事が忙しいとか、遠くて大変とか、そんなもんだ」
ほんとうはそれだけでもなかったが、敢えて口にはしなかった。
「ふうん。じゃあ、なんで帰ろうと思ったの?」
「なんで、って。それこそ理由なんかないな。たまには帰らなきゃな、と思って」
「帰らなくちゃ、いけないの?」
「たまにはな」
「じゃあ、今は帰りたい?」
「そりゃ、雨さえやめばなあ」
何を尋ねられているのだろう。そっと隠した本音を悟られているのかとも思ったし、ひょっとしたら少女は家に帰りたくないのだろうか、という想像もした。よくよく思い返すと、少女は雨宿りと言いながら、雨に濡れた様子はなかったのではないか?
キィ、と板が鳴る。振り返ると、少女が立ち上がって階段を下りていた。奥の壁沿いを下りきったところに小さな作業台があって、その上に少女の学生鞄が置かれている。彼女はそれを取ると、こちらを見た。素っ気なく一言、
「帰っていいよ」
と告げる。そしてすぐ横手の壁を軽く向こうへ押しやった。暗がりで気づいていなかったが、そこには裏口の戸があったらしい。あっさりと壁が四角く切り抜かれて片側へ開いていく。当然、その向こうは真っ白に煙るほど雨が降り続いていたが、少女は気にせずそちらに向けて踵を返す。
何を言っている。どこへ行く。そんな言葉を口にする暇もなかった。少女は細く開いた隙間に、躊躇いなく身を滑り込ませて外へ出て行く。そこで一度立ち止まり、こちらへ振り返った。
「クッキー、ありがと」
「いや、おいっ」
咄嗟に出た声は、きっと聞こえていただろうに、彼女を引き留めることはできなかった。呆気なく扉は閉じて、壁はもとの暗がりへと戻った。
……いや、違う。裏口の戸の足許に光が差していた。それは納屋の正面側から伸びてきている。まさか、と思い恐る恐るそちらへ目を向けた。
「嘘だろ」
いつの間に雨はやみ、あれだけ分厚かった雲の間からは青空が覗いていた。
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