君の幸せを

 僕は君に、幸せをあげることが出来たのだろうか。

 少年は穏やかな声で、掠れた声でそう問うた。

 彼の視線の先には少女の顔があった。少女は足をたたんで地べたに座り、顔をすぐ下に向けていた。少年は、彼女の膝を枕に身を横たえていた。少女もまた少年の顔を見つめていた。

 柔らかな風が吹いた。周囲一面に咲き誇る菜の花が風に巻かれてさやさやと揺れる。彼らの髪もまた、風の中に解けるようにふわりと舞った。少年は頬をなぜる感覚に目を細めた。温かな日差しがふたりを優しく照らしていた。

 少年が片手を持ち上げた。力なく、自身の重みにさえ耐えかねて震える腕は、ゆっくりと少女の頬へと近づいてゆく。それを、少女が両手で受け止めた。包み込むように少年の手を持って、しかし導く先は少年自身の胸の上だ。少年は僅かに口角を上げて苦笑いをした。ごめんよ、と空気が漏れるような声で呟いた。少女は何も言わなかった。

 少年は深く、ゆっくりと息を吸った。春の香りを楽しむみたいに目を閉じて、同じようにまた時間を掛けて息を吐く。吐ききって、しばらく少年は目を閉じたままだった。息を吸い込むこともなかった。

 少女が小さく首を傾げた。するとまた、少年が思い出したみたいに浅く息を吸う。うっすらと目を開けて、少女へ笑いかける。

 なんの話だったかな。

 問うても答えない少女の代わり、少年は束の間考えて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 そう。僕は、君を幸せにしてあげられたかい。

 少女は口を開かない。

 不幸だとあのとき叫んだ君は、少しでも幸せになれたのかな。

 彼らはそれでも、見つめ合ったままで。

 僕が死ぬことは、少しでも君のためになるのだろうか。

 少年は、青白くなった顔で無理に笑みを浮かべるのだった。

 少年の服は、手は、赤く赤く染まっていた。鮮やかな赤の水たまりは少年を中心に広がり続けていた。取り返しのつかないほどに、少年の命は溢れていた。

 少女はそれをただ見下ろしている。今にも消えそうな残り火に、手を添えて風よけにするでもなく、かといって吹き消してしまうでもなく、ただ、何も映さない透明な瞳で見つめている。傍らには血みどろの刃物があって、それはちょうど少女の手元に落ちていたわけだけれど、少女の顔にはなんの表情も浮かんではいなかった。

 達成感も、後悔も。恐怖も、高揚も。

 あるいは何かを感じていても、表現できるものではなかったのか。

 やがて、少年は諦念を込めて、仄かに笑みを含んだ息を吐いた。ぎこちない苦笑を少女へ向けて、最期にひとつだけ、小さく呼吸をした。もしかしたら少女の名を呼んだのかもしれなかった。

 それっきり、少年は二度と目を開けなかった。

 少女はしばらく彼の顔を見つめていたけれど、そのうちに、そっと少年の頬へ手を添えて、一度だけその冷たくなった頬をなぜた。少女の手もまた血に染まっていて、少年の頬が歪に赤く色づいた。無機質にそれを見下ろしていた少女が、今になってようやく口を開く。

「幸せ、ね」

 それはどこか、嘲笑を含んだ声だった。

「お前のせいでわたしは不幸になったんだ」

 聞く者のいなくなったその声は、誰に届くでもない。

「お前が死んだって、それは差し引きがなしになるだけだよ。お前の死は誰も幸せになんかしない」

 それから少女は、少年の頭を膝からそっと下ろした。立ち上がって、踵を返す足取りには迷いも躊躇いもない。

 少女の視界いっぱいに菜の花の黄色が広がっていた。それはまるで海のように、風に揺れ波立っていた。少女はその中へ思い切り駆けだした。

 駆け回る少女の後には、踏み潰された菜の花が残る。けれど少女は足を踏み出すのを躊躇わなかったし、すぐうしろで泥に埋まりかけた千切れた花弁になにを思うこともなかった。

 その代わり、今になって少女の顔には、満面の笑顔が咲いていた。大きく口を開けて、少女は幼子のように声を上げて笑っていた。

 ようやく解放されたのだ。

 それが少女には、ただ嬉しかった。

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